序. 神の国の譬え

 今日与えられております、マルコ福音書426節の初めに、こう書かれています。また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。」また、30節の初めにはこう書かれています。更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。」――今日の箇所では、小見出しにあるように、「成長する種」の譬えと「からし種」の譬えの二つの譬えが記されているのですが、どちらも、「神の国」についての譬えであります。
 先日(930日)、松江地区家庭集会がありました。松江集会では、「イエスに出会った人々」を順に取り上げて来ていて、先日はその20回目で、「金持ちの青年」のことを取り上げました。この青年は主イエスのところにやって来て、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と質問しました。(この話は多くの方はよくご存じだと思いますので、端折ってお話ししますが、)主イエスはこの質問に対して、「掟を守りなさい」とおっしゃって、十戒の後半をお示しになりますと、その青年は、「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と言ったので、主イエスは「持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる」と言われたのであります。その言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去ったのでありました。このあと、主イエスは弟子たちに、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。この対話から分かることは、この青年が求めた「永遠の命」というのが、「天に宝を積む」と言い換えられ、「神の国」とも言い換えられているのであります。この話をした後、倉田さんから「神の国とは何か説明してください」という質問が出ました。(これは倉田さんが、そこにいた多くの求道者のことを配慮して質問されたのだと思います。)それに対して私は、<「神の国」というのは、聖書の中では「天の国」とも言われているが、それは「国」と言っても領土を持った国のことではなくて、「神の支配」のことだ>という説明をしました。その説明で求道者の方にどれだけ分かっていただけたかは分かりませんが、神の国というのは、地上のどこかに建設されるべきユートピアのようなものとか、私たちの心の中に描く理想の世界のようなものではなくて、神様が現実に主権を行使なさること、神様の御心が現に行われている状態のことを言います。そして、主イエスは、宣教の活動を始められて語られたことは、その神の国が近づいた、ということでありました。神の支配は遠い未来のことではなくて、主イエスが来られたことによって、現実のこととなるということでした。

1.神の国が見えない中で

 では、「神の国が近づいた」という主イエスの御言葉を、人々はどう受け止めたのでしょうか。人々が目にし、日々体験していることは、決して「神の国」とか「天国」という言葉でイメージされるような、何の心配もない、満たされた状態ではなかった筈であります。当時の政治的・経済的状況は決してよい状況ではありませんでしたし、病気や貧困で苦しむ人たちもたくさんいました。とても神の国が近づいたとは思えないような状態であったと思われます。そうした中で、主イエスはマルコ福音書のここまでの記述にもありましたように、重い皮膚病の人を癒したり、汚れた霊につかれた人を清めたり、手の萎えた人の手を伸ばしたりされました。そうしたことを見て、多くの人たちが主イエスに希望を見出そうとしたのでした。しかし、そこには、「神の国」に対する誤解もあります。あるいは、そのような具体的な恵みを受けられなくて、主イエスの言われることが信用出来なくなったり、神の国のことが分からなくなってしまう人たちもいたのではないでしょうか。いや、弟子たちでさえ、主イエスの語られる「神の国」のことがはっきりと理解出来たわけではなかったと思われます。
 そうした中で、主イエスは4章の初めで、「種を蒔く人」の譬えを語られました。その譬えの中では、直接「神の国」という言葉は出て来ませんでしたが、譬えを話された後で弟子たちに語られたことの中で、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている、外の人々には、全てがたとえで示される」(411)と述べておられるので、「種を蒔く人」の譬えも神の国の譬えであることが分かります。この譬えでは、神の言葉が「種」に譬えられていて、種が道端や石だらけの土地や茨でふさがれた土地に蒔かれると実を結ばないのに対して、良い土地に蒔かれた種は、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶと語られていました。ですから、神の国というのは、神の言葉によって私たちにもたらされるものだということが分かります。しかし、神の言葉を受ける私たちという「土地」に問題があって、神の国が実を結ばない場合があるのだけれども、神の言葉を聞いて受け入れるならば、「種」である神の言葉自体には大きな成長力があるので、驚くほどの実を結ぶことが出来るのだ、という譬えでありました。
 21節からの「ともし火」の譬えと「秤」の譬えも、やっぱり神の国の譬えと言えると思います。「ともし火」の譬えでは、せっかく光をもたらす「ともし火」を升の下や寝台の下に置いたのでは、役に立たなくて、燭台の上に置くべきことが語られていました。この譬えでは、せっかく聞いた御言葉の光を隠しておく愚かさに気づくべきことと、御言葉自体を隠し通すことが出来ないことが述べられていたのであります。また、「秤」の譬えでは、せっかく大量の恵みの御言葉を与えられているのに、自分の小さな秤で量ることの愚かさが述べられていて、自分の秤を捨てて、つまり悔い改めて、御言葉をそのまま恵みとして受け入れる時に、神の国の大きな恵みを受け取ることが出来ることを教えられたのでありました。
 ここまでの三つの譬えは、いずれも神の言葉をどう受け取るかということで、神の国の恵みに与れるかどうかがかかっているということが教えられていたのですが、今日の二つの譬えでは、神の言葉に譬えられる「種」自体の中に秘められている成長力が強調されています。

2.ひとりでに実を結ぶ

 まず、「成長する種」の譬えですが、まず、こう語られています。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」26b~27

 一般に、農夫は種を蒔きますが、その種が芽を出して成長するのはどうしてなのかを知りません。肥料のやり方や雑草の駆除の仕方は経験的に知るでしょうが、種自体がどうして発育するのかは知りません。現代の科学では、種の成長のメカニズムもある程度は解明されて来ていて、それをコントロールする技術も開発されているのかもしれませんが、種の持つ命自体を左右することは出来ません。ましてや、この譬えが語られた時代の農夫が、種の成長をコントロールすることなど考えられないことでした。これはあくまでも譬えであって、たとえ将来において種の成長のメカニズムが完全に解明されたとしても、この譬えで語ろうとされていることの真実が変わるわけではありません。ここで語られていることは、「種」で表わされる神の言葉自体に秘められている生命力、成長力のことで、それは人間の力では左右出来ないということです。

 28節には、土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる、と述べられています。「ひとりでに」という言葉は、ギリシャ語で「アウトマテー」というのですが、これは英語のオートマティックの元になった語です。ですからここは、<自動的に>、<自発的な働きによって>という意味です。種自体も特別な努力をするわけではありません。死んだように見える種に元々成長力が備わっているのであります。金持ちの青年は自分が善いことをすることによって神の国を引き寄せようとしましたが、出来ませんでした。律法学者やファリサイ派の人々は、律法を言葉どおりに守ることによって神の国に入る資格を得ようとしました。熱心党と言われる人々は、革命によってユダヤの国を神の国に近づけようとしました。しかし、それらは皆、愚かなことであります。そうすることによって、かえって神の国を遠ざけてしまいかねません。神の言葉自体が持っている成長力に委ねるべきなのであります。

 もちろん、私たちは何もしないで、ただ手をこまねいているだけで良いということではありません。少なくともイエス・キリストと共に御言葉の種を蒔くことを怠ってはならないでしょう。しかし、種を成長させるのは、私たちの力ではなく、御言葉自体に秘められている生命力、成長力なのであります。

 私たちは教会の成長ということが気になります。御言葉を聞いて救われる人が一人でも多く与えられることを願っています。そのために、もっとしなければならないことがあるのではないか、それを怠っているので、成長しないのではないかと、焦りや苛立ちを覚えるのであります。確かに、御言葉の種を蒔くことに怠りがあってはなりません。しかし、成長させるのは私たちの業ではないのです。御言葉自体が、それぞれの人々の中で、成長力を発揮するのであります。

 29節ではこう語られています。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。蒔かれた御言葉の種は成長して、実が熟すのであります。収穫の時が来るのであります。その時には間髪を入れず、鎌を入れなければなりません。主イエスは言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイ93738)私たちがしなければならないのは、種を蒔くことと、収穫の働き手になることであります。今月は19日に特別伝道礼拝が行われます。これに向けて私たちがしなければならないことは、まだ御言葉を聞いたことのない人のために、種蒔きを怠らないことと、既に御言葉が成長し、実を結んでいる人の収穫のために、鎌を用意することであります。

3.小さいからし種の成長

 続けて、主イエスは「からし種」の譬えを語られました。更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
 主イエスが神の国のことを譬えで話されるに当たって、「何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか」と、よく吟味された様子が記されています。先程の譬えで、御言葉自体が成長力を持っているということが語られたのですが、その御言葉を選ぶのに、主イエス様でさえ、言葉をよく吟味されたのでありますから、私などが御言葉を取り継ぐのに、苦労するのは当たり前なのだと、慰められるような気持ちもしますが、同時に、主イエスがこれほどに吟味して語られているのですから、疎かにしてはならないな、と思わされます。また、そのようにして選ばれた言葉なのだから、それ自体に大きな成長力も秘めているのは当然であるとも思うのであります。
 さて、この譬えでは神の国のことを、「種」の中でも特に「からし種」を選んで譬えられました。「からし種」が選ばれた理由は、「土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」からであります。「からし種」というのは、非常に小さくて、直径が1mmにも満たないそうですが、成長すると、高さが3m以上にもなり、横幅も大きく広がるようです。この譬えで強調されていることは、種の小ささと成長後の大きさの対比であります。「葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど」というのは、異邦人さえも入れるほどの大きさを表わしていて、神の国の種が蒔かれた当初は、人に気づかれないほどの極めて小さな存在であるのに、それが成長した暁には、全ての民を覆うほどの大きさにまでなるということであります。
 事実、主イエスが「時は満ち、神の国は近づいた」と語り始められた時には、世界の片隅で始まった小さな出来事でありましたが、主イエスの十字架と復活後には、弟子たちの働きによって教会が形成され、地中海世界に広がり、今や福音は世界中に届いていて、数えきれない人々が救われて、神の国に入ることが出来ました。それは教会の外形的な姿が大きくなったということではなくて、神の国、即ち、神様の御支配が拡がって行ったということであります。
 そういう意味で、この譬えは教会のことを表わしたものだという解釈が昔から行われて来ました。確かに、教会は、最初は小さな存在で始まったのですが、今や世界全体を覆うほどの存在になったのであります。しかし、目に見える教会の姿と神の国を同一視することは間違いであります。確かに、御言葉は教会の働きを通して語られ、広められるという仕方で、神の国、神様の支配は広がって行くのでありますが、だからと言って、神の国は地上の教会とは同じではありません。神の国が出来るとか広がるということは、目に見える姿のことではなくて、終末的な事柄、即ち、信仰において信じられる事柄であって、神様と私たちの関係として起こることであります。目に見える教会には、様々な問題があります。弱さや過ちや混乱があり、成長どころか後退や縮小さえあります。しかし、主イエスは御言葉こそが神の国を形成するのであって、御言葉が全世界を覆うようになることを、この譬えで宣言されているのであって、私たちは、御言葉の生命力に触れて、その成長力や人を変える力を知らされた者として、この主イエスの御言葉を信じるだけであります。
 この伝道所も、見える姿においては極めて小さな存在でありますし、内実においても、世の中に対して、神様に対して、決して誇れるような集団ではありませんが、ここに御言葉の種は蒔かれていて、それは「からし種」が蒔かれるような小さな出来事のようでありながらも、神の国につながる大きな救いの御業だと信じているのであります。
 
結.ひそかに――神の国の秘密

 最後に33節以下には、ここまでの譬えを締めくくる結びの言葉が記されています。イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
 ここには、主イエスが人々に語るのに譬えを用いられた理由が記されています。そのことは41012節でも述べられたことの繰り返しではあります。「人々の聞く力に応じて」とあって、弟子たちとそれ以外の人々との聞く力に差があるような言い方がされていますが、これは弟子たちの能力を評価されたということではなくて、主イエスはこれから始まる十字架と復活の御業のことは、その時が来るまでは弟子以外の人たちには語られず、弟子たちだけに密かに語られたことと結びついています。つまり、神の国のことは、十字架と復活の御業と結びついてこそ、はっきりと分かり、受け入れられることになるからであります。そういう点では、弟子たちとて、十字架と復活のことは予告としては聞きましたが、現実のこととは受け止めてはいませんでしたが、後に主イエスのおっしゃったことが理解できるようになるために、あらかじめ語られたのであります。しかし、弟子たち以外には、譬えでもってだけ語られて、神の国が来たことの本質である十字架と復活のことは伏せたまま、神の国の性質のことだけを譬えでお教えになったのでありました。
 幸い、私たちは、弟子たちの報告を通して、十字架と復活のことを知らされていますので、神の国の譬えを通して、御言葉の成長力や神様の御支配の広がりのことを、十字架と復活との結びつきの中で受け止めることが出来ますので、神の国の到来、神様の御支配が主イエス・キリストの大きな犠牲によって現実になっていることを信じて受け入れることが出来るのであります。
 感謝して、祈りましょう。

祈  り

神の言なるイエス・キリストの父なる神様!
 主イエスの語られた神の国の譬えの御言葉によって、神の国の御支配が着々と進められていて、私たちもその御支配の中へと招かれておりますことを覚えて感謝いたします。
 神の国の見える姿の一面としての教会は、弱さを持ち、御心に適わぬことが多く、あなたの御支配を見えにくくしておりますが、あなたはこの教会を通して、そこで御言葉の種を蒔かれることによって神の国を広めようとしておられることを信じる者です。
 どうか、この教会においても、御言葉の種を蒔き続けて下さい。そしてどうか、一人でも多くの人が神の国の一員に加えられますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年10月5日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 4:26ー34
 説教題:「
神の国の成長」         説教リストに戻る