序. 神の国は見えているか

 主イエスが公に活動を始められて語られたことを、一言で言えば、「神の国は近づいた」ということでした。主イエスが地上に来られたことで、神様の御支配が現実のこととなり始めた、ということです。現に、主イエスによって、病気の人が癒され、汚れた霊が追い出され、萎えた手が伸ばされ、罪人と見做されていた人々に罪の赦しが告げられて、神の国が現実のこととなったと実感する人もいましたが、一方では、神の国の到来を受け入れることが出来ず、主イエスに対して疑問を持つ人たちも多くいました。
 ところで、皆さんはどうでしょうか。皆さんには神の国の現実が見えているでしょうか。教会に来て、聖書の御言葉を聞いて、自分の身の回りの状況を見て、神の国の現実を実感しているでしょうか。それとも、未だに解決しない問題があって、将来が見通せない中で、神の国の姿が一向に見えて来ないという思いを抱いておられるでしょうか。あるいは、神の国の片鱗のようなものが見え隠れするけれども、おぼろげで、確信を持てず、従って、喜びも中途半端な状態でしょうか。
 先々週はマルコ福音書4章の初めからの箇所に書かれている「種を蒔く人の譬え」を学びましたが、そこでは、主イエスの周りにいた弟子たちには、神の国の秘密が打ち明けられるが、外の人々には、譬えで語られ、彼らには神の国の現実を見ることが出来ないという、厳しいことが語られていました。そして、譬えの中では、御言葉の種が蒔かれるのだけれども、道端に落ちたり、石だらけの土地に落ちたり、茨の中に落ちたりして、実を結ばないという現実が語られていて、それは私たちのことではないか、と思わざるを得ないのでありますが、一方では、良い地に蒔かれた種は、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ、とも語られて、実り豊かな神の国への約束も語られていました。
 今日の箇所では、別の二つの譬えを用いて語られていますが、テーマは引き続いて、神の国の現実のことであります。

1.ともし火は燭台に

 一つ目は、「ともし火」の譬えであります。こう語られています。

また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」――先々週の「種蒔きの譬え」では、御言葉が「種」に喩えられていました。御言葉というのは、端的に言えば、「神の国は近づいた」という福音であります。そして、その「種」は三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ成長力を持っているということが語られていました。今日は、その御言葉、即ち「神の国」のことが、「ともし火」という「光」に譬えられています。ともし火を灯しておきながら、升の下や寝台の下に置く人はおりません。ともし火は部屋全体に「光」が届くように、燭台の上に置かれます。

 主イエスは、なぜこんな譬えを語られたのでしょうか。それは、弟子たちをはじめ、御言葉を聞いた人々が、ともし火を升で覆ったり、寝台の下に置くようなことをしているからであります。御言葉という「ともし火」、即ち、神の国の福音の光を、燭台の上に置くように、世の中に広く届くようにするのではなく、むしろ隠してしまっているからであります。<主イエスが来られたことによって、神の国は現実のことになるのだ>という福音に確信が持てなかったり、福音に反感を抱く人がいることを恐れたのであります。そのために、福音を大胆に語り伝えることを躊躇していたのではないでしょうか。

 私たちもまた、主の日ごとに、「神の国は近づいた」という福音を聞いているのでありますが、その「ともし火」を燭台の上に置くのではなくて、升で覆ったり、寝台の下に隠してしまっているのではないか、と問われているのであります。私たち自身が、神の国の福音に確信が持てないでいたり、この世の人たちの無理解や反発を恐れて、人々に語ることを躊躇しているのではないでしょうか。

 しかし、主イエスは続けてこう言われます。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」22節)と。これは日常生活の経験から出たことわざのようなものだと思われます。私たちは、ばれると都合が悪いようなことは隠しておこうと思いますが、隠しおおせるものではありません。逆に、人知れず行われた善い行いは、言いふらさなくても、知られるようになるものです。ここで「隠れているもの」とか「秘められたもの」と言われているのは、主イエスが来られたことによって始まった神の国の現実のことであります。まだ、そのことは、誰にでも分かるようにはなっていません。そのことを消し去ろうとする人たちもいました。人間の罪は、光として来られた主イエス・キリストを闇の中に葬り去ろうとしました。このことをヨハネ福音書はこう述べています。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言(ことば)は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハネ1911)こうして、主イエスに敵対していた人たちだけでなく、主イエスに期待していた人の中にある罪も、また、主イエスに従った筈の弟子たちの中にある罪も、露わになりました。そして遂に、主イエスは十字架に架けられ、死んで墓に葬られました。そこに、隠れた人間の罪が全て露わにされました。しかしながら、光が消え去ったわけではありませんでした。主イエスは墓の中から復活されました。そのことによって、十字架が全ての人間の罪を贖い、罪から解放するものであることが露わになりました。神様の、御子をも惜しまれない深い愛が明らかになりました。このようにして、隠れているものが露わになり、秘められたものが、公になったのであります。

 主イエスの光は、御言葉として既に私たちのところに届いています。それなのに私たちもまた、その光に照らされることを恐れ、それを覆い隠そうとしてしまいます。升の下や寝台の下に隠そうといたします。しかし、主イエスの光は隠れたままであることはありません。私たちの罪を暴き出すとともに、罪からの赦しという明るい光の中へ私たちを招き入れようとしてくださるのであります。

2.何を聞いているか

 23節で主イエスは、「聞く耳のある者は聞きなさい」と呼びかけておられます。これは、「種蒔きの譬え」を話された後にも言われた言葉です。これは、<聞く耳を持っている者は聞きなさい。しかし、聞く耳を持たない者は聞かなくてよろしい>と、突き放しておられるようにも聞こえる言葉であります。確かに、神の言葉というのは、私たちの側に、聞いて受け入れる用意がなければ、いくら聞いても意味がないのであります。聞いて受け入れるということは、自分の考えに固執するのでなく、聞いた言葉を信頼して、それに従うということであります。これまでの自分が間違っていたと認めること、悔い改めるということであります。悔い改めの用意がない者は、いくら聞いても無駄だから、聞かなくてもよろしい、ということです。極めて厳しい言葉ですが、真実を語っておられます。しかし、主イエスは、<聞く耳を持たない者はどうでもよい>と考えておられるわけではありません。<聞く耳を持つ者になりなさい、そうすれば、罪からの救いという大きな光の中に入ることができるのだ、神の国の一員になることができるのだよ>という招きの言葉であります。
 続く24節以下は、別の機会に語られたものが、編集の過程でここに収められたのではないかと言われていますが、23節と密接な関係があります。「何を聞いているかに注意しなさい」と言っておられます。
 主イエスが何をお語りになったかと言えば、先程から申しておりますように、一言で言えば「神の国が近づいた」ということですが、その具体的な中身は、主イエスが来られたということです。ですから、「何を聞いているか」ということを突き詰めて言うなら、<イエス・キリストを聞く>ということです。主イエスそのものを受け入れるということです。併行記事のルカ福音書818節では、この部分は少し言い方が違っていまして、「どう聞くべきかに注意しなさい」と言われています。<どういう聞き方をするかに注意しなさい>ということです。ただぼんやり聞いていたり、左から右へ抜けて行くような聞き方をしたり、他人事のように聞いていては意味がないということでしょう。神の国が来たということを信じて受け入れること、主イエスというお方を自分の人生の中心に受け入れているかどうかに注意しなさい、そうすれば、神の国があなたの現実となります、ということでしょう。

3.自分の量る秤で

 続けて、24節後半で、主イエスは二つ目の譬えを用いて語られました。「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。」――私たちは人の話を聞く時に、自分の秤、自分の物差しを持って聞きます。そして、自分の秤に合うものだけを受け入れる、自分の理解の仕方に合わせて聞き取るということがあります。自分の秤が狂っていたら、間違って受け取ってしまいます。自分の秤が小さなものしか量れないものであれば、大きなものを受け取ることが出来ません。秤が正確で大きなものが量れるならば、上等のものを沢山受け取ることが出来ます。ですから、主イエスはこの譬えをもって、<あなたの持っている秤を、よく点検しなさい>と言っておられるのであります。では、主イエスの御言葉を聞く時には、どういう秤が必要なのでしょうか。ここで「自分の量る秤」と言われているのはどういう秤でしょうか。――聖書についての知識が豊富でないと御言葉を理解出来ないということでしょうか。御言葉に対する深い洞察力や感性が備わっていないと、分からないということでしょうか。そのような私たちの能力のことをおっしゃっているのではないでしょう。
 主イエスは山上の説教の中で、「自分の量る秤」について、こう語っておられます。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(マタイ712)そこでは、「裁き」ということが「量る」という譬えで語られています。私たちは他人を自分の秤で裁きます。しかし、その同じ秤で、あなたこそ裁かれねばならない、という警告であります。これは、他人から裁き返されるという意味もありますが、むしろ、神様からこそ、同じ秤で裁かれることになるという厳しい警告であります。ところが、ここではその「自分の量る秤」が「裁き」という悪い意味で使われるのでなくて、良い意味で使われていて、御言葉の恵みを量る秤について語られているのであります。ある説教者は、ここでの「自分の量る秤」とは、<御言葉を聞いて悔い改める心>のことだと言います。自分をきっちりと量ることが出来て、自分の罪をしっかりと認めることが出来るかどうか、そういう秤を持っているかどうかで、御言葉をよく聞けるかどうかが決まって来るというのです。自分の罪を認め、悔い改めが出来るならば、更にたくさんの恵みの御言葉を与えられる、ということです。確かに、悔い改めるということがなければ、何十年と教会に通っていても、神の国の福音を受けとめることが出来ません。私たちはよく、「私は罪深い者です」とか「不信仰な者です」ということを口にしますが、「謙譲の美徳」の域を出ていなくて、多少の反省はしていても、内心では、自分は正しいことをしている、間違った生き方をしていない、と思っているところがあります。しかし、それは悔い改めではありません。悔い改めとは自分のこれまでの歩みが神様の前に間違っていた、方向違いであったと認めることであります。御言葉によって過去の自分が叩きのめされて、くずおれる、ということがなければ、御言葉の恵み、罪の赦しの恵みを受け取ることは出来ないのではないでしょうか。――しかしながら、そのような<御言葉を聞いて悔い改める心>というものは、私たちに元々備わっているものではありませんし、努力して作り出すことが出来るものでもありません。御言葉によって打ち砕かれることによってこそ培われて来る心であります。そこには、聖霊の働きが伴わなければなりません。――そうではありますが、先々週の「種を蒔く人の譬え」で聞いたように、御言葉自体に成長力があります。御言葉に聖霊が働きます。そして、御言葉が悔い改めの心を養い、御言葉が実を結ばせます。そして、神の国を信じる者とならせます。神の国がそこに実現します。そのことを、私たちは改めて信じたいと思います。そうして、御言葉の前に、イエス・キリストの前に、身を投げ出して、御言葉が指し示す新しい生き方を始めたいと思います。

4.更に与えられるために

 最後の25節では、こう語っておられます。「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。」――「持っている人」というのを<経済的に富んでいる人>のことを指すのだとすれば、資本主義社会で貧富の差が広がって行くことが述べられていることになって、決して望ましい話ではないのですが、ここで言われているのは、もちろん、経済的な富のことではありません。ここで言っているのは霊的な富、神の国の富のことであります。神の国の恵みの現実に与ることです。ここで「持っている人」とは、「信仰を持っている人」という意味です。23節の言葉で言い換えれば、「聞く耳を持っている人」という意味です。主を信頼して御言葉を受け入れる人です。先程、「自分の量る秤」とは「悔い改める心」のことだという解釈を紹介しましたが、その解釈で言うと、御言葉を受けて「悔い改める人」のことであります。神の国が近づいたという御言葉を、信仰をもって受け止め、自らの罪に気づいて悔い改めて、御言葉に従った新しい生き方を始める人には、神の国の恵みが一層増し加わるということです。反対に、神の国の福音を、信じることが出来ず、悔い改めの心をもって受け止めることをしない者は、一層、神の国の恵みの現実から遠ざかってしまうことになる、ということです。経済的な貧富の差が広がることは望ましいことではありませんが、神の国の恵みの豊かさに格差が生じることは、御言葉を信じるか信じないか、悔い改めるか悔い改めないかの違いによって生じる、厳しい現実であります。一方では、御言葉の種が三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのに対して、他方では、御言葉が実を結ばない土地があるという厳しい現実が生じるのであります。神の国に入れるか入れないか、永遠の命に生きることが出来るか出来ないか、ということであります。

結.聞く耳のある者は聞きなさい

 それならば、主イエスはそうした厳しい現実を指摘して警告なさるだけなのでしょうか。決して、そうではありません。主イエスがこのような御言葉を語りながら切に願っておられることは、もちろん、私たちに与えられているものが取り上げられることではなくて、神の国の恵みの現実が拡がることであり、御言葉が何十倍、何百倍にも実を結ぶことであります。そのために、このようにして私たちにも御言葉を語り続けてくださっています。それも、口先だけの言葉ではなくて、十字架の愛を持って、御自身の命を注ぎ込みながら、語ってくださっているのであります。そして、おっしゃいます。「聞く耳のある者は聞きなさい。」――これは、信仰を持って御言葉を聞くことへの招きの言葉であり、また、<信仰を持って御言葉を受け取るならば、必ず、神の国の恵みはあなたがたの現実となる>、という、力強い約束の言葉であります。そして、この御言葉が発する光は、私たちが升の下に入れようが、寝台の下に置こうが、隠れることなく、輝き続けるのであります。
 お祈りいたしましょう。

祈  り

神の言であるイエス・キリストの父なる神様!
 今日も、御子イエス・キリストの十字架と復活の御業によって現わされた、あなたの愛の御言葉を聴くことを許され、その恵みを感謝いたします。
 
私たちはそのような御言葉の光をも、升で覆ったり、寝台の下に置いてしまう愚かを繰り返していることを覚えて、懺悔いたします。
 
しかし、あなたの恵みの御言葉は、隠れたままではあり得ないことを知らされました。どうか、私たちを、素直に御言葉を受け入れる者にして下さい。そして、私たちの生活の中で、御言葉に従う者とされ、あなたが約束してくださっている神の国の恵みの現実に与る者とならせてください。
 
どうか、御言葉のともし火を隠すことなく、燭台の上に置く者とならせてください。そして、一人でも多くの人たちに、御言葉の光が注がれますように。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年9月21日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 4:21ー25
 説教題:「
ともし火は燭台に」         説教リストに戻る