序. その日の夕方になって

 今日与えられているマルコによる福音書435節以下の箇所は、日曜学校カリキュラムに従って礼拝説教をしていた昨年の1月にも取り上げましたし、マタイ福音書とルカ福音書にも同じ出来事が記されているので、皆さまも何度か聞かれた話ではないかと思います。そういう箇所を新鮮な思いで聞くということは、なかなか難しいもので、話す方も正直なところ、新しいメッセージを聴き取って話すことには大変苦労するのであります。
 今回は、マルコ福音書を4月から連続講解説教の形で取り上げて来ている中で、今回の出来事のところに至ったわけですので、そのような前後のつながりで今日の箇所を見直すことが、この箇所を新しく聴き直す手掛かりになるのではないかと思いました。そういう視点で今日の箇所の初めを見ますと、その日の夕方になって、という言葉で始まっております。4章に入ってから、5つの譬えが語られて来ました。どれも、主イエスが「神の国」のことを譬えで話されたのであります。その同じ日の夕方の出来事が今日の箇所であります。それらの譬えを通して語られたことの大事な点は、神の国(神様の御支配)というのは、御言葉の種を聴いて受け入れて、それが成長することによって私たちの中に実を結ぶものである、ということです。御言葉が私たちの中に神の国を創り出し、成長させるのであります。御言葉の力が、私たちを神の国に導くと言ってよいわけです。
 今日の箇所から後は、主イエスがなさった奇跡の出来事が次々と書かれて参ります。奇跡の出来事がどうして起こるのかと言うと、主イエスの持っておられる神通力や超能力が働いて起こるのではなくて、主イエスが語られる御言葉の力によって起こるのであります。そしてそこに、主イエスと御言葉を受けた人との間に新しい関係が生まれるのです。それが、神の国であります。神様の御支配が始まるのです。今日の箇所は、主イエスと弟子たちが舟に乗って湖を渡ろうとされた時に、激しい突風が起こって、舟が沈みそうになった時に、主イエスが「黙れ。静まれ」という御言葉を語られると、風がやんで、凪になったという奇跡的な出来事が書かれているのですが、これも、主イエスの持っておられる超能力が働いたのではなくて、御言葉の力が働いたのであって、しかも、大切な点は、突風という自然現象が治まったということではなくて、弟子たちが御言葉の力に触れて、彼らの信仰が前進して、神の国に近づいたということなのであります。
 そういうことですから、今日は、主イエスの御言葉の力と弟子たちの信仰の関係に着目しながら、出来事の経緯を辿って行きたいと思います。そして、私たちも主イエスの御言葉を受けて、神の国の現実の中に入れられ、信仰を前進させていただきたいのであります。

1.「向こう岸に渡ろう」

 さて、その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われました(35)。ここから、主イエスの御言葉の語りかけが始まっています。弟子たちのところに神の国を近づける働きかけが始まっているのであります。なぜ、主イエスは「向こう岸へ渡ろう」とされたのか。一つは、ここまでの中でも、人里離れた所へ行かれたり、山に登られたりされたことがありましたように、癒しを求めて押し寄せて来る群衆から距離を置くためであります。同時に、それだけではなく、弟子たちを教育する時を持ちたいという意図もあったと考えられます。また、「向こう岸」というのは、異邦人の住む地域であります。ユダヤ人だけではなく、異邦人にも神の国の福音を届けたいという思いが主イエスにはあったのかもしれません。そのことを弟子たちも実体験するようにという意図があったと思われます。さらには、安全な「こちら側の岸」に留まっているのではなくて、「向こう岸に渡る」ことによって危険が待っているかもしれないのですが、敢えてそこに乗り出すことによって、弟子たち自身の信仰を強めるという目的があったのではないか、と思われます。そして、危険に遭遇する中で、弟子たちに御言葉の力の現実を知らせるという意図もあったのではないか、ということであります。
 私たちにも、これまでに築いてきた自分の人生の安全の中に留まっていたいという思いがあるかもしれません。しかし、そのような私たちに、主イエスが「向こう岸に渡ろう」とおっしゃる時があるのではないでしょうか。向こう岸に渡ることは、これまでの波風の立たない安全で幸せな生活を危険に曝すことになるかもしれません。しかし、主イエスは、「私と一緒に、向こう岸へ渡ろう」と呼びかけられることがあるのではないでしょうか。私たちだけで放り出されるのではありません。主イエスが同行してくださるのです。というより、主イエスが先に立っておられて、それに私たちは従って行くのです。主イエスと共に乗る舟は、しばしば教会に喩えられます。ここでも、主イエスと共に世の荒海に乗り出す教会の姿を重ね合わせることもよいでしょうが、私たち一人一人の信仰の人生と重ね合わせることも出来るのではないでしょうか。いずれにしろ、今日、私たちに聞かされている最初の御言葉は、「向こう岸に渡ろう」という呼びかけであります。私たちの生き方・私たちの人生を、主イエスと共に「向こう岸」に渡る人生に切り替えることが、呼びかけられているのであります。

2.「先生、わたしたちがおぼれても・・・」

 主イエスの提案を受けて、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出しました。(36節)もう夕方になっていましたから、夜の船旅ということになります。弟子たちの中には元は漁師だった人もいますので、夜間に舟で出かけるということに不安はなかったかもしれません。あるいは、ガリラヤ湖の変わりやすい気象のことをよく知っている弟子がいただけに、この日の船旅には不安を覚えて躊躇したかもしれませんが、主イエスが一緒だから安心だと思い直したのでしょうか、或いは、不安なまま、しぶしぶ主イエスのお言葉に従ったのでしょうか。とにかく、舟を漕ぎ出しました。

 ところが、やがて、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどになりました。ガリラヤ湖のことをよく知っている弟子は、「こんな日の船旅は考え直してもらったらよかった」と思ったかもしれません。あるいは、主イエスが一諸なのだから、何とかしてもらいたい」と思った弟子がいたかもしれません。いずれにしても、「これは大変なことになった」と弟子たちは大慌てであります。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられました。主イエスも生身の人間であられます。一日中、休む間もなく人々に話をされたり、癒しの業をされたりで、お疲れになっていたのでしょう。この様子を見た弟子たちは、主イエスを起こしてこう言いました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。」――この弟子たちの言葉から、彼らの内心の思いを色々と読み取ることができます。彼らは舟が沈没するかもしれないという危険の中で、怖れています。主イエスが「向こう岸に渡ろう」と言い出されたのですから、必ず、向こう岸まで行きつける筈です。彼らは主イエスの言葉を信じていないということです。信じていないだけではなくて、主イエスが眠っておられて、弟子たちのことを心配しておられないことに対して文句さえ言っております。<自分たちはこんなに心配しているのに、なぜ一緒に心配してくれないのか>という不満、腹立たしい思いを口にしているのであります。彼らがこう言ったのは、主イエスにお願いすれば、この危機を脱することが出来るかもしれないという思いがあったのかもしれません。それは、主イエスに対する一定の信頼を表わしていると言えるでしょう。しかし、その信頼というのは、困っている時の神頼みであって、主イエスの所へ押しかけた群衆の期待と同じレベルの信頼だと言えます。主イエスが「向こう岸へ渡ろう」と言われた御言葉の力が弟子たちには根付いていないのであります。それは、「種蒔きの譬え」でおっしゃった、石だらけの土地と同じです。主イエスが譬えの解説をされた時に、こう言われました。「石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」(1617節)と。弟子たちの信仰はこのように、危機の中で簡単にふっ飛んでしまうような信仰であったことが露呈しているのであります。御言葉の力を信じていないのであります。私たちの信仰も、このようなものであるかもしれません。しかし、主イエスは、そういう弟子たちや私たちの信仰を見越して、「種蒔きの譬え」を話されましたし、そのような自分たちの信仰に気づかせるために、「向こう岸に渡ろう」と言わてれ、舟が沈むばかりになる湖に漕ぎ出させられたのではないでしょうか。

3.「黙れ、静まれ」

 弟子たちに眠りから起こされた主イエスは、起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われました。(39節)「風を叱り」という表現、また風や湖に向かって「黙れ」と命令されることは、風や湖に人格があるような面白い表現ですが、これは、主イエスの御言葉の力が風や湖のような自然に対しても通用するということを表わしていると言えるでしょう。神様は言葉によって世界を創造されましたが、主イエスも御言葉をもって自然をも御支配なさるのであります。しかし、冒頭でも申しましたように、これを主イエスの超能力のように理解することは間違いです。御言葉というのは、その人の人格から発せられるものであります。そこには、その言葉を発した人の怒りや愛や慈しみが込められています。御言葉の力というのは、人格の力、愛の力であります。言葉を発するということは、口先だけの営みではありません。その人から力が出て行くということです。主イエスはこの時、渾身の思いをもって、力を振り絞って、風や湖にも立ち向かっておられるのであります。その渾身の思いは、ただ風や湖に対して向けられただけではなくて、弟子たちにも向けられていたと受け止めることが出来るのではないでしょうか。「黙れ。静まれ」という御言葉は、風や湖にだけではなくて、不信仰な弟子たちにも向けて語られた御言葉であったと受け取ってよいでしょう。何とか彼らの中に強い信仰をもたらせたい、彼らを救いたい、彼らを神の国に入れたい、との思いをもって、彼らをも叱り、彼らの魂に語りかけられたのであります。風や湖を従わせるには、当然、大きな力を消耗するでしょう。主イエスは身を削って、風や湖を従わせられた筈であります。それと同時に、不信仰な弟子たちの信仰を目覚めさせ、神の国へと導くためにも、風や湖を従わせる以上の大きな力が必要でしょう。それは十字架の苦しみに耐えるほどのエネルギーを要することであります。主イエスはそのためにこそ、渾身の力を振り絞って、「黙れ。静まれ」と語っておられるのであります。

4.「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」

 さて、主イエスが風と湖に向かって「黙れ。静まれ」と言われますと、風はやみ、すっかり凪になりました。主イエスは風や湖を支配なさいました。主イエスが自然をも支配されるお方であることが明らかになりました。
 けれども、弟子たちはここまで、主イエスをそのようには見ていませんでした。艫の方で眠っておられた主イエスを起こしたのは、主イエスが風や湖に対して何らかの力を発揮してくださるかもしれない、あるいは自分たちが風や荒れる湖から逃れる何らかの方法を示してくださるかもしれないという期待があったからだとも言えるのですが、彼らが主イエスを完全に信頼し切ることは出来なくて、恐怖に陥ったのは事実であります。主イエスはその事実に対して、弟子たちに向かって言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」――主イエスは弟子たちの不信仰をはっきりと強く批難されました。弟子たちは、主イエスと一緒に舟に乗っており、主イエスがそこで平然と眠っておられたのに、彼らは主イエスには風や荒れる湖を静める力はないかのように、怖がってしまいました。彼らの主イエスに対する不信仰が明らかになりました。ファウスティというカトリックの司祭は、こう言っております。「恐怖と信仰とは正反対である。信仰とは、怖れずにイエスと一緒に沈むこと、イエスの言葉を受け入れて、イエスと一緒に眠ることである。こうしてイエスはわたしたちとともにいることになる。信仰とは、自分の生命、死、そして恐怖を、その生命の主にゆだねることだ」と。――確かに、そういう信頼し切った態度というものが理想的な信仰のあり方なのかもしれません。
 しかし、加藤常昭先生は、この箇所の説教の中で違う見方を語っておられます。「イエスは眠っておられる。ここは神様が助けてくださるに違いない、われわれも寝ようか。そう言って漕ぐのをやめて横になる。後は神さまにお任せ、それが信仰というものだろうか。・・・それでは、少し話がおかしい。おそらくそんなふうにして、神が嵐を静めておしまいになるとは考えられない。私どもにすぐ想像がつくことは、弟子たちがなおせっせと漕ぐことです。主イエスが寝ておられる姿を見ながら、安んじて漕ぐことです。・・・ここで弟子たちに求められているのは、そういうことであったに違いない。主イエスは弟子たちに全部お任せになったので、眠っておられたのです。弟子たちは主イエスを運ぶ務めを与えられていたのです。」――つまり、ここで弟子たちに求められていることは、「向こう岸に渡ろう」と言われた主イエスの御言葉に信頼しつつ、舟が水浸しになった中でも、水を懸命にかい出しながら、主イエスの言葉に従って、舟を前へ進めることではないか。それが主イエスに対する信頼であり、そこに信仰者の姿があるのではないか、ということであります。主イエスが「まだ信じないのか」と言われたのは、そのように主イエスの御言葉を信じ、従わなかったことではないか、ということを加藤先生はおっしゃりたいのだろうと思います。
 先程、主イエスが風と湖に向かって「黙れ。静まれ」と言われた言葉は、弟子たちにも向けられた言葉ではなかったか、ということを申しましたが、これはまた、私たちに向けても語られている言葉ではないでしょうか。私たちも主イエスとともに、教会という舟に乗って、「向こう岸に渡ろう」と言われた者たちであります。しかし、その途中で襲ってくる様々な困難や、場合によっては自分たちに不利益が及びかねない事態に直面して、私たちは主イエスの言葉を信頼していてよいのだろうか、という不安に陥るのであります。そして、主イエスに不平や不満を漏らすのであります。そういう私たちに、主イエスは「黙れ。静まれ」と命じられ、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」言っておられるのではないでしょうか。
 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」という言葉は、疑問の形をとっていますが、<お前たちが怖がる理由が分からない>とか<なぜまだ信じられないのか理解できない>という意味ではないでしょう。そうではなくて、<私があなたがたと一緒にいるではないか。私が「向こう岸へ渡ろう」と言ったではないか。だから何も怖がることはないではないか>ということであり、<だから、私を信じればよいのだ>という、弟子たちや私たちの信仰を促す心が込められた言葉であって、単に弟子たちを批難するだけの言葉ではないし、弟子たちの信仰が分からないという疑問の言葉でもないのではないでしょうか。

5.「いったい、この方はどなた・・・」

 最後に、この言葉を聞いた弟子たちは、非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った、と書かれています。ここで「恐れて」と訳されている言葉は、「怖がる」と言われている言葉とは違って、「畏敬する」とも訳される言葉であります。主イエスの御言葉には自然をも支配される力があることに対して畏敬の念を抱いた、ということであります。それはしかし、ただ自然をも支配される力に対する驚きだけではなくて、不信仰な自分たちに対して権威あるも言葉を語られたことに対して、畏敬の念を抱いたということでもあるでしょう。不信仰な自分たちを、その罪の中から救い出されるという、愛に満ちた権威を覚えたということではないでしょうか。
 「いったい、この方はどなただろう」という言葉は、主イエスのことが分からなくなったという疑問の言葉というよりも、主イエスの御言葉の権威に触れて、畏敬の思いをもって口を突いて出た、驚きの言葉だと言った方がよいでしょう。

結.御言葉の権威のもとで――私たちの信仰生活

 私たちの信仰生活というのは、神様を信頼して、何の心配も無く、いつも心安らかにおれるというものではありません。主イエスの招きを受け、主イエスと共に歩んでいる筈の信仰生活・教会生活でありながら、日々襲ってくる出来事の中で、不安を覚えざるを得ないことがしばしばであります。しかし、そうした中で、私たちには御言葉が与えられているのであります。そして、主の御言葉によって、主イエスの権威に触れるのであります。そのような御言葉を聴いて、私たちは「いったい、この方はどなただろう」と驚きの声を上げざるを得なくなるのです。しかし、そうして、「主イエスは誰なのか」と問い続け、御言葉に聴き続けること、それが、私たちの信仰生活であり、それが、神の国に入る道であり、神様の権威、神様の御支配のもとに生きるということなのであります。 祈りましょう。

 祈  り

主イエス・キリストの父なる神様!
 私たちは、身の周りに起こる様々な出来事によって、怖れたり、不安になったりする不信仰な者でありますが、今日は、そのような私たちに対して、「黙れ。静まれ」と命じ給い、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」との厳しいお言葉もいただきましたが、同時に、自然をも御支配なさる主の権威にも触れることが許され、驚きをもって御前にあります。
 どうか、御言葉に聴き続けることが出来るようにして下さい。どうか、御言葉の権威とその御支配のもとに、あなたから離れず従って行く者とならせてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年10月12日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 4:35ー41
 説教題:「
なぜ怖がるのか」         説教リストに戻る