序.敵意は取り壊せるか

今日の説教の題を「二つのものを一つに」とさせていただきました。これは、先程朗読していただいたエフェソの信徒への手紙214節にある言葉から取らせていただいたことは、すぐにお気づきになったと思います。では、皆さんは、この「二つのもの」ということで、どのようなことを思い浮かべられるでしょうか。この世の中には、なかなか一つにはならない二つのものが、色々な面でぶつかり合っていることは、日頃の御自身の生活の中で、或いはテレビや新聞の報道の中で、感じておられることではないかと思います。
 
今、中東のイラクでは、政府軍と過激派の武装勢力との間で戦闘が続いており、パレスチナでは、ガザ地区を巡って、イスラエルとイスラム原理主義組織ハマスによる戦闘が激化しています。これらの戦闘の背景には、宗教的な対立や民族の違い、経済格差などが複雑に絡み合っていて、「二つのものが一つに」ということは殆んど考えられないほどの根深いものがあります。14節には「敵意という隔ての壁」という言葉もありますが、武力行使にまで及んでいる「二つのもの」の間の「敵意という隔ての壁」を取り壊すことは容易ではありません。
 今、我が国では、集団的自衛権の行使を憲法解釈の変更で可能にしようということが議論されています。国民の命を守るためにということが大義名分になっているようですが、なぜ国民の命が危うくなるかというと、「敵意」があるからであります。その「敵意」をそのままにしておいて武力をもって国民の命を守ったとしても、相手の「敵意」は拡大こそすれ、「敵意という隔ての壁」を取り壊すことには、決してならないのではないでしょうか。集団的自衛権は武力を行使するのが目的ではなくて、抑止力が働くようにするのが目的だという主張がありますが、抑止力が働いたとしても、「敵意という隔ての壁」を取り壊すことは出来ません。
 この「敵意という隔ての壁」というのは、このような民族や宗教や経済などが対立している集団と集団の間だけでなく、私たちの身近な家庭や学校や職場や近隣における人間関係においても見られることであります。「敵意」というと相手をやっつけずにはおれないような憎しみや恨みがあることを思い浮かべるかもしれませんが、そこまで行かなくても、立場や考え方や感覚や才能といったものの違いから、自分中心にしか考えられず、相手の気持ちになれないとか、一緒に喜べないとか、妬んだり、軽蔑したりする心を抱いてしまうのも「敵意」と言ってよいでしょう。そうした「敵意」が起こる本当の原因は、お互いの間に違いがあることによるのではなくて、自分を善しとして、相手を間違っているとすることにあります。それは自分と相手を神様の下で見ていないということです。言い換えると「罪」があるからであります。「敵意という隔ての壁」の正体は私たちの罪であります。罪とは神様との関係の破れであります。その罪が、人と人との間、集団と集団の間に「敵意という隔て壁」を築いているのであります。
 
今日は与えられた聖書の箇所を通して、この「敵意という隔ての壁」は取り壊すことができるのか、生まれや立場や能力や考え方の異なる「二つのものは一つに」なり得るのか、ということについて考えてみたいと思います。

1.ユダヤ人と異邦人

 さて、今日の聖書の箇所には、今挙げたような私たちが日常で経験している身近な問題や、現代世界を揺るがしかねない紛争問題が直接扱われているわけではなくて、当時の教会の中にあったユダヤ人と異邦人の間の問題が扱われているのでありますが、この問題への解答が、今日の私たちの身近な問題や現代世界の問題の解決に対する最善の解答になりますし、私たちの教会が抱えている課題への答えにもなるのではないかと思います。そこでまず、このユダヤ人と異邦人の問題についてどのように書かれているかを見て参ります。
 
このエフェソの信徒への手紙というのは、元々、異邦人のキリスト者に宛てられた手紙であります。1112節には、異邦人がどのような状態であったかが記されています。だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。――ユダヤ人は神様に選ばれた民の徴として、幼い時に割礼を身に受けていて、それを誇りとしていました。また、イスラエルの民は、神様から十戒をはじめとする律法を与えられて、それを守れば救われるという約束(契約)を与えられていましたので、将来に対する希望を持って生きていました。それに対して異邦人は、割礼という目に見える徴もなく、律法による約束もないので、希望を持つことが出来なかった、と言っております。これは、著者が異邦人を馬鹿にして言っているのではありません。むしろ、11節で「いわゆる手による割礼を身に受けている」と言っているように、ユダヤ人が割礼の有無という肉体的なことを決定的なことであるように考えていたことを皮肉っているのであります。また、契約のことも、それは神様が与えてくださった大事な約束ではありますが、ユダヤ人はその契約の律法に縛られているだけで、神様との本来の良好な関係が保たれていたわけでなく、本当の救いから遠ざかっていたわけであります。ところが、キリストが来られて、肉体的な割礼によってではなくて、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるという、新しい契約を与えてくださったので、もはやユダヤ人だけでなく異邦人も救いに入れられる希望を持つことができるようになった、というわけです。そのようなことが、どうして可能になったのか。そのことが13節以下で述べられて参ります。

2.キリストの血によって――神との和解

13節にはこう記されています。しかしあなたがた(異邦人)は、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。――これまでは、割礼を受けているかどうか、律法を守っているかどうかが壁となって、ユダヤ人と異邦人は一つになれなかったのでありますが、そこに決定的な変化がもたらされました。それが「キリストの血」であります。つまり、キリストが十字架に架かって、人間の罪のために流してくださった血であります。十字架というのは、神様に対する人間の敵意がもっとも高まった姿、人間の神様に対する罪がもっとも凝縮した姿であります。ユダヤ人たちは、自分たちは割礼を受けている、自分たちは律法を守っている、と言って正しさを誇っていたのですが、そのユダヤ人が、神の子キリストを十字架に架けてしまうという、大変な間違い、大きな罪を犯してしまいました。しかし、神様はこの大きな間違いを、救いの恵みへと逆転されました。神の子キリストが十字架の血を流してくださったことによって、神様は、ユダヤ人はもとより異邦人も含めたすべての人間が神様に対して犯している間違い(即ち、罪)を赦してくださるお方であることが明らかにされたのであります。 こうして神様と人間との関係を結ぶ新しい道が開かれました。そのことによって、ユダヤ人と異邦人との間に立ちはだかっていた壁も取り壊されることになったので、「以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者になった」というわけです。
 
ここで著者が言っているのは、直接的にはユダヤ人と異邦人の間のことですが、このことは私たちを含めた全ての民に当て嵌まることであります。私たち日本人は異邦人として、真の神様を知らない世界で生きて来た人が大半であります。そこには当然、神様の御心に反する生き方があった筈であります。また、生活を取り巻く様々な不安が、私たちを脅かしていました。何を目指して生きて行ったらよいのかも分からないまま、ただ懸命に走り続ける生き方をしていたかもしれませんし、中には、他人に対して迷惑をかけてしまうような生き方をして来たかもしれません。では、こうして教会に導かれて、神様を曲りなりにも知った後の生き方はどうでしょうか。神様の御心に沿った生き方が出来ていると言えるのでしょうか。ユダヤ人は神様を知っていることを誇って、却って間違いを起こし、大きな罪に陥ってしまいました。そのように、私たちも、自分が正しい人間であることを誇って、他人を裁いたり、軽蔑したりしているかもしれませんし、第一、神様と真剣に向き合って、御言葉に耳を傾けているだろうか、御心に従っているだろうかということが問われます。私たちもまた、ユダヤ人と同じように、キリストを十字架に架けるのと同様な過ちを犯しているかもしれません。
 
しかし、ここで今、私たちが聴くべきことは、そんな私たちの罪をも負って、キリストは十字架に架かり、血を流してくださった、ということであります。神様は、そんな私たちをも赦して、神様との良い関係を取り戻せるようにしてくださった、ということであります。
 
14節に、実に、キリストはわたしたちの平和であります、とあります。この「平和」とは、第一には神様と私たちの間の平和であります。私たちの方から台無しにしてしまった神様との良い関係を、キリストが取り戻してくださった、ということです。キリストが間に立って、十字架の血をもって執り成してくださったということであります。そのことによって、神様と私たちの間の和解が成立し、平和が取り戻されたのでした。

3.二つのものを一つに――人と人との平和

 こうして、キリストの血によって、神と人との平和が取り戻せたことは、人と人との間の平和にもつながります。「キリストはわたしたちの平和であります」と言われていることは、神様と私たちの間の平和に留まらず、人と人との間の平和にも及びます。キリストは私たち人間の間の平和でもあられます。そのことが、次に述べられています。
 二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。14b16節)
 普通、和解とか調停というと、双方の言い分を聞いて、妥協点を探るというような方法が採られます。しかし、キリストがなさる和解の方法は、二つのものを足して二で割るようなやり方ではなくて、「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」という方法です。つまり、仲介者であられるキリスト御自身が肉を裂かれるという形で、つまり御自分の犠牲において、敵意という壁を取り壊して、二つのものを一つにしてしまわれる、ということであります。キリストは、二つのものそれぞれが神様との間に作ってしまっていた間違った関係、罪の関係を、自らの犠牲によって清算されました。そのことによって、二つのものの間の壁も取り壊されるのであります。それぞれが、神様との和解を与えられることによって、お互いの和解も実現するのであります。この方法以外に、真の和解、本当の平和はありません。
 最初にも触れました私たちの間にある様々な「敵意という隔ての壁」――集団と集団の間の壁、個人と個人の間の人間関係の壁も、妥協や譲歩や我慢することによっては取り払われることはありません。敵意の根が残っている限り、いつのまにか敵意の壁はまた甦ってしまいます。双方がキリストの前にぬかずいて、自らの罪に気づいて、しかもキリストの犠牲によって救われたことを知らされてはじめて、敵意の壁は完全に取り壊されるのであります。
 こうして与えられる平和は、単に二つのものの間のわだかまりが取り除かれるだけではありません。1718節ではこう言われています。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。――
 「キリストはおいでになり」と言っております。これは、2000年前にキリストが地上に来られて、十字架による救いの御業を成し遂げてくださったということでしょう。そのことによって、異邦人とユダヤ人の間にあった敵意という隔ての壁は既に取り壊されたのであります。いつの日か将来においてということではなくて、もう、壁はなくなって、平和が訪れているという福音として受け止めることができます。そしてその結果、単に壁がなくなっただけでなく「両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことが出来るのです」と言っています。この言い方は、エルサレム神殿では、異邦人の入れる範囲が限定されていたことや、聖所には祭司だけしか入ることが出来なかったことを背景にして述べられていますが、そうした制限が、キリストの和解の御業によって取り払われて、誰でもが父なる神様に近づくことが出来るようになったことを述べていて、神殿に替わる新しい教会の姿を指し示しています。「一つの霊に結ばれて」という表現にも注目させられます。使徒信条でも「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」は聖霊の働きの中に含まれています。主イエスの十字架の働きに加えて、聖霊の導きがあって、公同の教会が形成され、御父なる神様に近づくことのできる新しい礼拝が成立するのであります。こういうわけで、教会は「敵意という隔ての壁」が取り除かれた平和の拠点であります。

4.神の家族――教会

 19節以下は、そのようにして形成された教会のことが、続けて語られています。
 19節では、従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、と言われています。旧約の時代にも、異邦人が信仰を持って割礼を受ければ、神の民の一員にはされましたが、「改宗者」と呼ばれて区別されました。しかし今や、異邦人であってもキリストによる救いを信じる者は誰でも神の家族とされた、と言うわけです。これは霊的には全く同じだということです。教会においては何の差別もありません。たとえ過去に犯罪歴がある人であっても、他の社会では人並みに扱われないような人であっても、キリストを信じるならば、神の家族の一員、兄弟姉妹であります。
 20節では、その教会が建物に喩えられています。使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、と言われています。これはもちろん、目に見える教会の建物のことではなくて、霊的な意味でありますが、そこは目に見える教会堂と同じように、しっかりとした土台に支えられていることが大切である、というわけです。それは、使徒や預言者という土台と、キリストというかなめ石であります。使徒や預言者というのは、教会の中の一定の職務、例えば牧師や長老のことを言っているのではなくて、旧約の時代に神の言葉を伝えた預言者や新約の時代になってキリストのことを宣べ伝えた使徒たちという意味で、彼ら自身というよりも、彼らが伝えた御言葉が教会の土台になる、ということです。そして何よりも大事なのは、教会自体を成り立たせているもの、かなめ石と言われているキリストの存在であります。キリストの御人格であり、キリストの生きた御言葉こそが、教会の土台であります。

結.聖なる神殿への成長

そして最後に、その教会の成長のことが21節以下に述べられています。キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。2122節)
 ここで成長という比喩で表わされていることは、どのようなことでしょうか。教会の信者の数が増えて行くことでしょうか。或いは、教会員が信仰的に成長して、立派な働きをしたり、よい証しをすることが出来るようになることでしょうか。そうしたことも含めてもよいかもしれませんが、今日の箇所の流れから言うと、「敵意という隔ての壁」が取り壊されて、「二つのものが一つに」されるということが、ここで「成長」と言われていることではないでしょうか。教会がキリストにあって、平和の拠点になる、神様との関係における平和、人と人との間の平和の拠点としての役割を担って行く、罪の赦しによってもたらされる真の平和が広がって行く拠点となって行く、それが教会の成長ということではないでしょうか。
 神様は今日も御言葉によって、この小さな教会をも神の神殿へと成長させてくださっています。感謝して祈りましょう。

祈  り

私たちの平和であり給うイエス・キリストの父なる神様!
 神と人とに対して罪深い私たちでありましたが、今日も、御許にお招きくださり、イエス・キリストにあって、あなたとの間の平和を回復させてくださり、そのことによって、人と人との間の平和をももたらせてくださいますことを覚えて、感謝いたします。私たちはなお、弱く、成長どころか、後戻りしかねない者たちでございますが、どうか、御言葉を絶やさないで下さい。どうか、敵意が渦巻き、数々の隔ての壁が立てられるこの世にあって、平和の拠点の一端を担う教会の働きを続けることができますように、聖霊を送って支えてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年7月20日  山本 清牧師 

 聖  書:エフェソの信徒への手紙 2:11ー22
 説教題:「
二つのものを一つに」         説教リストに戻る