見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。
                               (イザヤ書42:1) 

 イスラエルの民はバビロン捕囚が続く中で、先が見えず、不安や閉塞感をぬぐうことができなかった。それは元をただせば、彼らの罪が招いた結果であった。現代の世界と我が国の情勢、教会の実状も同様と言えよう。
 そうした中で、預言者イザヤは標記のように、「主の僕」の召命を告げる。「主の僕」とは何者か。後に捕囚から解放したキュロス王のことだとか(個人説)、イスラエルの民を表わすとか(集団説)、様々な説があるが、新約聖書は、キリストが神から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ317175)との言葉を受けたことから、主の僕をイエス・キリストとみている。その「主の僕」の働きは、「裁きを導き出す」(標記)ことにあると言う。「裁き」とは、<正しく秩序立てる>という意味であるが、その方法は、「彼は叫ばず、・・・傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」(24)と記されているように、傷ついた者、弱い人間、誰からも忘れられ消え行きそうになっている者を大切にしながら、新しい秩序を打ち立てるのである。
 そしてイザヤは、「主の僕」の働きによって成就されることを、こう語っている。「見ることのできない目を開き、捕われ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出す」(7)、「行く手の闇を光に変え/曲がった道をまっすぐにする」(16)と。――この「主の僕」を選び、支えておられるのは、標記に告げられているように、「わたし」即ち、神御自身である。
 混迷する世界の情勢、見えない我が国の行先、そして私たちの身の回りや教会に漂う不安や閉塞感、行く手の闇――それを光に変え、道を開いてくださる主体は、神御自身なのだ。神はその働きに「主の僕」を用いられる。「主の僕」とは、イエス・キリストであるが、それと共に、キリストの体なる教会も含まれるであろう。そういう意味で、私たちも「主の僕」である。神は私たちをも、神の約束の成就のために用いようとしておられるのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2014年8月31日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書42:1-17 
 説教題:「
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