序. 家に帰られると

 今日の聖書の箇所(マルコ32030)の小見出しは「ベルゼブル論争」となっています。マタイとルカの福音書に併行箇所がありますが、いずれも同じ小見出しがつけられています。ベルゼブルというのは、22節で言い換えられているように「悪霊の頭」の名前です。また23節では、主イエスがこれを「サタン」と言い換えられています。しかし、「ベルゼブル」と言い、「悪霊の頭」、或いは「サタン」と言っても、その正体が不可解で、この箇所では何が問題とされているのか、何が主題なのかということが、なかなか分かりにくい箇所でありまして、私たちに何を語りかけているのかということが掴み難くて、説教題の題の予告もどうつけたらよいか迷って、取り敢えず「聖霊と悪霊」とさせていただきました。
 説教の準備を進める中で、「説教黙想(アレテイア)」という本に、加藤常昭先生が書かれているものに出会い、また加藤先生の説教集を読んで、やっと、この箇所のテーマが見えて来ました。そのテーマのキーワードは、「家」という言葉です。今日の箇所の中に5回出て来ます。冒頭の20節に、イエスが家に帰られると、とあります。この「家」というのは、ナザレの自宅のことではありません。129節以下で「シモンとアンデレの家に行った」ということが書いてあるのですが、そこがその後、カファルナウムにおける伝道の拠点になっていたのではないかと推測されています。その家に帰られたということから今日の物語が始まっているのであります。旅先の伝道拠点に帰られたということであれば、何でもないことのようでありますが、21節を見ますと、身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た、と書かれていますし、34節を見ますと、その家にやって来ていた人々のことを、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とおっしゃっています。これらのことから、主イエスは既に、ナザレの自宅よりも、このカファルナウムの家を自分の家と考えておられたことが分かります。しかも、単なる便宜上の伝道の拠点というのではなくて、そこに真実の憩いの場があるという意味が込められているように思われるのであります。言い換えると、そこに教会がある、ということ、更に言えば、そこに神の国があるということです。主イエスがおられる所、そこは既に神の国であり、神様の支配が行われている場であります。22節からの律法学者との対話の中でも、家の内輪もめのことや、家に押し入った強盗の譬えが語られています。その譬えの中で、「家」をめぐる、サタンと主イエスの争奪戦が語られています。「ベルゼブル」という言葉には元々、「家を支配する者」という意味があるそうです。その家がサタンであるベルゼブルに支配されているのか、主イエスが支配されて、そこが真の憩いの場になるかどうかという争いです。それは、その家が教会になるのか、神の国になるか、神の御支配が行われるのか、ということをも表わしている、と理解することが出来ます。
 ということは、私たちの家(家庭)が、主イエスを主人とする真実の憩いの家になっているか、また、私たちの教会が、神の国(神の支配が行われる所)になっているか、ということが、今日の箇所を通して問われているということです。そういうわけで、今日の箇所の主題は、私たちの家、また私たちの教会の主人は誰か、私たちの人生の主人として主イエスをお迎えしているかどうか、ということであります。

1.取り押さえに来た身内の人たち

 さて、先程も少し触れましたが、場面はカファルナウムの家であります。そこには、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった、と書かれています。多くの人々が癒しを求め、真実の憩いを求めて、やって来ておりました。そこに主イエスがおられ、神の家が出来て、教会が成立し、神の国が始まっていたのであります。
 しかしそこに、そのことを喜べない人たちがやって来ました。21節にはこう書かれています。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。気が変になっている」という言葉は、「自分の存在から外へ出てしまう」という意味の言葉だそうです。我を忘れる、自分を失う、ということです。家族や小さい時から主イエスのことを知っている人たちからすれば、自分たちが知っていて、自分たちの手の中にいた主イエスではなくなってしまった、ということです。自分たちが期待するような姿で成長し、大きな働きをするようになってくれていたのなら、誇りとすることが出来たでしょうが、自分たちの手の中に納まらなくなってしまって、むしろ気が変になったのではないかと思われる言動が見られるようになってしまった、ということです。身内の人たちは主イエスを愛しており、主イエスのためを思っているつもりです。しかし、結局は自分たちの思惑、自分の期待の中に主イエスを置いておきたいのであります。
 この身内の人たちの姿から、私たちの身内の姿を見出すことが出来るかもしれませんし、私たち自身の姿を示されるかもしれません。私たちが教会へ来るということについて、私たちの家族はどう見ているのでしょうか。よく理解してくれている場合もあるかもしれませんが、あまり深入りしないでほしい、自分たちから遠い世界へ行ってしまわないようにと心配している家族があるかもしれません。或いは、私たち自身が、教会に深入りすることに躊躇があるかもしれません。自分の利益になる、自分のためになる範囲で関わっておこう。身内の者との関係が大事であって、主イエスとの関わり、教会との関わりは、その従来の関係を大きく変えない範囲に留めておこう、という思いがあるかもしれません。家族や身内の者というよりも、自分自身が、これまでの生き方、これまでの時間の使い方、これまで大事にして来たものをそのままにしながら、主イエスともそこそこに付き合って行こう、教会にもそこそこに関わって行こう、教会にのめり込み過ぎないようにしよう、と考えているところがどこかにあるかもしれません。主イエスを私たちの主人として、従って行くのではなくて、主イエスを自分に従わせようとしているところがあるかもしれません。そうであるとすれば、私たちはまだ、主イエスの身内がそうであったように、主イエスをよく理解していないことになります。主イエスが誰であるのか、私たちに何を願っておられ、何を与えようとしておられるのかということが分かっていないということになります。

2.悪霊に取りつかれているとした律法学者たち

 次に、22節で登場するのは、エルサレムから下って来た律法学者たちですが、彼らも基本的には主イエスの身内の人たちと同じです。彼らは、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた、のであります。律法学者は、神様のこと、信仰のことは自分たちが一番よく知っている、と思っていました。ところが、主イエスはこれまでの律法学者とは違っていました。権威をもって語られました。悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出して、癒されました。その現実を見て、主イエスに霊的な力が働いていることを認めざるを得ませんでした。だから、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言わざるを得ませんでした。そうでも言わないと、自分たちの権威が落ちてしまうからであります。彼らは、主イエスの語られる福音を理解しようとしません。神の国が始まったというメッセージを受け取ろうとしません。そして、主イエスを神の子として受け入れることが出来ません。

この律法学者たちの姿は、また、私たちの姿を写し出していると言えるかもしれません。私たちも、自分はそれなりに正しいことをしているし、信仰のことはある程度わかっている、と思いがちであります。信仰を持って長くなる人、教会によく通っている者ほど、律法学者に似た思いを持って、他人を批判してしまいます。パウロは、コリントの教会の人たちにこう言っております。「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならないことをまだ知らないのです。」(Ⅰコリント82)私たちは主イエスがなさったこと、様々の奇跡などを、自分たちの科学的な知識で理解できるところに引き下ろそうとします。主イエスの素晴らしい言葉も、厳しい言葉も、そのままに受け取らずに、自分たちで受け入れやすい言葉に解釈して、受けとろうとします。それは、律法学者たちが、主イエスのことを「ベルゼブルに取りつかれている」とか「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言うのと同じで、主イエスを自分の方に引き下げているに過ぎません。神の子として受け入れ、主なるお方として従って行こうとはしていないということになってしまいます。

3.家が内輪で争えば滅びる

ここまで見て来ましたように、主イエスは身内の人たちの躓きと律法学者たちの殺意に向き合っておられます。そこで、23節以下に、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた、とありますように、御自身が誰であるかを二つの譬えでお示しになります。ここで、「彼らを呼び寄せて」と書かれている表現は、13節で、「これと思う人々を呼び寄せ」と書かれていたのと同じ言葉であります。弟子たちを召し出された時の言葉と、殺意を持っている律法学者たちを呼び出されるのが同じ言葉なのです。これは、弟子たちも律法学者たちも、主イエスに対して無理解であったという点で同じようであった、ということを示しているのかもしれませんし、主イエスはどちらに対しても、同じ御心で向き合おうとされているということを表わしていると考えることが出来るでしょう。主イエスは今、私たちに対しても同じ御心をもって向き合ってくださっているのではないでしょうか。その御心を受け取って、それにお応えしたいと思います。
 さて、一つ目の譬えはこうです。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」――この譬えについて、加藤先生はこう述べておられます。「主イエスが言われるのは、サタンにも内輪もめがあったら困るだろう、ということです。考えてみればおかしな話でして、ベルゼブルだの、サタンだのといわれるものは、人の心を乱すものです。われわれの心を分裂させるものです。その平和を乱すものであっても、しかし、自分の身内が乱れると困るのではないか、平和でないと困るのではないか、そう言われるのです。実に愉快な、ユーモアに溢れた、主イエスの反問です。サタンさえも内輪もめはしない。そうだとすれば、本当の家を造るために、真理に背く「家の頭」ベルゼブルを追い払うために、外から真実の支配者が来なければいけない、それが、まことの神のところから来た私である、私がその真実の支配をもたらす者だ、と宣言なさっているのです。だから主イエスはナザレの家から出なければならなかったし、律法学者の手からも出なければならなかったのは当然のことですし、その全く外に立ちながら、人の家の外から、中に入って来られたのであります。」――誰でも人間には、すぐに悪霊が住み込んで、破滅してしまいます。その人間を救うのは、内部からではなく、外から来られたお方、悪霊ではなくて、聖霊によって来られるお方以外にはない、ということです。

4.家に押し入る

 27節以下で、もう一つの譬えを話されました。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。――ここでも主イエスはユーモアをもって、御自分を押し入り強盗に譬えておられます。ここで「家財道具」とは、その家の主人が大切にしているものです。私たちには大切にしている「家財道具」があって、それを奪われては生活が破綻する、自分の人生が駄目になると思っていて、それを後生大事にしています。ところが、主イエスは、その私たちの家の中に押し入るようにして入り込んで、大切にして来たものを奪っておしまいになる、とおっしゃっているのです。そのような強引とも思えるような主イエスの進入を、喜んで受けるということが、信仰に入るということであります。
 先ほど朗読していただいたイザヤ書4925節以下には、こう書かれていました。「主はこう言われる。捕われ人が勇士から取り返され/とりこが暴君から救い出される。わたしが、あなたと争う者と争い/わたしが、あなたの子らを救う。あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ/新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。すべての肉なる者は知るようになる/わたしは主、あなたは救い、あなたを贖う/ヤコブの力ある者であることを。」これは直接的にはバビロン捕囚からの救いのことを語っているのでしょうが、私たちをサタンの手から救い出される主イエスのことが預言されていると受け取ることが出来ます。主イエスは十字架において、サタンに自らの肉を食わせ、自らの血に酔わせることによって、私たちを罪の縄目から贖い出してくださったのであります。

5.聖霊を冒涜する罪

 二つの譬えに続いて主イエスは28節でこう言っておられます。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。――ここでは、「罪」と「冒瀆の言葉」が並べて語られていますが、ここで「罪」とは、隣人に対する罪のことで、「冒瀆の言葉」とは神様に対する罪のことであります。私たちは、人を愛することも、神を愛することも出来ない罪の中にあります。そのために、真実の憩いの場である「家」を失っているのであります。しかし、主イエスは外から押し入るようにして入り込んで来られて、神と人に対するすべての罪の赦しをお与えくださって、私たちの家、私たちの教会を、真実の憩いの家、神の国に変えてくださる、ということです。そこに働くのは、悪霊ではなくて、神様の霊、聖霊であります。
 そのあと、29節で主イエスはこう言われました。「しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」――28節では、「どんな冒瀆の言葉も、すべて赦される」と言われたのですが、ここでは赦されない罪があるとおっしゃるのです。身内の者たちや律法学者たちは、主イエスが悪霊に取りつかれていると思い込んでいるのです。その人たちにこの言葉を語られました。主イエスが悪霊に取りつかれていると思うことは、主イエスが聖霊において働いておられることを否定することにつながります。主イエスが洗礼をお受けになった時には、聖霊が鳩のように降りました。サタンの誘惑を受けるために荒れ野へ行かれたのも、聖霊に送り出されてでありました。そして、悪霊に取りつかれている人たちを癒されたのも、聖霊における戦いでありました。それなのに、主が悪霊の頭の力で悪霊を追い出しているというのは、聖霊を冒瀆することになるのは明らかです。それは、主イエスの十字架の救いを否定することにつながります。そのような罪は、赦される筈はありません。主イエスはそのことを警告しておられるのであります。

結.私たちの家の主イエス

 今日の箇所のキーワードは「家」でありました。主イエスは私たちが閉じこもりがちな自分の「家」に押し入って来られます。聖霊において、入ってこられます。そして、私たちの大切にしていた「家財道具」を捨てさせて、私たちの「家」の主人となられようとされます。私たちは、この主イエスを自分の家の主人として喜んで迎え入れる者になりたいと思います。祈ります。

祈  り

教会の頭、イエス・キリストの父なる神様!
 悪霊が私たちをあなたから引き離そうとして、あの手この手で働きかける中で、あなたは主イエス・キリストをお遣わしくださり、そのキリストが自ら悪霊と戦ってくださって、私たちが安んじて住むことの出来る家を、地上に建ててくださいましたことを感謝いたします。
 どうか、私たちが、イエス・キリストを私たちの家の主人、教会の頭として信頼し、崇め、礼拝する者とならせてください。どうか、今も働き給う聖霊を冒涜するような過ちを犯すことがありませんように。そして、終わりの日に天上に備えられた家に憩うことの出来る者とならせてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年8月10日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 3:20ー30
 説教題:「
聖霊と悪霊」         説教リストに戻る