良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。              (マルコによる福音書420 

 主イエスが語られた「種を蒔く人のたとえ」は、良く知られており、主イエスによる説明も付け加えられているので、理解しやすい。
 「種」とは御言葉であり、「種を蒔く人」とは主イエスとその弟子たち、更にはキリスト者のことである。「道端」とは、この世の生活や価値観で頭や心が一杯になっていて、御言葉を受け入れる余地がない人のこと、「石だらけの所」とは、自分の好みや考えに合ったことは喜んで受け入れるが、厳しい御言葉は避けるので、艱難に出会うと躓いてしまう人のこと、「茨の中」の土地とは、この世の思い煩いや富の誘惑、欲望などによって御言葉が覆いふさがれてしまう人のことである。私たちは誰でも、これら三種類の性質を持っているため、御言葉が実を結ばないという現実がある。
 ところで、主イエスがなぜ譬えを用いて語られたかという点について、「あなたがた(弟子たち)には、神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。・・・聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがないためである」1112節)と言われた。これは難解な言葉である。確かに、神の国のことは、聖霊の働きを受けて、信仰によってしか捉えることができず、これらの譬えによっても、私たちの心の頑なさ、不信仰、罪が露わにされるだけである。こうして、譬えは私たちに厳しい裁きを告げる。
 しかし、そのような裁きを告げることが、主イエスの最終的な目的ではない。主イエスは、罪深い群衆にも、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言って、御言葉を蒔き続けられる。種(御言葉)自体には大きな成長力が秘められている。私たちは「道端」や「石地」や「茨の中の地」であって、私たちの努力によっては良い実を結ぶことは不可能であるが、そこに聖霊が働くと、良い地に変えられる。そのためには、主イエスの十字架の犠牲が欠かせなかった。主イエスは今も、十字架の愛をもって御言葉を賜り、私たちにも「聞く耳」を与えようとしていてくださる。そうして、標記のような驚くべき収穫を約束してくださるのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2014年9月7日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書4:1-20 
 説教題:「
実を結ぶ種」 説教リストに戻る