「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その家に押し入って、家財道具を奪い取ることができない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」          (マルコによる福音書327 

 主イエスはカファルナウムの「家」に帰られた。そこはナザレの自宅ではなく、ペトロの実家であるが、既に伝道の拠点・教会であり、神の支配が行われている神の国となっていた。
 そこへ、主イエスの身内の人たちが、イエスを取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と噂されていたからである。身内の人たちは主イエスを自分たちの思惑や期待の中に置いておきたかったが、主イエスは既に新しい「家」の主人になっておられた。
 
エルサレムからやって来た律法学者たちは、主イエスが悪霊に取りつかれている人たちから悪霊を追い出しておられるのを見て、「悪霊の頭(かしら)の力で悪霊を追い出している」と言った。彼らは「神の国が始まった」との福音を受け入れられず、神の子としての主イエスの権威を認めることが出来ないのである。
 これら身内の人たちや律法学者たちは、私たちの姿を写し出している。私たちも主イエスが誰であるかを理解せず、イエスを自分の思惑や支配の下に置いておきたくて、「家」の主人として従って行こうとはしない。
 そこで主イエスはユーモアを込めた二つの譬えを話された。一つは、「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。・・・家が内輪で争えば、その家は成り立たない」という譬え。主イエスは真実の「家」を造るために、ナザレの家からも、律法学者の手からも出て、新しい家に外から入って来られたのである。もう一つの譬えは、標記のものである。家の主人が大切にしている家財道具を略奪するためには、まず、家の主人を縛らなければならないように、主イエスは、私たちの家に押し入るようにして入り込んで来られて、これまで後生大事にしていたものを奪って、私たちの主人となられる。このような強引とも見える主イエスの進入を喜んで受け入れることが信仰に入ることなのだ。
 続けて主イエスは、「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠の罪の責めを負う」と。私たちは神と隣人に対して罪を犯している。そのために本当の憩いの「家」を失っている。そんな私たちの中に主は押し入るように入り込んで来られて、全ての罪を赦してくださる。そこに働くのは聖霊である。この聖霊を冒涜し、否定することは、十字架の救いを否定することであり、そこには赦しはあり得ない。

主日礼拝説教<要 旨> 2014年8月10日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 3:20-30 
 説教題:「
聖霊と悪霊」 説教リストに戻る