序.捕われ人、闇に住む人

 今日は8月最後の日に主日礼拝をしております。この8月という月は、原爆の日や終戦記念日があって、かつての戦争の悲惨さを改めて思い起こしながら、不戦の誓いを新たにする月であります。ところが今我が国は、憲法の解釈を変えて、集団的自衛権を行使できるようにしようという動きがあって、戦争が出来る国にしようとしています。この先、この国はどうなるのか、暗い思いを抱かざるを得ません。
 先週は、広島市で大きな土砂災害が発生し、多数の方の命が失われました。豪雨が降れば同様の災害が起こり得る地区が、広島には沢山あるし、日本全国の各地でそのような危険を抱えた地区があると言います。高度成長期の乱開発のツケが残っているということでしょう。原子力発電の問題もあります。近隣諸国との緊張関係もあります。少子高齢化という構造的な問題も抱えていて、我が国の将来には様々な不安材料が横たわっていて、決して安泰とは言えません。
 何も暗い事ばかり考えるのではなくて、明るい未来に向けて、信仰を持って、前向きに取り組んで行くことが必要でありますが、国の将来のことだけでなく、私たちの身の回りのことや、この教会のことについても、様々な問題が解決されないままになっています。大きな病と闘っている人がいます。心の病いが癒されないままの方が何人もおられます。礼拝生活から遠ざかっておられる会員の方がおられます。多くの求道者が与えられていながら、洗礼に至る方が何年も表れていません。こうした問題について、目に見える前進が見られなくて、将来に対して、不安や閉塞感が拭えず、信仰を持っていても、喜んでばかりおれないというのが、残念ながら実情であります。
 イザヤ書40章からの第二イザヤと呼ばれている部分は、紀元前6世紀後半のバビロン捕囚時代の末期に書かれたと言われております。イスラエルの民は小さい民ながらも、神に選ばれた民として、神様が自分たちの歴史を導いてくださるという信仰を持っていた筈でしたが、その信仰が揺らぎかねない状況に置かれていたのであります。バビロン捕囚は既に50年近く続いていました。バビロンに連れて行かれた者たちも、カナンの地に残された人たちも、将来に対する希望が持てず、不安な中にありました。神の民であるのに、なぜ、そのようなことになったのか、それは元を質せば、彼らの不信仰の然らしめることでありました。彼らが、預言者の伝えた神様の言葉に従わなかった罪が招いた結果でありました。
 私たちの国や身の回りや教会の現在の状況をもたらせたのも、政治家や指導者に責任を押し付けることは出来ません。私たちの罪、私たち自身の不信仰の結果であるに違いありません。では、このような状態から、どうすれば脱却することができるのでしょうか。
 7節を見ると、見ることのできない目を開き、捕われ人をその(かせ)から、闇に住む人をその牢獄から救い出すためにとあります。では、誰が、信仰の揺らいでいる人たちの目を開き、誰が、捕囚状態にある人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すのでしょうか。――今日の箇所の初めに、「主の僕の召命」という小見出しがついています。この「主の僕」がその答えの鍵であります。

1.見よ、わたしの僕

 1節の初めでは、こう呼びかけられております。見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。…以下、4節までが「主の僕の(うた)」と呼ばれています。イザヤ書の中には「主の僕の詩」呼ばれるものが4つありますが、その第1番目のものです。
 この「主の僕」が誰を指しているのかということは、第2イザヤの語ることを理解する上で大変大事なことなので、昔から学者によって議論されてきましたが、未だに決定的な答えは出ていません。これは特定の個人を指すという見方と、一つの集団を指すという見方があります。個人説には、アブラハムのことだとか、モーセのことだとか、第2イザヤ自身のことではないかとか、捕囚後の無名の律法学者ではないか、といった説があるほか、このあと実際にイスラエルの民をバビロニア帝国から解放することになるペルシャのキュロス王のことを預言していたのではないかといった説があります。一方、集団説としては、主の僕をイスラエルの民であるという見方があります。特に、イスラエルの中でも、しっかりとした生きた信仰を持っている「残りの者」(第1イザヤの中でも何度か出て来た)と呼ばれる人たちのことであろうと言う人もいます。また、旧約聖書の中には、やがて救い主が来られるという、メシア待望の思想があって、イザヤ書ではそのメシアが苦難を負われるという思想が出て来るのですが、そのメシアが「主の僕」のことではないかという考え方も出て来るのであります。
 先程朗読していただいた新約聖書のマタイ福音書1215節以下では、主イエスが病気を癒されたことを言いふらさないようにと戒められたことが、今日のイザヤ書の「主の僕の詩」でイザヤの語ったことの実現だと述べております。それは、イザヤ書の方で言えば、2節で、彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせないと言っていることを指しているのだと思われます。つまり、マタイは、イザヤ書で述べられている「主の僕」をイエス・キリストのことを預言したのだと受け取っているのであります。そのように、新約聖書の時代には「主の僕」は、イエス・キリストのことを指し示していたのだと受け取られるようになったのであります。私たちも、そのように受け止めるのが妥当だと思います。しかし、主イエスが出現されるまでの間に、神様はキュロス王をお備えになってイスラエルの民を解放されましたし、イスラエルの民自体も、その苦難の歴史を通して、苦難の僕としての救い主の到来を指し示して来たのでありまして、個人説や集団説にも耳を貸すべきところがあるように思います。特に、集団説で選ばれた民であるイスラエルの民を「主の僕」と理解することは、イスラエルの民に代わる神の民としての「教会」の役割を、「主の僕」の中に見出すことにつながりますので、「主の僕の詩」を学ぶ時に、忘れてはならない視点なのではないかと思います。教会はキリストの体であると言われます。教会は主の僕であるキリストの体なのであります。
 さて、1節は、「見よ、わたしの僕」という呼びかけで始まっています。捕囚の中にあって信仰が揺らいでいるイスラエルの民が見なければならないのは、「主の僕」なのであります。不安や閉塞感が漂っている現代の私たちが見なければならないのも、「主の僕」である、と言われているのであります。では、「主の僕」とは何者であるのか。続けてこう言われています。わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。――ここには、主の僕は神様の選びを受けて召されたのだということが語られています。「喜び迎える者」と言われていますが、それは、主の僕として選ばれた者に、優れた資質や能力があったからというよりも、ただ神様が、喜んでお迎えになったということです。そして、「わたしが支える者」と言われているように、その僕の働きを支えるのも神様ご自身である、ということです。
 ここで私たちが思い出すのは、主イエス・キリストに対して、神様が同じようなことを言われたことであります。主イエスが公生涯に入られる時に洗礼者ヨハネから洗礼を受けられましたが、その時天から聞こえたのが、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ317)という言葉でした。こことは表現が多少違いますが、意味は同じであります。また、主イエスがいよいよ十字架の苦難へと突き進まれるに当たって、山上でお姿が変わられましたが(山上の変貌)、その時にも同じ言葉が天から聞こえました。そういう意味でも、「主の僕」というのは、正しく主イエス・キリストにおいて実現するのであります。しかし神様は、主イエスをお遣わしになる以前から、必要な時に相応しい「主の僕」を選んで、お備えになりましたし、今も備えるから、その「わたしの僕を見よ」ということであります。私たちが、現代の不安や閉塞感を打ち破る指導者や助け手を、自分たちで探し求める必要はありません。私たちが見なければならないのは、神様が選び、喜び迎えておられる主の僕であります。神様は私たちの周りの、私たちが見えるところにも、そうした「主の僕」を既にお備えになっておられるということではないでしょうか。それは特定の個人とは限らないでしょう。教会という群れかもしれません。この米子伝道所の群も、神様が選び、備えてくださった「主の僕」たちの群なのではないでしょうか。その「主の僕」たちを見よ、と言われているのであります。他にもっと優れた人材や信仰者があれば良いと、探し求める必要はありません。3行目には、彼の上にわたしの霊は置かれ、とあります。神様が備えてくださる主の僕の上には、神様の霊、即ち、聖霊が働いているのであります。私たちのために神様が備えてくださった「主の僕」たちの上にも、主の霊が働いて、私たちの不安や閉塞感から解放する働きをしてくださるのです。それが、主の僕の群であり、キリストの体なる教会であります。そのことを「見よ、」と言われています。私たちは信じて、目をこらして見ようではありませんか。

2.裁きを導き出す

 次に1節の最後の行から4節までには、「主の僕」の働き・任務の内容が述べられています。彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。

 この中で、「裁き」という言葉に注目したいと思います。この言葉は1節、3節、4節に出ておりますが、第二イザヤのメッセージの核心に位置する言葉だと言われます。これまでの40章、41章にも出て来ました。ヘブル語でミシュパートと言います。元の意味は、「判決」とか「裁定」ということですが、新共同訳聖書ではここのように「裁き」と訳したり、「義」とか、「定め」とか訳しています。口語訳では、ここは「道」と訳されていました。なかなか一言の日本語では言い表しにくい言葉ですが、ただ冷たく善悪を判定するというようなことではなくて、<神様が憐みをもって秩序立てられること>と言ってよいでしょうか。ここでは、そのことが「主の僕」の任務(使命)として委ねられるということであります。1節では、「彼は国々の裁きを導き出す」と言われています。「国々」というのは「諸国民」ということです。イスラエルの民だけでなく、周辺諸国や、バビロンやペルシャなども含めた、新しい世界秩序を導き出す、ということでしょう。マタイ福音書の方の引用では、「彼は異邦人に正義を知らせる」(1218)となっていました。諸国の異邦人も神様の正義のもとに秩序立てられるということです。

 今、世界の各地で過激集団によって秩序が乱されて、戦闘が起こっています。一方、我が国においては、強力な政治権力をもって国を一定の方向にまとめて行こうとする動きが強まっています。そのような、武力や権力がぶつかり合う中で、教会は大きな影響力を持ち得ない存在のように見えます。しかし、神様はこの世の武力や権力による支配を放置される筈がありません。神様は、「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を」と言われ、「彼は国々の裁きを導き出す」とおっしゃいます。神様は今も主の僕を用いて、新しい秩序を打ち立てようとしておられるに違いありません。キリストの体なる教会は、キリストを頭とする主の僕として、世界を救う御業に参加しているのであります。

3.灯心を消すことなく

 では、「主の僕」は、どのようにして裁きを導き出すのでしょうか。どのようにして、新しい世界秩序をこの世の中に打ち立てられるのでしょうか。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない」と言われています。ここには7つの否定をもって主の僕の働きの仕方が語られています。主の僕は大声をあげて叫ぶことはしません。傷ついた葦は、風が吹くとすぐに折れてしまいます。芯が燃え尽きそうになったランプの灯は、消えそうになっています。主の僕は、そのような、傷ついた者、弱い人間、誰からも忘れられ消え行きそうになっている者を大事にしながら、新しい秩序を打ち立てようとするであります。人生に行き詰まって、希望を見失いかけている人を生かして、救いの業を進めるのであります。これは正に、福音書に記されている主イエス・キリストのお姿につながっています。この姿はまた、この世にある教会の姿でもあります。教会は強い者の集団ではありません。この世において弱く見える者が用いられるところであります。神様が弱い者、傷ついた者を用いて、神の国の建設を進められるのです。

4.わたしは主

 次に、5節から9節までの段落は、4節までで述べられたことを、少し別の角度から付け足しています。5節は創世記に記されている神様の創造の御業が賛美されています。(2行目から)神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。――ここでは、人間は神様によって命を与えられ、神様と向き合ってこそ生きられる霊的な存在として造られたのだ、ということが述べられています。
  67節では、その創造主である神様が、「あなた」と呼ばれている主の僕に向かって、先程4節までで語られていた主の僕の召命と役割のことが、少し別の角度から述べられています。主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることの出来ない目を開き/捕われ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。――ここでは、先程の「主の僕」が、神によって召し出されイスラエルの民として述べられています。そして、その民の使命は、「諸国の光」として、「見ることのできない目を開き/捕われ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すため」だと語られています。捕囚の中にあって、目標を見失ってしまったイスラエルの民でありましたが、今一度、「主の僕」としての本来の使命が何であったかが告げられています。これはまた、現代の神の民である教会の使命が語られていると受け止めるべきでしょう。世の多くの人々は、人間が神様に命を与えられ、神様と向き合う霊的な存在として造られたことを知りません。そうした人々の目を開き、この世における様々な枷と牢獄から救い出すことが教会の使命であります。
 89節の段落は、わたしは主、という言葉で始まっているように、神様ご自身が真の神であり、初めの御計画を成就されるお方であることが述べられていて、わたしは栄光をほかの神に渡さず、わたしの栄誉を偶像に与えることをしない、と言い切っておられます。主の僕には大きな使命が与えられています。しかし、その使命を成就させてくださるのは、主なる神様であります。神の民である教会にも偶像が偲び込んで来ます。そして、うまく事が運んでいるように見える時には、神様が全てを導いておられることを忘れてしまいがちです。そして、自分たちの栄誉を誇ってしまいます。それは偶像に仕えることになります。主の僕は、1節で「わたしが支える者」と述べられていたように、あくまでも、神様の支えによってその使命を果たすことが出来るだけであります。「わたしは栄光をほかの神に渡さず、わたしの栄誉を偶像に与えることをしない。」――この神様の約束の言葉を信じたいと思います。9節では、見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう、と言われています。「初めのこと」とは、これまでに既に行われた数々の恵みの御業のこと、「新しいこと」とは、捕囚からの解放を含む、将来における神様の御業でありましょう。

結.闇を光に

 この9節の約束を受けて、10節以下で「新しいこと」が告げられるのですが、まず10節から12節で語られているのは、新しい歌を主に向かって歌え、という言葉で始まる神様への賛美の呼びかけであります。ここには具体的な救いの御業はまだ語られていませんが、「地の果てから主の栄誉を歌え」と語られ、「島々とそこに住む者よ」、11節では、「荒れ野とその町々よ。ケダル族の宿る村々よ、呼ばわれ。セラに住む者よ、喜び歌え」と呼びかけられています。ここで、「島々」とは西の地中海に浮かぶ島々、「荒れ野」とは、東の砂漠地帯、ケダル族とはアラビア砂漠の遊牧民の一つ、セラとは死海の南にある地名です。つまり、カナン地域を中心にして、世界中から神様を賛美する声が湧き上がることを告げているのであります。そして、13節に、主は、勇士のように出で立ち/戦士のように熱情を振い起し/叫びをあげ、鬨の声をあげ、敵を圧倒される、とあるように、神様ご自身が熱情をもって困難と闘い、約束を実現してくださる、と言うのです。
 そして、14節以下ですが、ここには神様が成就してくださることが、象徴的な言葉で綴られています。詳しく説明する余裕がありませんが、16節を御覧ください。目の見えない人を導いて知らない道を行かせ/通ったことのない道を歩かせる。行く手の闇を光に変え/曲がった道をまっすぐにする。わたしはこれらのことを成就させ/見捨てることはない。――暗闇の中で先が見えなくなっていた者たちに光が与えられます。どこに向かっているのか、道が見えなかった者たちに、真っ直ぐな道が示される、というのです。
 混迷する世界の情勢、見えない私たちの国の行き先、そして、私たちの身の回りや教会にある不安や閉塞感、行く手の闇――それを光に変え、道を開いてくださる主体は、神様ご自身であります。そして、神様はその働きに「主の僕」を用いられます。「主の僕」とは、神の民、即ち教会であり、その頭として主イエス・キリストがおられます。
 神の民である教会自体は、弱い者であり、罪深い者たちの集まりでしかありませんが、主イエス・キリストが命に代えて贖い出された民であります。神様はキリストを頭とする教会を用いて、イザヤの預言を成就してくださるのであります。私たちは、そのことを信じて、今日も、新しい賛美の歌を主に向かって歌いたいと思います。
 
祈りましょう。

祈  り

教会の頭なるイエス・キリスト父なる神様!
 不安と閉塞感の中で、光を見失いがちな私たちでありますが、イザヤが告げる「主の僕の詩」を通して、神様の力強い約束を聴くことが許され、光を与えられました。御名を賛美いたします。
 
どうか、この混迷する世界に、また私たちの日常生活の中に、あなたの正しい裁きを、憐みの秩序を打ち立ててください。どうか、私たちをも、あなたの裁きに服する者とさせてくださり、主の僕の一員として、召し出し、用いてください。どうか、苦難の中で、あなたを見失っている者、まだ、あなたと出会っていない者たちをも、主の僕に加えてくださり、心からあなたを賛美する者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年8月31日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書 42:1ー17
 説教題:「
主の僕の選び」         説教リストに戻る