「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」 (マルコによる福音書34
 
そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスは多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。            (同福音書3910 

 イエスが安息日に会堂にお入りになると、そこに片手の萎えた人がいた。イエスを訴えようとしていた人たちは、安息日にイエスがこの人を癒されるかどうか注目していた。するとイエスは、手の萎えた人を真ん中に立たせて、人々に標記()のように問われた。安息日には仕事をしてはならないとの掟に捉われて、病んでいる人や悩みを抱えている人を放っておくことが神の御心であろうか、との問いである。答えは明白である。だが、彼らは卑怯にも黙っていたので、イエスは怒り悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われて癒された。だが、このことによって、訴えようとしていた人々は反省するどころか、イエスへの殺意を強めた。主イエスは、御自分の命をかけて、手の萎えた人を癒されたのである。
 しかし、主イエスは、そのまま十字架への歩みを続けられたのではなく、一旦、湖の方へ立ち去られた。そこでは、おびただしい群衆がイエスのところに集まって来た。彼らは標記()にあるように、病気の癒しを期待して、イエスに触れようとしたのである。だが、イエスは、小舟に乗って、彼らから離れようとされた。それは、迷信的・御利益的な信仰から距離を置かれたのであろう。このような、御利益を求める人々は、その期待が裏切られると、敵意を抱くようになる。主イエスが捕えられて、裁きを受けられた時、「十字架につけよ」と叫んだのは、このような人々であった。
 主イエスは、御自分を陥れようとする人々の罪を担われるとともに、自分の利益だけを求めて近づいて来て、結局はイエスを見捨ててしまう人々の罪をも担って、十字架にお架かりになられたのだ。
 ここに登場する2種類の人たちの中に、私たちの姿があるのではないか。だが、そんな私たちのためにこそ、主イエスは命をお捨てになり、私たちの命を救おうとされるのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2014年7月13日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 3:1−12 
 説教題:「
イエスに触れようと」 説教リストに戻る