実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・
                         (エフェソの信徒への手紙2:14

 今、世界のあちこちで、「二つのもの」の間に戦闘が続いていて、その間にある「敵意という隔ての壁」を取り壊すことが容易でない状況にある。また、私たちの身近な家庭や職場や近隣における人間関係においても、自分を善しとし、相手を間違っているとすることから、「隔ての壁」が建てられてしまっている。このような「二つのもの」の間の壁は、どうすれば取り壊すことが出来るのか。
 エフェソの教会では、ユダヤ人と異邦人との間に「律法」という厚い壁が立ちはだかっていた。ところが、筆者は、「以前は遠く離れていたが、今やキリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(13節)と語る。キリストの血は、神に敵対する人間の罪の贖いのために流されたもので、ユダヤ人を含むすべての人間と神との間の「隔ての壁」を取り壊したのであるが、そのことが、ユダヤ人と異邦人との間の隔ての壁をも取り壊すこととなったと言うのである。キリストは神と私たちとの間の平和でありつつ、私たち人間同士の間の平和ともなってくださったのだ。
 エルサレムの神殿では、異邦人の入れる領域が制限されていたが、今や、神殿に替わる新しい教会においては、「キリストによって両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができる(18)のである。更に、教会は、使徒や預言者、即ち、御言葉を土台として、キリストをかなめ石として、建物全体が組み合わされることによって、二つのものがただ一つにされるだけでなく、聖なる神殿へと成長する、と語られている(2021)。「成長」とは、教会の信者の数が増えるとか、教会員が信仰的に成長して、立派な働きをしたり、良い証しをすることが出来るようになることだろうか。確かに、そういうことも含まれるかもしれないが、文脈からすれば、「敵意という隔ての壁」が取り壊されて、「二つのものが一つ」とされたことで、教会がキリストにあって、罪の赦しによってもたらされる平和の拠点としての役割を担っていく、ということが、ここで「成長」と言われていることではないか。

主日礼拝説教<要 旨> 2014年7月20日  山本 清牧師 

 聖  書:エフェソの信徒への手紙2:11−22 
 説教題:「
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