序.キリストの囚人となって

 私たちは普段の生活において悪戦苦闘している中で、どうしても目先のこと、身の回りのことに心を奪われて、物の見方が近視眼的になりがちであります。そして、現状を嘆いたり、不平を鳴らしたり、呟いたりしているのであります。しかし、そういう時に、神様は自分のことをどのように扱ってくださっているのだろう、今直面している問題、自分の心を奪っている状態をどう見ておられるのだろう、ということを考えると、急に視野が開けてくるように思われる時があります。
 このエフェソの信徒への手紙は、使徒パウロが差出人ということになっていますが、最近の研究では、パウロ自身ではなくて、パウロより少し後の別の人が、パウロを自分と重ね合わせながら、当時の教会が直面する問題について語っているのではないか考えられています。そういう事情はあるものの、この手紙をパウロ自身が書いたものとして読んで何ら差支えないのであって、むしろ、ここに書かれているパウロと自分を重ね合わせながら、パウロが現実の問題に直面する中で、何に目を向け、そこから何を得たかを読み取ることによって、私たちの目を大きく広げられたいと思うのであります。
 さて、冒頭の1節では、こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人になっているわたしパウロは……と言いかけて、それを受ける動詞がありません。その続きは、14節に飛んで、「こういうわけで、わたし御父の前にひざまずいて祈ります」という言葉につながっているとみられていて、そこでは、宛先の教会についての祈りが綴られています。しかし、その祈りを記す前に、一時脱線して自分のことを述べたのが今日の箇所であります。脱線したと言っても、余分なことが書かれているとか、自分のことを誇ったり、弁明したくなったということではなくて、2節で、あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、とあるように、どうしても神の恵みについて触れておきたいということであります。
 ところで、冒頭の「こういうわけで」というのは、すぐ前の211節以下で語られたことだと考えられますが、そこには、ユダヤ人と異邦人の間にある「敵意という隔ての壁」が、キリストにおいて取り壊されて一つになる、ということが語られていました。そのことはキリストの十字架の御業によって既に行われたことでありますが、そのことを異邦人にも伝えるという使命をパウロは与えられているということです。そのことを、「キリスト・イエスの囚人となっているわたし」という言い方をしています。こういう言い方をしているのは、パウロがキリスト者を迫害する急先鋒であったのに、キリスト・イエスに捕えられてキリストの囚人となったということと、パウロが宣教活動をしている中で、現に、何度も囚われの身となったことを重ねて表現したかったからでしょう。
 そして2節では、「あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第」と記します。「あなたがた」とは、異邦人を主体とする宛先教会の人々ですが、パウロは異邦人伝道を使命として与えられたのですが、それは神様がお与えになった「恵み」によることだと言うのです。ここで「恵み」と一語で訳されているところは、原文通り訳せば「恵みの役職」または「恵みの計画」となります。「役職」と「計画」では、随分意味が違うと思われるかもしれませんが、パウロの中では、神様から与えられた伝道者としての務め(役職)と、このあと出て来る神様の大きな計画とが重なり合っているということでしょう。神様はユダヤ人だけでなくて異邦人も含めて全世界の人を救おうと御計画なさっている、そのことを伝え、またその神様の御業に参加する使命を与えられているのが、パウロだということです。
 このように、自分の使命あるいは生き方を神様の大きな「恵みの計画」の中で捉えるということは、私たち自身の生き方にも当て嵌まることですから、このあとパウロが述べていることに、しっかりと耳を傾けたいと思います。

1.秘められた計画

 まず、34節ではこう言っております。初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。――ここで「初めに手短に書いた」と言っているのは、1910節でも「秘められた計画」について書いてあったので、そこのことだと思われます。こう記しておりました。「秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭(かしら)であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」――「秘められた計画」というのは、口語訳聖書では「奥義」と訳されていましたが、ギリシャ語ではミュステリオンという言葉で、英語のミステリーの語源となった言葉です。「神秘」という意味もありますが、ここでは、イエス・キリストによって異邦人も共に救われるという、人間の知恵では考えられない不思議な神様の救いの御計画のことです。キリストの救いの御業によって、ユダヤ人も異邦人も一つにされました。そのことは、21122節でもやや詳しく語られていました。その神様の秘められた計画を、啓示によってパウロにも知らされた、というのです。その計画の内容というのは、先程、冒頭の「こういうわけで」と言っている内容を説明した時にも申しましたように、ユダヤ人と異邦人との間にある「敵意という隔ての壁」をキリストが取り壊してくださって、一つにしてくださった、ということであります。
 ところで皆さんは、ここで力を込めて述べられているユダヤ人と異邦人が一つになることについて、<そんなことはパウロの時代の人々にとっては大変関心のあることかもしれないけれど、私たちにはあまり関係がない>とお考えかもしれません。しかし、私たちも異邦人であります。異教の世界にどっぷりと浸かっている者たちであります。聖書の神様とは無縁であると思っている人たちの世界に生きていて、私たち自身も、聖書の御言葉や祈りによる神様との結びつきが、日常生活の中に入り込んでいない生き方をしています。私たちの身の回りで、様々な問題が起こって、私たちを悩ましますが、そのような問題を神様との関係で捉えているでしょうか。御言葉や祈りによって、問題解決の道を見出そうとしているでしょうか。――そのような私たちのためにも、神様の秘められた救いの計画があって、それがキリストによって実現されたということなのです。

2.同じ約束にあずかる者

 この神様の秘められた計画について、更に56節ではこう述べられています。この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や、“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものを私たちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。――神様の救いの計画は、世界を創造された時からあったのですが、初めから全人類に明らかにされていたわけではなくて、選ばれた民であるユダヤ人の歴史を通して示されていただけで、それもユダヤ人の不信仰のゆえに、十分に受け入れられないままに歴史が進んでおりました。そこに、キリスト・イエスが遣わされて、決定的な救いの御業が行われると共に、異邦人も救われる道が開かれたのであります。「今や、“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました」と言っております。「“霊”によって」とは、聖霊によってということですが、その意味するところは、「神様の働きによって」ということです。救いの道は私たちが開いたり、引き寄せたりするものではありません。神様の方が開き示してくださるものであります。しかも、「キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示される」ことによって初めて知ることが出来るのであります。これは、神様が出し惜しみしておられるということではありません。2章の20節でも、教会の成り立ちについて、「使徒や預言者という土台の上に建てられています」とありました。「使徒」というのはキリストの弟子たちのこと、「預言者」というのは、旧約の時代に神様の言葉を伝えた人たちで、彼ら自身に特別な能力があったということではなくて、彼らが伝えた御言葉が教会の土台になるということを言っていたのですが、ここでも、神の救いの計画が明らかにされるのは、預言者や使徒たちが伝える神の御言葉(福音)によるほかないということです。

 そこで6節の言葉になるわけですが、「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということ」なのです。ここには、「一緒に」「同じ」という言葉が繰り返されています。ユダヤ人だけでなく異邦人も一緒にという意味ですが、全人類が共にということです。キリストの救いの御業によって、すべての者が救われ、神の国に入ることが出来るようになった、という福音が告げられることになったのであります。

3.福音に仕える者として

 そのことから、大きな課題(使命)が生まれました。それは、その福音の言葉を全世界に伝えなければならないということです。そのことが7節以下に述べられて参ります。7節から9節までは、そのことをまず、パウロ自身に与えられた課題(使命)として語っています。神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるかを、すべての人々に説き明かしています。

 ここで強調されていることは、異邦人に福音を告げ知らせるという務めを受けた自分が、如何につまらない者であり、この新しい務めを与えられたのは、あくまでも、神が「その力を働かせて」くださったからである、ということです。パウロはかつて、キリスト者を迫害することこそが神の御心に適うことだと考えていました。そのパウロが今、命がけでキリストの福音を宣ベ伝える者とされたのは、彼が自分の過ちに気づいたとか、思想を深めて新しい真理を発見したとか、一大決心をしたということではなくて、パウロに神の力が働いて、大きな恵みを賜ったからに他なりません。

 ですから、このパウロのように、新しい使命に生きるということは、特別な能力がある人とか、信仰心のある人とか、熱心に求道した人にだけ与えられるということではありません。神様の秘められた計画が異邦人にも開かれたということは、過去の経歴や育ちや、本人の能力や努力によるのではなくて、神がその力を働かせてくださることによって実現されることであります。神様の“霊”(聖霊)が働くことによって、神様の恵みを賜って、実現するのであります。神様は私たちのためにも、そのような恵みを用意しておられるということであります。その恵みというのは、一般的に考えられるような、すぐれた特性とか賜物であるとは限りません。むしろ、欠点があるとか、能力が乏しいとか、障害を持っているとか、一般的には、よい働きをするのにマイナスになると思われているようなことが、神様にはプラスに用いられるということであります。神様の「秘められた計画」とは、大きな救いの計画のことですが、その中には、つまらない、罪深い私たち一人一人をお用いになる計画も入っているのではないでしょうか。

4.永遠の計画に沿って

 10節以下には、教会の大きな働きのことが述べられています。こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。――ここは理解するのが困難な箇所です。「いろいろな働きをする神の知恵」ということは、旧・新約聖書の多くの箇所から知らされることであります。イスラエルという弱小民族が神様に選ばれて、神様の大きな救いの御計画の準備をして行ったことの中には、神様の深い知恵があったことを思わされます。また、私たちが福音書によって学んでいる主イエスの働きにも神様の知恵が満ちています。主イエスの知恵に溢れる譬え話にも驚かされますし、何よりも、十字架という滅びの道が救いに至るという、人間には予想も出来ない知恵が込められています。そして、その救いの出来事が、弱い弟子たちの働きによって人々に伝えられて、教会が形成されて行ったことも、神様の計り知ることの出来ない知恵であります。また、ここまで述べられて来たパウロの働きにおいても、神様はキリスト者を迫害していたパウロを用いて異邦人伝道の道を開かれました。そこには、神様のすばらしい知恵を見ることが出来るのであります。ところが、理解が難しいのは、「いろいろな働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知られるようになった」という記述であります。この「天上の支配や権威」というのは、天使たちのことではないか、という理解があります。しかし、教会の宣教の働きが、天使にまで及ぶということは、よく理解ができません。小林和夫先生は、この箇所について、こういう意味のことを書かれています。天の使いから見ると、人間は堕落してしまって、救われる筈がない。そういう人間が、神を信じて救われて、神の子になって行く。そういうクリスチャンや教会の姿を見るときに、天の御使いたちも神の知恵をほめたたえるであろう、と。そういうことなのかもしれません。天使のことは私たちにはよく分かりませんが、恐らくここでパウロが言いたいのは、神の知恵というのは、人間の世界だけでなく、自然界や全ての被造物にも及ぶし、我々が知ることの出来ない天上の世界にまで及ぶということでしょう。
 そして、続けます。「これは、神がわたしたちの主キリストによって実現された永遠の計画に沿うものです。」――全てのものが神様を賛美するということは、神様が世界を創造された時から願っておられたことであります。そのことの最大の障害は、人間の罪でありました。その問題の解決にこそ、キリスト・イエスが遣わされたのでありました。そして、救いは終わりの日に向けて見事に実現しつつあります。それは、神様の永遠の計画に沿うものであります。その計画の実現に向けて、キリストの体である地上の教会も、それなりの役割を果たしているということであります。

結.苦難は栄光

 最後に、1213節の御言葉を聴きましょう。わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたのための栄光なのです。
 私たちは神様を知らない異邦人として、神様との関係を疎かにして、罪を犯して参りました。しかし、神様の計り知ることの出来ない御計画によって、キリストの救いの恵みにあずかる者となりました。神の赦しを受けることの出来る者とされました。ですから、「確信をもって、大胆に神に近づくことができます」と言い切ることができるのです。
 しかし、だからと言って、この世において、何の苦難もなくなるということではないことは、パウロの実状を見ても分かることです。パウロの苦難は続きます。しかし、その苦難が全く違った意味を持って来るのであります。パウロは言います。「あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」どうして、苦難が栄光となるのでしょうか。それは、パウロの苦難を通して、異邦人に福音が伝わり、彼らに救いがもたらされるからです。それは、神様の秘められた計画、救いの御業の栄光のしるしだ、ということです。
 私たちも様々な苦しみを経験いたします。それらの中には、自分が蒔いた種によるものも含まれているかもしれません。しかし、そうした苦しみも含めて、キリストの故に、神様の赦しの御計画の中にあります。それだけでなく、その苦難を通して、他の人々にも神様の御計画が伝わるのであります。そのように、私たちが日常生活の中で抱える様々な問題も、実は、神様の秘められた救いの御計画の一環であり、神様の御栄光を表わすことにつながるのだと言うことを覚えたいと思います。 祈りましょう。

祈  り

計り知ることの出来ない大きな恵みの御計画をもって、全世界・全宇宙において救いの御業を行い給う父なる神様!
 私たちは日頃の歩みの中で、苦しみを味わったり、行く先を見失ってうろたえたりしてしまう者でありますが、私たちの愚かさや罪をも超えて、あなたの救いの御計画の中に組み入れてくださっていることを信じて、その恵みを覚え、御栄光を賛美いたします。
 つまらない私でありますが、どうか、あなたの御業の中で、御心に適った働きをする者とならせてください。どうか、この小さな教会が、永遠の御計画に沿う働きをすることが出来ますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年8月24日  山本 清牧師 

 聖  書:エフェソの信徒への手紙 3:1ー13
 説教題:「
神の秘められた計画」         説教リストに戻る