序. よく聞きなさい

 今日、私たちに与えられております御言葉は、マルコによる福音書4120節で、「種を蒔く人の譬え」あるいは「種蒔きの譬え」と言われている箇所であります。よく知られている譬えであります。新約聖書の中に記されている主イエスの譬えは、5060あると言われています。それらの譬えの中には、常識とは違うことが言われていて、どう理解したらよいのか戸惑いを覚えるものも多くあって、そこがミソでもあるのですが、この「種を蒔く人の譬え」は、9節までの譬えそのものだけでなく、13節から後ろには主イエス御自身による譬えの解説も記されているので、比較的分かり易い譬えとして、受け取られているかもしれません。
 ところが、間の1012節には、理解困難なことが書かれているのであります。ここは、小見出しにあるように、「譬えを用いて話す理由」が語られています。10節では、イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた、とありますが、併行記事のマタイ福音書の方がはっきり書かれていて、弟子たちが主イエスに「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と尋ねたのに対して答えられたのです。その答えの12節には、先程朗読していただいたイザヤ書の言葉が引用されていて、「それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」と記されているのであります。譬えというのは、分かり難い神の国の秘密を、分かりやすくするために語られると思いきや、逆に、「理解できず」、「赦されることがないために」語るとおっしゃるのです。どういうことでしょうか。すぐ前の11節ではこう言われています。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」――「あなたがた」というのは、10節にあるように、「イエスがひとりになられたとき、十二人の弟子たちと一緒に周りにいた」と書かれている人たちであります。3章の31節以下で、主イエスの周りに座っている人々のことを主イエスは「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われましたが、そのように、主イエスの御側に来て、主イエスの言葉に真剣に耳を傾けている人たちのことであります。一方、「外の人々」というのは、弟子たちと一緒に来なかった人々、湖のほとりに集まって来た「おびただしい群衆」でありましょう。彼らは癒しを求めたり、自分の興味や考えに合う話を聞こうとしてやって来ておりましたが、主イエスの言葉に自分を従わせようとはしない人たちでありましょう。主イエスはそのことを見抜かれたからでしょうか、舟に乗って湖の上に出て、そこから語られました。それは、大勢の人たちによく聞こえるようにということもあったかもしれませんが、主イエスのお体に触れて癒されることだけを求めて迫って来ていた人たちとの間に距離を置いて、群衆が御言葉を聞くことを忘れてしまわないように、聞くことに専念できるようにするためであったと思われます。
 それでは、主イエスが譬えを用いて語られた目的はなんでしょうか。譬えによって人々に何を語ろうとされたのでしょうか。それは第一に、11節にあるように、弟子を中心とする人たちに「神の国の秘密」を打ち明けるためでありました。「神の国の秘密」とは、主イエスが来られたことによって現実となっている神の支配の秘密のことであります。それは「秘密」と言われているように、隠され、覆われていますが、それが譬えによって語ることによって、主イエスを信じる弟子たちには明らかにされるのであります。「神の国の秘密」は決して人間の知恵や洞察力によっては知ることが出来ません。それはただ、聖霊の働きによって、信仰によってしか捉えることが出来ない秘密であります。
 そうですから、譬えは、主イエスを信じて従おうとする人たちに、主イエスが来られたことによって現実のこととなっている神の国のことを、はっきりとお示しになるために語られたのであります。
 
しかし一方、「外の人々には」、すなわち、主イエスをまだ信じていないで、自分の関心事や自分の利益だけを求めている人たちには、「神の国の秘密」に目を開かれるどころか、それを覆い隠すための働きをするのです。すなわち、12節にあるように、「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがないようになるため」に語られるとおっしゃるのです。これは驚くべきこと、恐ろしいことであります。譬えは、主イエスを信じる者には神の国の秘密を明らかにする一方、不信仰な人々には、神の国を見ていても見ないように、聞いていても理解できなくする役割を果たすというのです。それだけではありません。更に、「立ち帰って赦されることがないようになるため」とも言われています。神の国のことを理解出来ないだけでなく、彼らの心の頑なさ、不信仰、罪が露わにされるのであります。これは非常に厳しいことですが、私たちにも起こりかねないことであります。今日は、御一緒に主イエスの「種を蒔く人の譬え」を聞くのですが、聞いた結果、<この譬えは分かり易い譬えでよく分かった>と思ったとしても、もしかすると、神の国のことを何も聞いていなかったということになりかねないのであります。むしろ、私たちの不信仰が明らかになり、主イエスから遠退くことになりかねないのであります。それは実に厳しい裁きであります。
 
しかし、このような裁きは、決して主イエスが本来意図しておられることではありません。主イエスに触れようと押し寄せて来たおびただしい群衆に対しても、舟の上から話されることによって、何とか主イエスの言葉に耳を傾けるようにされました。そして、主イエスはこの譬えを語り始めるに当たって、3節で、「よく聞きなさい」と言っておられます。また、譬えを語り終えた9節では、「聞く耳のある者は聞きなさい」とも言っておられます。そもそも、この「種を蒔く人の譬え」というのは、14節で説明されているように、神の言葉を蒔いて、それがどう受け止められるか、という譬えであります。神の言葉がどう聞かれるかが問われるのであります。ですから、譬えの説明が頭で分かったというだけでは、本当に聴いたことにはなりません。神の国の現実に触れることが出来るかどうかが、神の言葉を聴いたかどうかの分かれ目です。ですから、私たちも、「よく聞きなさい」という主の言葉に従って、耳をすまして、心をすまして、聖霊の助けを受けながら、信仰をもって、よく聞かなければなりません。

1.実を結ばない土地

 前置きが長くなりましたが、ここから主イエスが語られた譬えそのものに入って参ります。同時に、13節以下の主イエスによる弟子たちへの説明の言葉も一緒に見て参ります。
 まず、3節で、「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と言われています。これは14節によれば、「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」と言われているように、御言葉の種蒔きの話であります。「種を蒔く人」とは具体的には誰のことでしょうか。――まず第一には、「神の国は近づいた」と語っておられる主イエス・キリスト御自身のことであると言えますが、また、主イエスから神の国の宣教の務めを与えられた弟子たちや、今に至るまでのあらゆる伝道者を指しているでしょうし、更には、主イエスのことを証しするすべてのキリスト者を含めて受け取ることができるでしょう。あるいは、教会という集団を考えることもできるでしょう。いずれにしても、蒔かれる「種」というのは「御言葉」、すなわち、神の国の福音であります。
 ところが問題は、その御言葉の種がまかれた土地であります。譬えでは、4種類の土地が出て来ます。それらは、御言葉を聞いた人の4種類の態度(姿)を表わしています。
 まず最初は、「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった」、というのです。私たちが想像する種蒔きは、畑を耕して畝を作って、そこに丁寧に蒔いて、土を被せるのですが、当時のユダヤ地方の種蒔きは、耕す前に無造作に種をばら撒いておいて、その後で土を耕して、種に土をかけたそうです。ですから、種は道端にも落ちるわけです。種を蒔く人には責任はありません。道というのは人や車で踏み固められているので、種を受け入れて育てることが出来ません。このような道端の土地では何が起こるのか。15節によれば、「そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る」と言われています。道端の土地というのは、人や車がスムースに通ることで役目を果たすことが出来ます。私たちも、この世に生きている限り、果たさなければならない大切な役目があります。仕事や子育てや介護など、責任のあることを抱えています。そのことで私たちの頭や心や時間は一杯になってしまいます。私たちの生活の全部がそれらに奪われてしまいます。そうなっていると、御言葉に耳を傾けることが出来ません。そうであると、すぐにサタンがやって来て、せっかく蒔かれた御言葉の種が奪い去られるのです。道端というのは、また、この世的な価値観で人生が支配されてしまっていて、福音を受け入れる余地がない人を表わしていると言えるかもしれません。この世的な喜びに身を委ねている人、人間の知恵や知識にだけ頼ろうとして、霊的なことに無関心な人、そういう人は神の言葉を受け入れることが出来ずに、結局はサタンの思う壺にはまってしまうことになりかねません。
 次に語られている土地は、石だらけの土地であります。5節です。「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」というのです。1617節ではこう解説されています。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらく続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。――この人は、しばらくは御言葉を喜んで受け入れるのです。しかし、気に入った言葉だけを有難がるとか、教会の雰囲気が好きだといった、自分の好みに合ったところだけを喜んでいて、厳しい御言葉は避けているので、御言葉がその人の生き方や日常の生活の中にまで根付いていないため、困難なことや自分の気に入らないことが起こると、礼拝に来なくなったり、教会から離れてしまうのであります。
 3番目は、茨が生い茂っている土地であります。7節です。「ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」――これは、1819節の解説によると、「この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」のであります。この譬えで「茨」とは、「この世の思い患いや富の誘惑、その他いろいろな欲望」であると語られています。信仰は大切だと考え、教会生活もちゃんと続けているのですが、同時に、世間的な地位や名誉や、この世の富や楽しみを得ることにも関心が深くて、うまく両立させている人のことです。しかし、結局、両立は出来なくて、御言葉が実を結ばないことになるというのです。
 以上、語られた三種類の土地は、誰が一番目の人だ、誰それは二番目に近い、私は三番目に当たる、といったことを考えるための譬えというよりも、全ての人が自分の内に、三種類の性質を持っているということであって、私たちはどの土地にもなり得るのだ、ということに気づくことが大切であります。いや、ここまでの譬えをもっと厳しく受け取れば、「あなたたちは現に、これらの土地であって、御言葉が実を結んでいない、従って、神の国の秘密が明らかにされてはおらず、立ち帰って赦されることもない」と言っておられるのではないでしょうか。私たちは、湖畔にいた「外の人々」と呼ばれている群衆と共に、まずは、主イエスの厳しい裁きを聴き取らなければならないのではないでしょうか。私たちはそもそも、「実を結ばない土地」なのであります。

2.良い土地

 ところが、主イエスの譬えでは、四種類目の土地が出て参ります。8節です。「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」――この良い土地とは、20節の説明では、手短に「御言葉を聞いて受け入れる人たちであり」とだけ言われています。ここでは、「良い土地」が持つべき条件や能力については何も述べられてはいません。むしろ「道」として役に立たない方がよいし、石もなく、いばらもない、ただの土地が良いのです。肥えた土地でなくても良さそうです。必要なことは、「御言葉を聞いて受け入れる」ことです。「聞く」ということは、語る人の思いや考えに耳を傾けるということです。自分の考えや主張を脇に置いて、ひたすら聞くことです。疑問を抱いたり、反論したくなることがあるかもしれません。それは語る人の思いや考えを正しく受け止めるために必要なことであるかもしれません。むしろ、疑問や反論が出て来ないということは、よく聞いていないからかもしれません。自分の主張を通すための疑問や反論でなくて、語る相手を理解するためであるならば、それは良く「聞く」ことに含まれるでしょう。御言葉を聞くということは、ある意味で闘いであります。これまでの自分が否定されたり、変更を求められたりします。そこで過去に固執したり、自分の立場を守ろうとするのでなく、疑問をぶつけた上で、御言葉の力に気づかされ、その圧倒的な力の前に服することが、御言葉を「聞く」ということでありましょう。「御言葉を聞いて受け入れる」と言われている「受け入れる」という言葉のギリシャ語は、「抱きしめる」という意味があるそうです。マルコ2章で、主イエスの弟子たちが断食しないのはなぜかと問われた時に、主イエスは、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか」と答えられて、御自分を花婿に喩えられましたが、「受け入れる」というのは、その花婿を抱きしめるように、御言葉を抱きしめるということです。ですから、「聞いて受け入れる」というのは、ただボーッと聞いているとか、聞きっ放しでいるということではなくて、積極的に受けとめること、自分の問題、自分の生き方に関わることとして、行動的に聞くということであります。

3.種、土地、種を蒔く人

 ところで、この譬えでは、種と土地の関係が問題にされていました。「種」は神の言葉を表すわけですが、この「種」の力について、この譬えの中では特に強調されているわけではなくて、当然の前提とされていることなのですが、もともと蒔かれる種には、成長し、実を結ぶ力が備わっているのだ、ということを忘れてはなりません。御言葉自体には、大きな成長力が備わっているということです。
 一方、「土地」は、初めから自分の中に種を持っているわけではなくて、種が蒔かれて、地に落ちて、土地の中で芽生えて成長するわけです。その場合、この譬えでは、土地が道端であったり、石だらけであったり、茨で覆いふさがれているのが問題とされていましたが、土地が肥えているかどうかということは問題とされていません。種が土地にしっかりと宿されさえすれば、種は自然に成長することが前提とされています。
 しかしそこで、もう一つ聴き落としてはならない言葉があります。この譬えは、「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」ということから始まっています。「種を蒔く人」の行動から始まるのであります。この「種を蒔く人」というのは、初めにも申しましたように、第一にはイエス・キリストのことであり、その弟子たちや、私たち信者のことであり、教会のことでもあると申しましたが、最も大切なのは、申すまでもなく、最初の主イエスの働きであります。当時のユダヤの農法では、農夫は種を蒔いてから土地を耕します。ということは、この譬えにはありませんが、土地を良くするのは、種を蒔く農夫の働きであります。元々、土地の良し悪しよりも、農夫がその土地にどれだけ力を注ぐかに関わっています。たとえ石だらけの土地であっても、鋤を入れて耕せば良い土地に変わります。茨が生い茂った土地でも、茨を丁寧に取り除けば、種は何物にも邪魔されずに成長することが出来ます。この譬えを湖畔で聞いていた群衆、そして今日、この礼拝において御言葉を聞いている者たちは、道端の土地であったり、石だらけの土地であったり、茨が生い茂った土地であったりするのですが、主イエスはそんな土地に向かって、「良く聞きなさい」と言って、この譬えを語ってくださるのです。そして、何とか良い土地に変えて実を結ばせようとして、種を蒔き続けてくださっているのであります。

結.三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ

 主イエスが種を蒔き続けられた結果、どうなるのか。20節後半でこう言っておられます。「ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」――驚くべき増え方であります。しかしこれは誇張ではありません。御言葉の持つ成長力であり、神の国の秘密であります。そして、私たちはイエス・キリストと共に、種を蒔く人に召されています。私たちが蒔く種も、主イエスが主人である畑では、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶと約束されているのであります。それは、他でもなく主イエスが、強い思いをもって、御言葉を蒔き続けてくださっているからであります。
 ところで、今日の「種蒔きの譬え」で、私たちは何を聴き取るべきでしょうか。三種類の実を結ばない土地のことを聞きました。私たちに対する、鋭く厳しい指摘でありました。この指摘を自分のこととして重く受け取る必要があるでしょう。それならば、<道端の土地や、石だらけの土地や茨が生い茂った土地にならないように努めよう>、と心を新たにすることが、この譬えから聴き取るべきことでしょうか。主イエスはそのようにはおっしゃっていません。主は、この譬えをお語りになった目的を、「それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」とおっしゃっているではありませんか。私たちが、自分の努力で立ち直れる、良い土地になれるなどと、思えぬようにするために、この譬えを語っておられるのです。ですから、三種類の実を結ばない土地の話を聞いて、心を改めるだけでは、今日の御言葉を聞いたことにはならないということです。では、今日の譬えで何を聴いたらよいのでしょうか。それは、後半の良い土地のことであります。しかし、それも、<あなたがたが良い土地になりなさい>という勧めではありません。そうではなくて、<主イエスが、悪い土地をも良い土地にするために、種を蒔き続ける。すると、必ず何十倍という実を結ぶようになる>という「神に国の秘密」であります。主イエスは、実を結ばない土地をも実を結ぶ土地に変えるためにこそ、十字架への道を歩まれたのであります。だから、<あなたも、良い土地になって、実を結ぶのだよ>と言ってくださっているのです。それが、今日の譬えで聴き取るべきことではないでしょうか。
 譬えを語ったあと、主イエスは9節で、「聞く耳のある者は聞きなさい」とおっしゃいました。これは、聞く者を突き話した言い方のようにも聞こえますが、そうではなくて、何とかして御言葉を聞いて受け入れてほしいという万感の思いを持って、自ら十字架への道を進み給う大きな愛を込めて、語っておられるのではないでしょうか。この主イエス御言葉を信頼して、聞き従って行くなら、私たちもまた、神の国の成長にあずかる者とされるのであります。 祈りましょう。

祈  り

恵み深い父なる神様!
 今日も、イエス・キリストの深い思いを込めた御言葉を聞くことを許されて感謝いたします。
 
私たちは、御言葉を聞かされつつも、頑なになったり、この世的な思いに惑わされたりして、御言葉を受け入れなかったり、御言葉の成長を妨げてしまう愚かさを繰り返しておりますが、あなたは、なお忍耐をもって御言葉の種を蒔き続けてくださり、悪い土地をも良い土地に変えようとしてくださっていることを、重ねて感謝いたします。
 
どうか、私たちをも、御言葉の種を蒔く者の一人に加えてくださり、神の国の尊い御業の一端を担う者とならせてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年9月7日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 4:1ー20
 説教題:「
実を結ぶ種」         説教リストに戻る