序.真の支配者は誰か

4月から、ほぼ月1回の割合で、イザヤ書40章以下の「第2イザヤ」と呼ばれる部分の御言葉を聴いております。この第2イザヤは紀元前6世紀後半のバビロン捕囚時代末期に書かれたのではないかと言われております。イスラエルの国は小さな弱い国でありました。北にはアッシリア、西にはエジプト、そして東にはバビロニアという大きな国があって、それらの間で翻弄され続けて来ました。そうした中で、イスラエルの民が絶えず問いつづけなければならないことは、一体、誰が歴史を導いているのであろうか、誰が真の支配者であろうか、誰に自分たちの将来を託したらよいのか、ということでありました。
 もちろん、イスラエルの民は神様に選ばれた民として、小さい民ながらも、神様が自分たちの歴史を導いてくださるという信仰を持ってはいましたが、その信仰が揺らぎかねない状況が次々に押し寄せて来ました。そして遂には、強力な大国バビロンによってエルサレムは陥落し、捕囚という状況に追い込まれて、既に数十年が経っているのであります。捕囚と言っても、牢屋のような所に幽閉されているわけではなくて、ある程度自由に日常生活を送ることは出来たし、経済的にも困窮状態ではなかったようですが、将来に希望を持てず、人生の行く先も、国の将来も見えない状態でありました。
 こうしたイスラエルの民の状況と今の私たちの置かれた状況とは、表面的には大きく違いますが、現代も、経済力や軍事力がぶつかり合う中で、力のない国や民族が虐げられている状況が、世界のあちこちで見られますし、それぞれの国や組織の中でも、能力のある者、権力を握った者が、そうでない者たちを支配する構造が進んでいて、経済的にも格差が広がりつつあります。そうした中で、競争に勝ち抜けないで、将来に希望を持てなくなった人々たちが、犯罪に走ったり、享楽に耽ったりしますし、不満のはけ口をテロなどの暴力に訴えて体制を覆そうとする者が出て来ます。そうした極端に走らない場合でも、人生に明確な目標を見出すことが出来ず、成り行きのままに、何となく日々を過ごしたり、小さな幸せを守るだけの、夢のない生き方になってしまっている人が多いのではないでしょうか。
 
では、私たちはどうなのでしょうか。世界の歴史を導く本当の支配者は誰なのか、自分の人生を託すべきお方は誰なのか、私たちの命を最も大切に扱ってくださるお方は誰なのか、ということについて、確信を持てているのでしょうか、迷いはないのでしょうか。私たちは、バビロン捕囚の中にあって、小市民的な生き方に安住しているイスラエルの民とは違うと言えるのでしょうか。
 今日のイザヤ書411節で、イザヤはこう呼びかけています。
 
島々よ、わたしのもとに来て静まれ。国々の民よ、力を新たにせよ。進み出て語れ。互いに近づいて裁きを行おう。
 
ここに「裁き」という言葉が出て来ます。これは裁判のことです。「島々よ」「国々の民よ」と地中海沿岸からメソポタミアにかけての国々に呼びかけて、法廷論争の形をとりながら、世界の歴史を導く本当の支配者は誰なのか、果たして権勢を誇っているバビロニア帝国なのだろうか、という問題を論証しようとしているのであります。
 この箇所から、私たちは、<現代の世界を導く本当の支配者は誰なのか>、また<私たち自身の人生を導くお方は誰なのか>、という問いに対する預言者イザヤのメッセージを聴き取りたいと思います。

1.誰が天の万象を創造したか

 この問いは、実は第2イザヤが始まった40章からの問いでありました。4026節では、こう語られていました。「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方/それぞれの名を呼ばれた方の/力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。」――ここでは、天地万物を無から創造された神様が、今も世界を御支配なさっていて、バビロンもイスラエルもその支配下にあって、そこからは誰も逃れられないのだ、ということを述べることによって、捕囚の中で倦み疲れているイスラエルの民を力づけているのであります。4028節の言葉を聴きましょう。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。」――イスラエルの民は倦み疲れているかもしれないが、造り主なる神様は、決して倦むことなく、疲れることもないお方である、だから、31節にあるように、「主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」と言い切ることが出来るのであります。 

2.王たちを従わせたのは誰か

 さて、今日の41章の241行目ではこう問いかけております。

 東からふさわしい人を奮い立たせ、足もとに招き/国々を彼に渡して、王たちを従わせたのは誰か。この人の剣は彼らを塵のように/弓は彼らをわらのように散らす。彼は敵を追い、安全に道を進み/彼の足をとどめるものはない。この事を起こし、成し遂げたのは誰か。

 この、東から登場して王たちを従わせた者というのは、やがて紀元前540年前後に、突然ペルシャから頭角を現して、破竹の勢いでバビロニア帝国を滅ぼしたキュロス王のことを指しています。

 このペルシャのキュロス王は、征服地域の宗教を自分たちの宗教に転換させるのではなしに、それぞれの宗教を尊重し、捕囚からも解放する政策をとったので、イスラエルの民もエルサレムへの帰還が許されることになるのであります。

 しかし、イザヤは「王たちを従わせたのは誰か」「この事を起こし、成し遂げたのは誰か」と問うております。やがて出現するであろう新しい王がバビロン帝国を追い散らすのであろうか、そのことを成し遂げる本当の歴史の主役は誰であろうか、と問いかけるのであります。そして、42行目以下で、こう語ります。それは、主なるわたし。初めから代々の人を呼び出すもの/初めであり、後の代と共にいるもの。――表面的に見るならば、キュロス王こそ解放者であります。それまで長年にわたってバビロニア帝国の支配下に苦しんできた国々にとって、キュロス王は、解放者であり、救い主であります。イスラエルの人たちも、新しい王の登場に対して、そういう期待を抱いたのかもしれません。しかし、真の解放者はキュロス王ではありません。<この事を成し遂げた歴史の本当の主人公―「それは、主なるわたし」、即ち、父なる神様である。>――これが歴史の法廷で下される神様の判決であります。

 この神様について、「初めから代々の人を呼び出すもの、初めであり、後の代と共にいるもの」と述べられています。「初め」というのは、先程40章のところで見たように、世界を創造された「初め」という意味と共に、父祖アブラハムの時代からイスラエルの民を選んだ、という意味が込められているでしょう。神様は急に歴史の舞台に出て来られたのではありません。世界の初めからおられ、イスラエルの民を御自分の大切な民としてずっと導いて来られた、ということです。そして、「後の代と共にいる」とも言われています。これからも、イスラエルの民と共にあり続ける、ということです。これからの歴史においても、神様が主役であり続けられる、ということです。

 ここでイスラエルの民について言われていることは、今日で言えばキリスト者に言われていることでもあります。神様は神の民である教会の2000年の歴史を導いて来られたし、私たちキリスト者を呼び出し、その人生の歩みを導いて来られ、これから後も共にいて導いてくださるのは、他の誰でもなく、神様であります。イスラエルの民が、バビロン捕囚という閉塞状態の中にあった時に、頃合いを計ってキュロス王を起こしてくださった神様は、もし、私たちが閉塞状態に陥っているとすれば、それを見過ごしにされる筈はありません。

3.わたしはあなたを助ける

 イスラエルの民への神様の約束は8節以降にも続きます。
 わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。89節)
 
ここでは、神様とイスラエルの民との関係が、「わたしの僕」「わたしの選んだ」「わたしの愛する友」という言葉で表現されています。「僕」は、主人と僕の関係を表わします。僕は主人の支配下にあり、主人の意向に従わなくてはなりません。しかしそれは、主人の利益のために、ただ、こき使われるだけの奴隷的関係ではありません。「選んだ」と言われているように、神様の御計画に特別に用いられる者たちとして選ばれたということであり、「愛する友」とさえ呼んでくださる、神様の愛から出た親しい関係であります。それは、どんなことがあっても、「決して見捨てない」と言われる強い関係であります。その強い絆の根拠はイスラエルの民の側にあるのではなくて、神様の側にあります。イスラエルの民は、再三再四、神様を裏切りましたが、神様は決して裏切られることはありませんでした。この固い関係はまた、神様とキリスト者との関係でもあります。私たちは神様の御心を蔑ろにして、勝手なことをしてしまい、罪を重ねています。しかし、それでも神様は私たちをお見捨てにはならない、ということであります。
 
10節から14節にかけては、「恐れるな」という言葉が3回繰り返されています。イスラエルの民は恐れていました。大国の強い力を恐れていました。捕囚の中で、これから先どうなることかと恐れていました。私たちもまた、権力を持っている者たちに押し流される時代が来たのではないかと恐れています。不幸なこと、災害や病が襲い掛かるのではないかと恐れています。将来が見通せない中で、先のことを恐れています。しかし、10節ではこう語られています。
 
恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。
 
神様はどこか遠くの天上におられて、見守っておられるというだけではありません。イスラエルの民と、また私たちキリスト者と「共にいる神」であられます。「共にいる」とはどういうことでしょうか。ただ、側にいて、慰めたり励ましたりするということではありません。「わたしはあなたの神」と言われます。世界を御支配なさっておられる神様が、わたしの神様なのです。そして、「勢いを与えてあなたを助け」と言われるように、神様の力を分け与えてくださるのです。また、「わたしの救いの右の手であなたを支える」とも言っておられます。私たちが力をふりしぼって神様にしがみついていなくてはならないのではなくて、神様が強い右の手でもって支えてくださるのです。
 続けて1112節には、私たちに敵対する者たちが、神様によってどうなるのかが述べられています。
 
見よ、あなたに対して怒りを燃やす者は皆/恥を受け、辱められ/争う者は滅ぼされ、無に等しくなる。争いを仕掛ける者は捜しても見いだせず/戦いを挑む者は無に帰し、むなしくなる。
 
私たちが神様に選ばれて、神様の御心に従っている者であるかぎり、私たちに敵対している者たちが勝利することはありません。神様が私たちに勢いを与えてくださるし、神様の右の手でわたしたちを支えてくださるからであります。教会は今、明らかな敵によって戦いを挑まれたり、邪魔をされているわけではありませんが、見えない大きな力によって、行く手を阻まれているように見えます。しかし、私たちと共にいてくださる神様は、見えない敵をも滅ぼされ、無に等しくしてくださるお方です。 13節は、ほぼ10節の繰り返しです。
 
あわたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う/恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。
 
10節と少し違うのは、「右の手」が、10節では神様の右の手で支えると言われていたのに対して、13節では「あなたの右の手を固く取って」と言われています。「右の手」というのは、普通、効き手であります。自分の意思によって、それを用いて、自らの力を揮います。しかしその右の手は、しばしば神様の御心に反して用いられます。そこで神様は私たちの右の手を固く取って、コントロールされるのであります。神様の御心から離れた手は、いくら力を発揮しても、間違ったことをしてしまいます。だから、神様が固く取ってくださるのであります。主イエスは「山上の説教」の中で、「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい」(マタイ530)と言われました。そうならないように、神様は私たちの右の手を固く取ってコントロールしてくださるのです。
 14節では、3回目の「恐れるな」が語られています。
 
あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ/イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。
 
あなたを贖う方」と言われています。「贖う」とは奴隷を買い戻すという意味の言葉です。ここでは、〈敵の手から解放する〉という意味でしょう。捕囚からの解放のことを指しているのかもしれません。また、イスラエルの民が「虫けらのような」と表現されています。ひどい言い方ですが、実際、イスラエルの民は大国の狭間にあって、虫けらのような存在でありました。今の日本における教会の存在も、虫けらのようなものに見えます。しかし、神様はそのような「虫けらのような」私たちを助ける、と言っておられるのです。どのように助けられるのでしょうか。1516節にはこう語られています。
 
見よ、わたしはあなたを打穀機とする。新しく、鋭く、多くの刃をつけた打穀機と。あなたは山々を踏み砕き、丘をもみ殻とする。あなたがそれをあおると、風が巻き上げ/嵐がそれを散らす。あなたは主によって喜び躍り/イスラエルの聖なる神によって誇る。
 
打穀機」というのは、日本の脱穀機とは違って、そりのような大きな板の下に石か鉄の刃をはめ込んだもので、それを牛に引かせて、麦の穂を脱穀するものですが、ここでは、「あなたは山々を踏み砕き、丘をもみ殻とする」と言うのですから、ブルトーザーのように、立ちふさがる山のような困難をも踏み砕くことが出来るようになるし、敵をもみ殻のように退散させることが出来るということでしょうか。神様が虫けらのようなイスラエルを助けられるならば、バビロンから帰還する道も開かれ、様々な障害ももみ殻のように飛び散らされるということです。教会も、また私たちも、虫けらのような弱い存在のように見えますが、神様からの使命を与えられ、神様の助け受けるならば、目標に向かって平坦な道が開けるということであり、結果的には「主によって喜び躍り」「聖なる神によって誇る」ことが出来ると言うのであります。

結.彼は来る――イエス・キリストの来臨

 17節以下は、省略させていただきますが、25節の1行目に注目したいと思います。わたしは北から人を奮い立たせ、彼は来る。これは、やがて登場して、イスラエルの民をバビロンから解放するペルシャのキュロス王のことを預言しているのでしょう。しかし、そのキュロス王が指し示しているのは、救い主イエス・キリストの来臨であります。神様は大きな計画をもって、虫けらのようなイスラエルの民をも導かれましたが、更に、イエス・キリストによって、罪の中にある者たちを贖い出し、そして今も、神の民である教会を用いて、救いの御業の完成へ向けて、その働きを進めておられるのであります。現代の世界を導いておられる本当の支配者は誰か。それは、御子イエス・キリストを遣わしてくださった神様であります。そして神様は私たちに約束しておられます。「恐れることはない。わたしはあなたと共にいる神。
 
たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」10節)
 
祈りましょう。

祈  り

全世界を支配しておられる父なる神様!
 
私たちは、虫けらに過ぎない者であり、罪深い者たちでありますが、そのような者たちをも用いて、救いの御業を完成に向けて進めておられることを覚えて、御名を賛美いたします。
 
どうか、私たちを選び、私たちと共にいて助けて下さるあなたを信じ、従って行く者とならせて下さい。私たちの目に大きく立ちはだかる困難の山々を、どうか、あなたが踏み砕いてくださいますように。
 
どうか、まだあなたが指し示しておられる道がおぼろげにしか見えない方々に、「恐れるな」との力強い御言葉が届きますように。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年7月27日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書 41:1ー16
 説教題:「
あなたと共にいる神」         説教リストに戻る