序. 真の家族とは

 今日は、マルコ福音書331節以下の御言葉が与えられています。先週は、すぐ前の20節から30節までの箇所でしたが、そこでは「悪霊」とか「聖霊」が出て来て、何を語ろうとしているのか、把握しにくい箇所でありましたが、「家」という言葉がキーワードになっているということを申しました。「家」という言葉で表されていることは、私たちの家庭(家族)のことであり、教会という「神の家族」のことであって、そこに主イエスが入って来られて、悪霊どもを追い出して、主人・支配者となられる、ということを聴いたのであります。
 今日の箇所はその続きであります。今、司会者の朗読をお聞きになってお分かりのように、ここでも主イエスの家族のことが主題となっています。主イエスの家族である母マリアや兄弟たちが主イエスを連れ戻そうとしてやって来たのに対して、主イエスは最後のところで、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われたのであります。先週の箇所と違って、今日の箇所の主題は明解であります。ここの主題は≪主イエスの真の家族とは誰か≫ということであります。そして、その答えは、<主イエスの家族とは、血のつながった肉親のことではなくて、主イエスにお従いし、神の御心を行う人たちである>、と言われていることは、一読しただけで誰でも分かるのであります。
 しかし、そのことが分かったら、今日の箇所で主イエスが今、私たちにお語りになろうとしていることを聴いたことになるのでしょうか。一体、私自身は、主イエスの家族であると言えるのか、言えないのか、どうあれば主イエスの家族になれるのか、そのことが分からないと、今日の主イエスの言葉を聴いたことにはならないのではないでしょうか。そういうわけで、今日は、私たち自身が主イエスの真の家族なのかどうか、そのことを問いつつ、この短い箇所から、大きな恵みを受け取りたいと思います。

1.外に立つ母と兄弟たち

 まず31節には、こう書かれています。イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。このことから私たちがまず読み取らなければならないことは、主イエスには、親や兄弟姉妹たちがいたということであります。そのことは他の福音書に書かれている主イエスの降誕物語や幼少の頃のことから知っているのですが、改めて、主イエスも私たちと同じ一人の人間として、家族の中で育たれ、その交わりの中で生活して来られたということに気づかされるのであります。ここには、父ヨセフが登場しないのは、早く亡くなられたのであろうと考えられていますが、そうした母子家庭の長男として、家族のしがらみの中で、普通の人間として生きて来られたのであります。ところが、30歳くらいになると、家を出て、あちこちに出かけて行って、家族とは疎遠になっている。そればかりではなくて、先週の箇所の21節には、身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである、とあるように、どうも様子がおかしい。まともでなくなっているようだ。だからもう一度、ナザレの家に連れ帰って、家族と一緒の生活を取り戻させる必要がある、と考えたのであります。オーム真理教に連れ込まれて家に帰って来なくなった者を、何とか連れ戻そうとする家族の気持ちと似ていると言えるかもしれません。
 31節では、「外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」と書かれています。この「外に立ち」という言葉は、実は、21節で「気が変になっている」と書かれている言葉と元が同じなのです。「気が変になっている」という言葉は、先週にも説明しましたように、「自分の存在から外へ出てしまう」という意味の言葉で、「我を忘れる」とか「自分を失う」という意味で使われるのですが、ここでもその言葉が使われているのであります。ということは、21節では、「気が変になっている」即ち「外に立っている」のは主イエスであるという意味で使われていた言葉を、31節では、主イエスを連れて帰ろうとしている御家族の方に使っているのであります。つまり、マルコ福音書はここで、本当に「外に立っている」(気が変になっている)のは誰なのか、主イエスの方ではなくて、家族の方ではないのか、という問いを投げかけているのであります。また、この「外に立っている」という表現は、32節の、大勢の人が、イエスの周りに座っていたという表現と対照的です。家族ではない大勢の人たちが主イエスの近くにいるのに対して、近い間柄の家族たちの方が、主イエスと離れた外にいて、自分たちの方から主イエスに近づこうとはしないのです。「人をやってイエスを呼ばせた」ということの中には、家族の人たちが自分たちは主イエスの周りにいる人たちよりずっと近い関係なのだと考えていたことが表れています。彼らは中に入って、聴衆の一人になることを全く考えていないのであります。彼らは自分たちが正常であって、主イエスやここに集まっている人たちの方がおかしい、と考えているのです。しかし、どちらが、主イエスとの本来の関係にあるだろうか、自分たちこそ主イエスと強い絆で結ばれている筈であり、まともだと思っている家族こそ、文字通り「外に立って」いるのではないか、と筆者のマルコは問いかけているのであります。主イエスの母マリアと言えば、天使から受胎告知を受けたとき、「お言葉どおりこの身になりますように」と言って、信じた信仰の持ち主です。また、イエスの少年時代にエルサレムに上った時に、両親がイエスを見失って、神殿で学者たちと話しているのを見つけると、イエスが「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と言われたことを心に納めていた筈のマリアでしたが、そんなことも忘れて、今は、主イエスを自分の理解の範囲内、自分の支配下に納めたいと思っていて、主イエスとの本来の関係を失っているのであります。私たちも同じように、主イエスを自分の理解、自分の気に入る範囲に納めてしまっているのではないかを問われなくてはなりません。

2.イエスの周りに座っていた人たち

 では、家の内側にいてイエスの周りにいた人たちは、主イエスを本当に理解していたのでしょうか。そうでないことは32節の彼らの言葉で分かります。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と主イエスに知らせました。何でもない普通の取次ぎの言葉ではありますが、彼らも肉親としての人間関係をそのまま肯定していて、<お母さんや御兄弟がお捜しになるのももっともではないですか、せっかく来ておられるのだから、お会いになってはいかがですか>と言っているのであります。主イエスは、そんなことを言われなくても、家族が来ていることをご存じであった筈です。そして、家族たちの気持ちや思いも知っておられたに違いありません。そして、御家族のことも深く愛しておられて、彼らも主イエスのことをよく理解するようになることを願っておられた筈であります。しかし、主イエスは、今は御自分の方から家族の方へ出て行く時ではなくて、彼らが中に入って来るべき時だと考えておられたのでしょう。主イエスは母マリアに対しても、御兄弟姉妹に対しても救い主であられます。主イエスの周りに座っている人々も、そこまでは分かっていませんし、自分たちと主イエスとの関係についても、必ずしも十分に理解していたわけではないでしょう。彼らの中には、主イエスによって病気を癒していただくことだけを求めていた人がいたことでしょう。また彼らの中には、主イエスがエルサレムで捕えられ、ピラトの裁きを受けられた時に、「十字架につけろ」と叫ぶことになった人がいたかもしれません。また、この中には主イエスによって使徒として任命された十二人もいました。しかし、彼らにしても、主イエスを裏切って逮捕の手引きをする者や、主イエスが裁判にかけられた時に、主イエスのことを「知らない」と三度言ってしまった者や、逃げ出してしまった者たちです。そういう意味では、主イエスの周りにいる人たちと、外に立っていた御家族との間に、大きな違いがあるわけではありません。

3.「わたしの母、わたしの兄弟とは誰か」

 ところで、周りの人からの取次ぎの言葉を聞かれた主イエスは、33節でこう答えられました。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。」――「だれか」と言われたのは、もちろん、母や兄弟が誰のことか分からないということではなくて、<本当の意味で、私の母、兄弟と言える関係にある者は誰なのか>という問いかけであります。同時に、<外に立って私を捜している母や兄弟姉妹などは、今のままでは本当の意味での私の母や兄弟姉妹ではない>という厳しいお言葉でもあります。彼らが家族として、人間的な血筋の関係や愛情の中で、主イエスを自分たちの思いのもとに縛り付けようとすることを拒否されたのであります。先程も申しましたように、主イエスが肉親の家族に対する愛情を失われたわけではありません。むしろ、彼らの救いのことを深く願っておられる筈でありますし、彼らの将来のことも気遣っておられた筈です。後に、主イエスが十字架につけられた場面では、マリアのことを愛弟子に託されたほどでありました。しかし、ここではそうした人間的な関係以上の新しい、深い関係に気づくことを望んでおられるのではないでしょうか。そのことは、私たちに対しても望んでおられることであります。私たちも、主イエスに対して、様々な期待をしますし、やさしいお言葉や暖かい人間的な関係や、具体的な慰めや癒しを求めます。そのことは、主イエスの母や兄弟姉妹たちだけでなくて、主イエスの周りに集まって来ている人たちも同様であったことでしょう。しかし、主イエスはそれ以上の関係を求めておられるのであります。否、求めておられるというよりも、それ以上の関係を創り出そうとしておられるのであります。だからこそ、今、このような厳しいお言葉が出て来るのであります。ここで問われていることは、<主イエスとご家族、主イエスと主の周りに座っている人たち、主イエスと私たちの関係だけではなくて、すべての人間関係を成り立たせている根源は一体何なのか>、という問いかけであります。

4.「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」

 そのような厳しい問いかけのあと、34節にはこう書かれています。周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」――周りに座っている人々を主イエスが見回されました。彼らは主イエスの御言葉を聞こうとして集まって来ておりました。あるいは、主イエスによる癒しを期待してやって来ておりました。しかし、彼らはやがて、主イエスから離れてしまう可能性のある人たちであります。「十字架につけよ」と叫ぶことになる人たちであるかもしれませんし、主イエスを裏切ってしまう人たちであります。彼らが主イエスを見ている目、主イエスに期待している心は、主イエスの厳しい問いかけに応えられるようなものではありません。しかし、そういう人たちを主イエスの方が見回されたのであります。それは、彼らの主イエスに対する曖昧な関係をも見通された上で、なお、主イエスが愛をもって御覧になったということであります。彼らを何とか救おうという御心をもって見回されたということです。
 その上で、おっしゃいます。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」――これは驚くべきお言葉です。主イエスがこの人たちを買い被っておられるのではありません。見損なっておられるのではありません。主イエスがこの人たちを御自分の母、御自分の兄弟にしよう、との決意をもって御覧になっているということです。もっとはっきり言うならば、十字架への決心をもって、彼らを御覧になっているということです。彼らの自分本位な心、曖昧にして不確かな信仰、それらを御自身の命に変えて、確かなものにしようと決意しておられるということであります。
 32節では、イエスの周りに座っていた人たちが主イエスに向かって「御覧なさい」と言いました。ここでは、主イエスが「見なさい」と言っておられます。翻訳はちがいますが、同じ言葉です。主イエスの周りにいた人たちは、ご家族が来ていることを気づかせようと、「御覧なさい」と言いました。しかし、主イエスは、その同じ言葉でもって、主イエスがこれからなそうとしておられること、本当の家族となるべき人がそこにいることを、「見なさい」と言っておられるのであります。この「見なさい」という言葉は、主イエスの周りに座っていた人たちにだけ言われたのではなくて、もちろん、主イエスの母マリアや兄弟姉妹に向かっても言われた言葉でしょう。言葉のつながりから言えば、<肉親の母や兄弟が真実の家族ではなくて、主イエスを慕って周りに集まって来ている人たちこそ、真実の家族である>と言い放っておられるとも聞ける、厳しいお言葉であります。しかし、主イエスの御心は、主イエスの母マリアや御兄弟姉妹もまた、肉親の関係を超えた真実の家族になってほしい、いや、真実の家族にしよう、そのことを「見てほしい」ということではないでしょうか。

5.神の御心を行う人こそ

 続けて35節で、こう言っておられます。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」――ここでは、「神の御心を行う人こそ」という厳しい限定が設けられています。<誰でも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ>とは言われていません。主イエスは山上の説教の最後にもこう言われました。「わたしのこれらの言葉を聞いて行なう者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイ724)これと同じことを言われたと理解することが出来るでしょう。そうであれば、私たちは主イエスの家族にはなることが出来ないということなのでしょうか。そういう不安を覚えてしまうかもしれません。確かに、神の御心を行うことが必要なのです。では、一体、「神の御心を行う」とは、何をすることなのでしょうか。どのような生き方をすることを求めておられるのでしょうか。
 主イエスは、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」とおっしゃった続きで、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言っておられるのです。ですから、主イエスの周りに座っている人たちこそ、「神の御心を行なっている人」だということになります。しかし、周りに座っている人たちというのは、主イエスの教えを聞こうとして、あるいは病の癒しを求めてやってきている人たちであります。決して、何か善い行いをしている人たちではありません。そして、先程も申しましたように、やがて主イエスから離れて行く人たちや裏切る人たちも含まれているのであります。ですから、「神の御心を行う人」というのは、立派な行いをしている人とか、最後まで主イエスに従い通した人ということではないのです。そういう意味では、主イエスの周りに座っている人たちと、外に立っている主イエスの母や兄弟姉妹との間に、大きな違いがあるわけではありません。たまたま、この時点では、主イエスの周りに座っていた人たちは主イエスに期待し、主イエスの話を熱心に聞いていたのに対して、主イエスの母や兄弟たちは、ただ主イエスを自分たちの人間的な関係の中に引きもどそうとしていただけの違いで、どちらも主イエスを深く理解し、主イエスと深い関係を築いていたわけではありませんし、善い行いを積み重ねていたわけではないのであります。
 では、ここで求められている「神の御心を行う」とはどういうことでしょうか。それは、ここで主イエスが、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」とおっしゃっている言葉を、自分を指して言われた言葉として受け入れ、主イエスに従って行く、ということです。それが、神の御心を行うことであり、主イエスの願っておられることなのではないでしょうか。

結.神の家族への招き

 ですから、今日私たちが「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」との主イエスの言葉を聴いているということは、神の家族へと主イエスの招きを受けているということであります。何かこれから善い行いを積み重ねないと、神の家族になれないとか、逆に、教会に来て主イエスの言葉を耳にしてさえおれば、神の御心を行なっている、ということではなくて、主イエスの招きに応じて、主イエスの足もとに座って、主イエスの御言葉を聞いているならば、それによって、私たちの生き方が変えられ、新しくされ、御心を行う者とされる、という約束であります。言い換えれば、神様の救いの御業が行われて行くということであります。主イエスは今、<その救いの業をあなたがたのために、自分の命をかけてしたいのだ、そして、神の家族に加えたいのだ>と言ってくださっている、ということであります。私たちもまた、今日、この招きの御言葉を受けているのであります。感謝して、この深い愛の招きにお応えしたいと思います。祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 今日も御許に召し集められて、主イエスのお言葉を通して、あなたの家族へと召してくださいます幸いを感謝いたします。そのような恵みを受けながらも、なお、主イエスを自分の方へ引き戻そうとしたり、自分の気に入ったところだけ受け入れようとしたり、主イエスのお言葉に疑いや恐れを持ったりする者であることを告白せざるを得ません。
 どうか、不信仰で自分勝手な私たちをも、主イエスの贖いの故にお赦しください。
 
どうか、あなたの召しを信じて、素直に従って行く信仰をお与えください。どうか、神様の家族の一員として、主イエスの周りに座わらせていただいて、御心をお尋ねすることから、日々の歩みを始める者とならせてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年8月17日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 3:31ー35
 説教題:「
イエスの母、兄弟」         説教リストに戻る