序. 教会の成長のために

 先々週、日本キリスト教会の第64回大会が開かれて、様々な報告がなされましたが、教勢を示す数字は軒並み低下しております。教勢で見る限り、日本キリスト教会は衰退の一途を辿っていると言わざるを得ないのであります。また、この伝道所を見ましても、主日礼拝の平均出席者数はここ5年、毎年1名ずつ位減っていますし、受洗者はもう6年も与えられていません。そういう面で見るならば、この伝道所も、残念ながら成長するどころか、衰退傾向にあるというのが現実であります。しかし、教会の勢いとか、成長しているかどうかということは、こうした数字だけでは表すことが出来ません。
 
ところで、私たちが4月から学んで来ましたこのエフェソの信徒への手紙の中心的なテーマは、「教会論」であります。<教会とは何か>、<教会はどうあるべきか>ということであります。なぜそのようなテーマが扱われて来たかと言えば、当時の教会の実状に問題があったからでありましょう。それは、教会が一つになっていないとうこと、教会内の不一致という問題でありました。
 今日から4章に入りますが、これまでの1章~3章では、教会論の教理的なこと、原理的なことが述べられて来たのでありました。そこで述べられて来たことを一言で要約すれば、<教会はキリストの体であって、頭であるキリストのもとに一つにまとめられるのだ>ということありました。そして、4章から最後までは、実践的なことに関する勧め(勧告)が長々と語られて参ります。
 今日はそのうちの、 41節から16節までの御言葉を与えられております。ここは、前半の1節から6節までと、後半の7節から16節までに分けることが出来ます。前半では、改めて、教会は一つであるということが強調されていて、その一致をもたらせるための勧告が語られています。後半の7節以下では、その一致ということと表裏の関係にあることですが、賜物の多様性のことが述べられていて、多様性の中での一致ということが語られているのであります。
 
その後半では、「成長」という言葉がキーワードになっておりまして、「成長」という言葉が3回出て来ます。また、13節には「成熟した人間」という言葉が出て来て、この言葉を今日の説教の題にしたのですが、ここの「人間」というのは、教会に属する一人一人の人間のことを指しているとともに、信徒の集合体である教会のことを表わしているとも受け取ることが出来るのでありまして、ここでは「教会の成熟」ということはどういうことなのか、<教会はどのようにして成長し、成熟に至るのか>ということが述べられているのであります。
 
先程冒頭で、教会の教勢が衰えていることを述べました。こうした目に見える教勢の数字を決して軽視することは出来ませんが、教会においてはもっと大事なことがあります。数字だけが伸びても、教会が成熟したとは言えない場合があります。では、何が本当の成長なのか、成熟した教会とはどうなることなのか、どうすれば成熟できるのか。――今日はそのことを与えられた箇所から学びたいと思います。
 
なお、まだ洗礼を受けておられなくて、教会の会員になっておられない求道中の方は、自分の成長とか成熟いうことには関心があるけれども、教会の成長とか成熟ということには、まだピンと来ないと思われるかもしれませんが、実は、ここで語られていることは、個人の信仰上の成長、人間としての本来の成熟ということとも大いに関わっていることでありますし、求道者も含めた一人一人の信仰上の成長が教会全体の成長に深く関わっていますので、ここから自分たちの成長にとって何が大切であるか、それが教会の成長にどう関わるのかということを聴き取っていただきたいと思うのであります。

1.体は一つ

 さて、4章に至って、勧告を始めるに当たって、まず1節にあるように、そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます、と言っております。ここで、「囚人になっている」と言っているのは、筆者とされるパウロが現に、何度も囚人にされた経験を持つ人であったので、それを踏まえた言葉ではありますが、ここで言う囚人とは、単に迫害を受けて囚人になったというだけではなくて、<キリストによって捕えられた人>という意味であります。つまり、<キリスト者というのは、自分のように、キリストに捕えられた者のことである>、ということから話を始めるのであります。私たち、こうして教会に来ている者は、教会員であろうと、求道中の方であろうと、キリストに招かれ、捕えられた者であります。<まだ、自分は捕えられていない>、<まだ、自分は一人前のキリスト者ではない>と思っているとしても、まず、今、この所にあることを、神様の招きとして、感謝をもって受け止めることから始めたいと思います。
 次に早速、招かれた私たちに対する勧めが語られます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、と言いながら、四つのことを勧めております。一つは、一切高ぶることなく、言い換えると、「謙遜」ということ、二つ目は、柔和、三つ目は、寛容の心を持つこと、そして四つ目は、愛をもって互いに忍耐することであります。謙遜と柔和と寛容と忍耐――これらの徳目について詳しく述べることはいたしませんが、いずれも、非常に控え目な態度を表わしています。反対の態度を考えればよく分かりますが、謙遜の反対は傲慢、柔和の反対は猛々しさ、寛容の反対は偏狭、忍耐の反対は自己本位と言ってよいでしょう。神様に招かれた者に相応しいのは、そうした自己主張的な態度ではなくて、神様と人の前にへりくだる態度であります。今日の箇所のテーマは教会の成長ということでありますが、そのために教会に招かれた者たちに必要なことは、まずは、こうしたへりくだりの態度であります。もし、教会に成長が見られないとすれば、まずは、ここで勧められているような態度を失っていないかどうかを顧みる必要があります。教会が成長しないのは、教会の一致に破れが生じている場合が多いように思います。一致に破れが生じるのは、ここで勧められているようなことと逆の態度があるからであります。
 では、ここで勧められているような態度は、どうして養われるのでしょうか。これら4つの徳目を破りそうになる自分を押さえながら、我慢して修行をするというようなことなのでしょうか。そうではありません。3節を見ると、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい、と言っております。「平和のきずな」とは何でしょうか。先週の青木先生の説教で「和解をさせる神」というお話を聴きました。和解と平和を生み出すのは、他でもなく神様であります。私たちの謙遜や柔和や寛容や忍耐によるのではなくて、神様が罪深い私たちに対して、独り子を十字架に渡すほどに、謙遜で柔和で寛容で忍耐深くあられたから、私たちは平和の絆で結ばれるのであります。また、「霊による一致」と言われています。ここで、「霊」とは聖霊のことであります。単なる精神的な一致とか、共通の思いといった人間的な一体感のようなことではなくて、聖霊による一致であります。神様の赦しの愛が聖霊を通して私たちに注がれることによって、私たちの間に一致がもたらされるのであります。私たちが努めなければならないことは、この聖霊によってもたらされる平和と一致を信じて、祈るということではないでしょうか。
 4節から6節では「一つ」ということが七回も繰り返されています。教会の一致のためには、23節で勧められていたように、私たちが謙遜になり、柔和であり、寛容の心を持ち、愛をもって互いに忍耐することが大切なのでありますが、その前に、既に、教会というキリストのは一つであり、そこに働く(聖霊)は一つであり、与えられている希望も一つであります。また、教会の主はキリストお一人であり、信仰というのは、そのお一人の方を信じることでありますから、一つでありますし、信仰に入ることのしるしである洗礼も一つでありますし、何よりも、父なる様は唯一のお方であります。ですから、教会の一致は、私たちがこれから努力して創り出さねばならないものではなくて、すでに与えられているものであります。大事なことは、その与えられている一致の基礎(土台)の上にしっかりと立つということであります。この基礎の上に立つとき、教会は一致することが出来るし、成長に向けての足場が出来るということになります。

2.多様性における一致

 さて、7節以降は、「一つ」ということとは裏腹に見えることですが、教会における賜物の多様性について語られています。7節では、こう言っております。しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。教会に属する皆が一致するための基礎は一つなのですが、皆が同じ賜物を持ち、同じ働きをしなければならないということではありません。それぞれ個性を持ち、異なる賜物を持ち、従って、それぞれの奉仕の仕方、働きの内容は違っていてよいのであります。パウロはコリントの信徒への手紙の中でこう言っております。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」(Ⅰコリント1246

 また、教会をキリストの体であるとした上で、こうも言っております。「体は一つに部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって、『お前は要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(Ⅰコリント121422)――これはよく分かることですね。教会に来ている皆が、同じことをする必要はありません。むしろ一人一人の個性や能力の違いが生かされて、それぞれの奉仕がなされることによって、教会全体が成長し、前進するのであります。この小さな伝道所の中にも、男の人も女の人も、若い人から高齢者まで、現役で働いている人から、引退している人や施設にいる人まで、お金持ちも貧乏人も、信仰暦の長い人も短い人もいるから、教会全体としての働きができるし、成長できるのであります。もう年老いて、何も奉仕の業も出来ないから、迷惑だとか、要らないということにはなりません。礼拝の時にそこに座っているだけで、皆に元気を与えるという、欠かせない大きな働きができるのであります。

 8節から10節の部分は、詩編の言葉を引用しながら、キリストが地上に降りて来られたことと、天に昇られたことの意味を述べているのですが、この詩編の解釈を巡って、色々な議論があって、その説明をするとかえってややこしくなりますので、省略させていただきます。そして、続く11節は7節の続きとして読むことが出来ます。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。11節)ここには当時の教会における5つの役職が挙げられています。おそらく、こうした役割の間で、どういう働きを分担するのか、どれが重要な働きか、どちらが上に立つのか、といった議論がなされていたのかもしれません。そしてそういうことが、教会の一致を妨げているという現実があったのかもしれません。しかし、教会の中の役職に優劣や上下はありません。牧師が長老や委員の上にあるのではありません。長老や委員が一般信徒より優れているわけでもありません。単に役割の違いに過ぎません。皆が同じ役割を果たすことが出来ません。賜物やそれぞれの置かれている状況が違うので、それに合わせて、役割の分担が行われるだけであります。役職につかないと、奉仕が出来ないわけでもありません。それぞれが、出来ることを精一杯して、教会の働きは成り立つのです。

3.信仰と知識において

 続けて1213節の言葉を聞きます。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。――ここで「聖なる者たち」と言われているのは、特別な聖職者のことを言っているのではありません。一般の信徒のことです。信徒の誰もが、適した奉仕の業に参加することによって、教会というキリストの体が造り上げられて行く、ということであります。造り上げられるだけでなく、ついには「成熟した人間(教会)」にまで成長する、と言うのであります。
 ここで聞き落としてはならない言葉があります。それは、「神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり」という言葉であります。神の子、即ち、イエス・キリストに対する信仰と知識が一致していなければ、信仰者としても、教会としても成熟したとは言えないということです。当たり前のことを述べているように思われるかもしれませんが、信仰と知識と並べて言われていることがポイントです。信仰と知識は車の両輪のようなもので、片方だけでは成熟した信仰者にも教会にもなり得ないということです。知識の伴わない信仰は、狂信や盲信、迷信に陥ってしまいます。ここで言っている知識というのは、決して頭だけで理解する知識のことではありません。神の子イエス・キリストとの生きた交わりを通して与えられる知識であります。イエス・キリストとの交わりは教会の礼拝で御言葉を聴くことによって与えられます。本を読んで知る知識ではなくて、御言葉にぶつかって、キリストの人格に触れて知る知識であります。しかし、知識だけではいけません。信仰が伴わない知識は、頭の中だけの信仰に陥ります。聖書のこと、教会のことについてどれだけ多くの知識を持っていても、キリストを信頼する心とキリストに従って行こうとの行動を伴わない信仰は死んだ信仰であって、成熟した信仰者にはなり得ません。教会に集うものが、このような信仰と知識において一つのものとなった時に、一人一人が成熟した信仰者になり、全体として成熟した教会となるのであります。

4.愛に根ざして

 信徒の成長、教会の成長ということで、目指すべき最終的な目標があります。そのことが1415節に書かれています。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。――信仰と知識の両輪において成熟することによって、未熟な者ではなくなります。そうなると「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすること」がなくなります。つまり、悪魔の策略に惑わされることがなくなる、ということであります。悪魔は絶えず教会を襲って、教会の一致をぶち壊そうとしています。分裂を引き起こそうとしています。その中で大切なことは、先程の信仰と知識において成熟することであります。しかし、悪魔にぶち壊されないだけが、教会の目指す所ではありません。目指すべき目標が、「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長する」ということであります。
 教会は、単に真理を語るだけのところではありません。自分たちの正しいことを主張するだけのところではありません。「愛に根ざして真理を語る」のであります。愛とは、他の人との関係において働くものであります。他の人のために真理を語るのであります。他の人もキリストの愛に触れ、キリストに向かうことを願うことであります。いくら信仰と知識において成熟していても、愛がなければ、キリストを頭とする教会にはなり得ません。どうすればその目標に達することが出来るのでしょうか。それは、壊れやすい私たちの愛によるのではなくて、キリストの愛が語られ、キリストの愛の中に共に包み込まれることによってであります。

結.キリストの体全体の成長

 最後に、16節を読みます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結びあわされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。――教会はキリストの体であります。キリストはどこか別のところにおられて、教会をコントロールしておられるのではありません。欠けの多い、罪深い私たちが組み合わされてキリストの体である教会となるのであります。もちろん、その頭はキリストであります。そして、私たちはキリストの体の部分であり節々であります。それがキリストの体を構成しているのであります。これは、畏れ多いことでありますが、神様はこれ以外の方法で教会を形成しようとは考えられませんでしたし、神の国を来たらせようとはされないのであります。これは驚くべきことであります。しかし、キリストの体を構成している私たち一人一人は極めて脆い者たちであります。教会はうっかりすると悪魔によって壊されてしまいます。けれども、頭にはキリストがおられます。そのキリストにつながっている限り、体は一つであり、キリストに向かって成長を続けることができるのであります。この小さな伝道所も例外ではありません。 祈りましょう。

祈  り

教会の頭なるイエス・キリストの父なる神様!
 私のようなもの、また私たちのようなものを、キリストを頭とする教会に招き入れてくださり、その部分・節々としてくださった恵みを感謝いたします。しかしながら、私たちはなお罪深く、私たちの間には一致が欠けており、信仰と知識において未熟であり、愛の少ない者であって、悪魔の入り込む隙が多くございます。
 
けれども、イエス・キリストはそんな私たちのところにも降りて来て、教会の頭となってくださって、私たちをも用いて、教会の体全体を組み上げようとなさっていることを覚え、信じる者でございます。
 
どうか、この召しに応える者たちとならせてください。どうか、一人一人に与えられた賜物を生かして、それぞれの分に応じた働きを行う者とならせてください。どうか、信仰と知識において成熟した者とされ、愛に根ざして真理を証しする者とならせてください。そしてどうか、キリストの豊かさに満ちあふれた教会へと成長させてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年10月26日  山本 清牧師 

 聖  書:エフェソの信徒への手紙 4:1ー16
 説教題:「
成熟した人間」         説教リストに戻る