序.山に登って

 私たちがこうして教会に集まって来て、礼拝をするのは何のためでしょうか。神様の言葉を聞いて、慰められるため、力づけられるため、あるいは、信仰を養われ、精神的に成長し、心豊かな生き方が出来るため、あるいは、愛とか奉仕の精神を学んで、世のため人のために仕える人間に成長するためでしょうか。――そのようなことも、教会へ来ることによって得られることであり、教会に来る目的に含まれていると考えて、必ずしも間違っているとは言えないでしょう。しかし、そういうことは皆、自分を高めること、自分の人生を豊かにすることであります。神様はそういう目的のために、私たちをこのように集めておられるのでしょうか。
 今日与えられております聖書の箇所には、主イエスが十二人の弟子を任命されたことが記されています。それは、彼らの信仰を養い育てて、立派な人間にするということも含まれていたかもしれませんが、それだけに終わるのではなくて、主イエスの働きに参加させるためであり、主イエスの恵みの御業を後世に伝える役割を果たすことになる「教会」という集団を形成するためでありました。
 私たちがここに集められておりますのも、その延長線上にあります。神様は、私たち一人ひとりの人生を豊かにするだけではなくて、世界の救いのために私たちを用いようとして、このように私たちを御許にお集めになり、弟子にしようとしておられるのであります。今日は、初代の教会の働きを担って行くことになる弟子が任命された聖書の記事を通して、私たちを召して弟子にしようとされている、計り知ることの出来ない神様のお招きの御心に触れたいと思うのであります。
 ところで、先日、31節から12節までの箇所で聴いたこととのつながりを、最初に振り返っておきたいと思います。1節から6節までの箇所では、安息日に主イエスが片手の萎えた人を癒されたことが問題になっていて、主イエスに敵対する人たちが、イエスを殺そうかと相談し始めたことが記されておりました。そして主イエスは7節にあるように、彼らを避けるかのように、湖の方へ立ち去られたのであります。また、7節から10節までには、おびただしい群衆が癒しを求めて主イエスのところに押し寄せて来たことが記されていて、そうした御利益を求める群衆が、主イエスを十字架につける群衆に変わって行ったというお話をしました。主イエスはそんな群衆と距離を置くかのように、小舟を用意させられました。また、1112節には、汚れた霊が主イエスを見て「あなたは神の子だ」と叫んだことで、一見正しい告白をしているように見えるのですが、主イエスは霊どもを厳しく戒められたということが書かれていました。このように、色々な形で、主イエスへの敵意が拡がる一方で、誤った期待が膨らむ中で、今日の、十二人の弟子たちを任命するということが行われたのであります。
 今日の13節の初めに、イエスが山に登って、と書かれています。「山」というのは、旧約の時代以来、祈りの場であり、神様の啓示が行われる、神様との出会いの場所でありました。先程読んでいただいた出エジプト記19章は、エジプトを出たイスラエルの民がシナイ山でモーセを通して十戒を与えられる出来事の直前の場面です。モーセが山に登って行くと、神様の声が聞こえて、「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝になる」(出エジプト記195)と言われて、新しい使命を与えられたのであります。このように、「山」とは、神様と出会って、新しい使命を与えられる場所であります。主イエスはそのような山に登って、弟子たちを任命されようとするのです。このような教会の礼拝の場所は、かつての「山」に相当する場所であって、私たちはここで、神様に出会い、約束の御言葉をいただき、新しい使命を与えられるのであります。
 求道者の方々は、まだ「弟子になる」ということがピンと来ないと思われるかもしれませんが、このような礼拝の場というのは、神様との強い絆が出来る場であり、それは弟子になることへと神様が招いておられる場に他なりません。

1.これと思う人々を呼び寄せ

 さて、13節にはこう書かれています。イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。――ここに「これと思う人々」という言葉があります。この日本語は、この人は優秀だから選ぼうとか、この人は気に入ったから弟子にしようとされたというように、何かの基準があって、その基準で優れた者を選別なさったような印象を受けかねないのですが、元の言葉は、「願う」「欲する」「御心である」という意志を表わす言葉です。選ばれる方に理由があるのではなくて、選ぶ方の主イエスの御意志によって選ばれた者たちが呼び寄せられたということであります。
 私たちがこうして礼拝に来ているのも、私たちは自分の意志で来ているように思っていますが、神様の御意志によって呼び寄せられたのであります。それも、私たちに見所があるからとか、弟子になるのに相応しい性格や能力があるから選ばれたのではなくて、神様の強い御意志が働いているというように受け止めなければなりません。
 「彼らはそばに集まって来た」と書かれています。ファウスティというカトリックの司祭はこの表現について、「簡潔だが荘厳な場面描写である」と言っておりまして、ヨハネ福音書にある主イエスが語られた言葉を引用しております。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ1232)。これは、御自分が十字架に上げられるときのことを言われたのですが、十字架から輝き出る光が、すべての人を引き寄せることになると予言されたのであります。そのことが、既に弟子たちを呼び寄せられた時に始められているのであり、今もそのことが、私たちの礼拝の中でも起こりつつあるということであります。

2.使徒と名付けられた

 続けて14節を見ますと、そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた、とあります。十二人というのは、イスラエルの民が十二の部族から成り立っていたことと関係しております。イスラエルの父祖アブラハムから数えて三代目のヤコブに十二人の子どもがいて、これが十二の部族になったとされています。この十二という数字には特別な意味が含まれています。マタイ福音書1928で主イエスは、再臨のことについてこう語っておられます。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二の部族を治めることになる。」つまり、主イエスは十二人の弟子を揃えることによって、新しく始まろうとしている神の国に備えようとしておられるのであります。ヨハネ黙示録には、終末の時の新しいエルサレムの光景が描かれていますが、そこにはこう書かれています。「都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。」(黙示録2114)つまり、主イエスの十二人の弟子たちが神の国の礎(いしずえ)になるということであります。主イエスがお選びになった十二人によって、終末に向けての新しいイスラエル、即ち教会の歩みが始まったのであります。

 「十二人を任命し」とあります。この「任命」と訳されている元の言葉の本来の意味は、「作る」「創造する」という意味です。十二人を選ぶことによって、終末に向けて、神の国の到来を告げる新しいイスラエル、教会が作られた(形成された)ということであります。

 そして、任命した十二人を「使徒と名付けられた」と書かれています。「使徒」というのは、「派遣された者」という意味があります。主の御業を達成するために任命し、「使徒」として派遣された、ということです。主イエスはお一人で働かれるのではありません。新しい集団、教会を形成しつつ、救いの御業を進められるのであります。

3.自分のそばに置くため

 その「使徒」の働き、その目的が14節の後半から15節にかけて、三つ挙げられています。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
 第一は、「彼らを自分のそばに置くため」であります。使徒というのは、二つ目に挙げられるように、宣教のために派遣されるということも大切な働きでありますが、まず第一には、主イエスのそばに置かれていなくてはなりません。これは、主イエスに危険が迫っている中で、親衛隊として主イエスをお守りするためではありません。主イエスと生活を共にすることによって、全人格的な教育を行うことが必要だということでもありません。それ以上のことであります。主イエスは「ぶどうの木」の譬えでこう語られました。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ1545)ぶどうの枝がぶどうの木から養分をもらうように、使徒(弟子)は主イエスから命をいただくのであります。キリストとの交わりの中で、自分たちに対するキリストの愛を知って、その愛に応えて自分もキリストを愛していく、そのような交わりを主イエスは何よりも使徒(弟子)たちに求めておられるのであります。
 このことは、教会に連なり、主イエスに出会った私たちも同じであります。いつも主イエスのそばにいて、主イエスの愛を受けて、命を貰っていなくてはなりません。私たちは主イエスから、上手な生き方を学ぶとか、高邁な思想を教えられるのではありません。そういうことなら、本を読んだり、講演を聞いたりして学ぶことも出来ますが、愛や命は主イエスのそばにいなければ、受けとることが出来ません。

4.宣教させ、悪霊を追い出すため

 使徒を任命する第二の目的は、派遣して宣教させることであります。
 主イエスのそばに置かれるだけでなく、宣教のために遣わされなくてはなりません。主イエスは「神の国が近づいた」と言って福音の宣教をなされました。同じように、使徒(弟子)たちも、到来しつつある神の国の民として、神の国の福音を伝える働きに遣わされます。使徒は自分の考えや自分の主張を語るのではなくて、派遣したお方の言葉、その方の御業を伝えるのであります。
 
主イエスのそばに置かれるということと、派遣されるということは、矛盾しているように見えます。しかし、血液が心臓でもって新鮮にされて全身に送り出されて、また心臓へ帰って来るように、使徒は主イエスのそばにおいて愛と命を新鮮にされた上で、方々へ出かけて行って、愛と命を分け与えて、また主イエスのそばに帰ってくるのであります。私たちも全く同様であります。こうして礼拝において、主イエスのそばに置かれて、御言葉を聴き、愛と命に満たされて、そこからこの世へ、日々の生活の場へ、派遣されて行きます。主イエスのおそばで満たされるものがなければ、出かけて行っても注ぎ出すことは出来ません。しかし、主イエスのおそばで満たされるならば、押し出されるようにして出かけて行くことが出来ます。派遣されるとか、出かけて行くと言っても、主イエスがおられず、主イエスの御支配が及んでいない世界に出かけて行くのではありません。私たちが出かけて行くこの世も、主イエスの治め給う世界であります。また、そこで宣教(伝道)の業を行うのも、主イエスが主体であります。私たちの中にある能力や知識を絞り出して伝道するのではなくて、主イエスが私たちを用いて伝道してくださるのであります。私たちはそのことを信じて、ただ主に委ねて、主イエスが行けと言われるところへ出かけて行くだけであります。そうすれば、主イエスがまた、「これと思う人々を呼び寄せ」て、新しい弟子に任命されるのであります。
 使徒を任命する第三の目的は、「悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」と書かれています。悪霊とは、神に敵対する諸々の力であります。悪霊を追い出すのは、神様の御支配が既に始まっているということを露わにするしるしであります。ですからこれは単なる医療事業や福祉事業ではありません。悪霊を追い出された人は、心や体が健やかになるだけでなく、神の国に招かれていることを喜ぶことが出来るようになるのです。主イエスが汚れた霊につかれた人や悪霊に取りつかれた人を癒されたことは、既に1章に書かれていましたが、その権能を使徒たちにもお与えになった、ということです。6章に至りますと、派遣された十二人が多くの悪霊を追い出したことが書かれています(613)。ところが、9章に至りますと、弟子たちが汚れた霊につかれた人から霊を追い出せなかったことが書かれていて、主イエスにお願いしてやっと追い出してもらったのですが、あとで弟子たちが主イエスに「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」とお尋ねすると、主イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われたことが書かれています。つまり、弟子たちに悪霊を追い出す権能を持たせたと言っても、自分たちがその力を獲得したということではなくて、あくまでも主イエスと祈りによって結びついているところに主イエスのお力が働くということであります。
 
私たちを神様から引き離そうとする悪霊の力は、今も活発に働いていて、色々な形で、私たちに挑んで参ります。この悪霊に勝つ力は私たちの内にはありません。私たちの熱心さや努力では勝つことは出来ません。私たちも悪霊に勝つ力を主イエスからお預かりすることが出来るだけです。私たちが主イエスの御業を宣教しつつ、祈りつつ戦う時に、主の力が働いて、悪霊は退散せざるを得なくなるのであります。 

5.使徒のリストから

 16節以降には、任命された十二人の使徒の名前が記されています。最初に挙げられているシモンは、兄弟のアンデレと共に漁師でありました。既に1章で、主イエスによって召し出されたことが記されていました。ここでは「ペトロ」という名を付けたと書かれています。そのいきさつについては他の福音書を見ると、彼が主イエスのことを神の子であると告白したことを喜ばれて、「岩」という意味のペトロという名前をつけて、その信仰の土台の上に教会を建てると言われたのでありました。ゼベダイの子のヤコブとその兄弟ヨハネも漁師でありましたが、既に1章で主イエスに呼ばれて弟子になりました。この二人は「ボアネルゲ」即ち「雷の子」というあだ名をつけられましたが、その意味は彼らの宣教が雷鳴のように力強いものだったということかもしれません。フィリポという名はギリシャ名で、ギリシャ語が話せる人だったようです。バルトロマイ、アルファイの子ヤコブ、タダイについてはよく分かっていません。マタイは徴税人でありました。トマスは主イエスの復活を疑ったことで知られています。熱心党のシモンとありますが、熱心党というのは、ローマの支配に武力で抵抗しようとした一派であります。そして、最後に挙げられているのが、主イエスを裏切ることになるイスカリオテのユダであります。
 
こうして見ると、十二人は特別な才能や能力を持った人たちではなく、思想的にまとまっていたわけでもなく、信仰深い人たちでもなく、雑多な人たちが集められていることが分かります。ただ一つの共通点は、主イエスが選んで、呼び寄せられたということです。しかも、その中に主イエスを裏切る者や疑う者まで含まれていたのであります。この十二人の使徒たちの集団は、私たちの教会の縮図であり、教会の現実を表わしています。しかし、主イエスは敢えて、そのような者たちをお選びになって、神の民として、御業のためにお用いになるということであります。

結.弟子の一人として

 さて、今日の箇所は主イエスが十二人の使徒を任命されたことが書かれていました。この十二人の使徒は、直接、主イエスの御言葉を聞き、御業を見たという点で、特別な人たちであります。しかし、今、申しましたように、この使徒は、私たち教会に来て主イエスに出会っている者たちの姿を現わしており、この使徒たちの働きは私たちに主が与えてくださる使命でもあります。十二人は雑多な人たちの集まりでありましたが、私たちも雑多であり、彼らの中に裏切る者や疑う者がいたように、私たちも不信仰な者であります。しかし、雑多で問題の多い者たちを、主イエスが呼び寄せて、主イエスの大きな救いの御業に用いられたように、私たちをも主イエスの弟子の一人として用いようとして、呼び寄せておられる、ということであります。主イエスが私たちに求めておられるのは、優等生の弟子ではありません。欠けの多い者をも、主イエスの目的のために、お用いになるということです。主のためにお仕えすることは、決して安楽な道を行くことではなくて、厳しい試練が待ち受けているかもしれません。けれども、主イエスが召してくださったことに信頼したいと思います。そして、必ず、主イエスが御業を達成してくださることを信じたいと思います。
 祈りましょう。

祈  り

教会の頭なるイエス・キリストの父なる神様!
 
力なく、信仰の弱い私たちを、おそばに呼び寄せてくださり、あなたの御業に仕えさせようとしていてくださることを感謝いたします。
 
どうか、頭なる主イエス・キリストを信頼し、従う者とならせてください。どうかこの間違い易い者をも、御心のままに用い尽くしてください。御名が崇められ、御国が来ますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年8月3日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 3:13ー19
 説教題:「
イエスの弟子になる」         説教リストに戻る