序.イエスに近づく人々

4月からマルコによる福音書を学んで来ました。そのうち、2章からは、律法学者・ファリサイ派の人々と主イエスの問答が続いていて、今日の箇所の36節にまで及んでいます。また、31節から6節までの段落は安息日の持ち方のことが問題とされていて、先週聞いた223節から28節と同じテーマが取り上げられています。そうしたことからすると、31節から6節は先週の箇所と一緒に読むべきだったのかもしれません。そして、37節以下は、おびただしい群衆が病の癒しを求めて主イエスを追っかけて来たことが記されていて、そのあとには十二人の弟子を選ばれたことへと続いていて、かなり異なる状況が記されて参ります。そういうことからすると、今日の箇所は、前半の6節までと後半の7節以下との間には大きな区切りがあって、本来は分けて取り上げるべきであったかとも思います。年の初めに、あまり深く考えずに説教テキストを決めたのでこういうことになってしまったのですが、改めて今日の箇所に取り組んでみて、こういう組み合わせも良かったのではないかと思うに至りました。と申しますのは、6節までは、ファリサイ派の人々やヘロデ党の人々という、主イエスに敵対的であった人々のことが書かれていて、7節以下は、主イエスに病を癒していただこうとして押し迫って来る群衆のことが書かれていて、一見すると、全く正反対の立場の人たちのことが書かれているのでありますが、実は、どちらの人々も主イエスとの関係においては問題があって、最後に主イエスを十字架に追いやったのは、当初から敵対していた律法学者・ファリサイ派の人たちだけでなく、主イエスに期待をかけていた筈の群衆も同様であった、という事実であります。
 2章で学んで来ましたように、自分の正しさを誇るファリサイ派の人々の姿は、私たちの罪の姿が映し出されておりました。同様に、癒しを求めて主イエスに期待をかけている群衆の姿の中にも、自己の利益を求める私たちの姿が映し出されていて、私たちもまた主イエスを十字架に架けてしまうような存在ではないかということに気づかされるのであります。
 
そういうわけで、今日は、社会的な立場の上では大きく違う二組の人々の姿と主イエスとの関わりを通して、それらの両方の立場の人々をも覆い、私たちにも及んでいる、主イエスの十字架の大きな恵みを聴き取りたいと思うのであります。

1.訴えようとする人々

 まず、前半の主イエスに敵対する人々のことから見て参ります。場面は、安息日の会堂であります。そこに片手の萎えた人がいました。安息日の持ち方について、以前から主イエスを批判していた人々は、もし主イエスが安息日にこの人の病気を癒されたら、律法違反だとして訴えようと、主イエスの言動に注目しておりました。というのは、安息日には仕事をしてはならないという掟は、医療行為にも及ぶとされていたからであります。もっとも、命に関わるような緊急を要する場合には医療行為も許されることにはなっていました。しかし、今、会堂にいるのは片手が萎えた人で、すぐ命に関わるような病状ではありません。しかし、手が萎えて使えない状態では仕事も家事も、ままならないでしょう。気の毒な状態ではあります。主イエスはどう対応されるのでしょうか。主イエスを陥れたい人々はこの人の病気を癒されるのかどうか、虎視眈々と注目していました。

1−1.「真ん中に立ちなさい」

 すると、主イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われました。これは大胆な、挑戦的な言葉であります。こっそりと隅の方で癒されるのではなくて、むしろ皆にはっきりと分かるように、癒しの行為を見せようとなさったのであります。これはもちろん、人々の前で奇跡的な行為を行なって、尊敬を集めようということではありません。主イエスは訴えようとしている人々の心の内を見抜いた上で、彼らにはっきり見せようとして、真ん中に立つように言われたのであります。加藤常昭先生はこの主イエスの言葉を、「ご自身に対する殺意を真ん中に引きずり出して、あからさまなことになさった」と述べておられます。つまり、主イエスを訴えようとする人たちの狙いは、主イエスを亡き者にすることであります。このあと6節には、早速、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めたと記されています。彼らがそうすることを十分予想できる中で、主イエスは敢えて、公然と彼らに挑戦されたのであります。

1−2.「命を救うことか、殺すことか」

 そして主イエスは人々にこう問いかけられました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」――主イエスを訴えようとしている人たちは、片手が萎えた人がどれほど不自由な生活をしているか、この病から何とかして逃れたいと願っていることなどは、毛頭も考えていません。ただ主イエスが掟に違反するかどうかだけを考えています。自分たちの正しさを基準にして、他人の苦しみや痛みまで思い至っていません。そんな彼らに対して主イエスは、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか」と問われます。敢えて、彼らが問題にしている安息日のあり方について問われます。そして、本来、安息日は善を行うためにあるのか、悪を行うためにあるのかということを問われます。神様は人間が安息日に善か悪か、どちらをすることを喜ばれるのかを問われます。命には別状がないのだから、癒されるのは一日くらい延びても構わないというようなことを、神様は喜ばれるのか、という問いかけであります。

 続けて主イエスは言葉を変えて、「命を救うことか、殺すことか」とまで言われました。片手の萎えた人をそのまま放置することは、その人を殺すことになるのではないか、と問いかけておられるのです。「命」と訳されている言葉は、「心」とか「魂」とも訳せる言葉であります。ですから、この人を放って置くことは、単に肉体的な命を殺すことになるだけではなくて、その人の全存在・人格をも無視することになるのではないか、という問いかけであります。つまり、安息日に何が大事かと言えば、安息日の掟を文字通りに守るかどうかということではなくて、人の命が救われるかどうか、病んでいる人、悩みを抱えている人が神様の憐みを受けるかどうか、ということなのではないか、という問いかけであります。

 こういう主イエスの問いかけは、今、主日の礼拝をしている私たちにも投げかけられているのではないでしょうか。私たちは自分が正しい行動をしたり、主日礼拝をきっちり守っていることを誇りつつ、色々な事情で礼拝に来ることが出来ない人を批判することはするけれども、その人たちが抱えている問題にどれだけ心を配っているだろうか、その人たちの心や人格をどれだけ大切にしているだろうか、その人たちが救われることをどれだけ祈っているだろうか、という問いを突き付けられているように思います。もちろん、困っている人を助けるとか、慈善活動をすることが礼拝よりも大切だということにはなりません。しかし、自分が正しいことをしてさえいれば、それでよいというのは、決して神様の御心ではないでしょう。

 ところで、主イエスがこのように問われたことに対して、彼らは黙っていた、と書かれています。沈黙が必要なこともあります。しかし、ここでは彼らの過ちが明白にされています。ですから素直に過ちを認めるべきでした。けれども彼らは卑怯にも口をつぐんでいます。

 そこで、主イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しまれました。主イエスは彼らを批判しておられるだけではありません。怒って、悲しんでおられるのであります。その原因は彼らの「かたくなな心」であります。自分の過ちを認めず、自分を変えようとしない、石のような心であります。主イエスは、この「かたくなな心」を怒って、対決しておられるのであります。私たちも「かたくなな心」の持ち主であります。反省するようなことは口にしますが、決して自分を変えようとしないところがあります。その心に対して、主イエスはお怒りになります。しかし、主イエスの怒りは、その人を罵ったり、傷つけたりすることには向かいません。深く悲しまれるだけです。むしろ御自身を殺すことへと向かわれるのであります。そして、かたくなな者を殺すのでなくて、逆に生かそうとされるのであります。

1−3.手を伸ばしなさい

 主イエスはそのような怒りと悲しみを抱きながら、片手の萎えたその人に、「手を伸ばしなさい」と言われました。寝たきりだった中風の人に「起きて、床を担いで歩け」と言われ、墓で異臭を放っていたラザロに「出て来なさい」と言われた主は、ここでは、自分ではどうすることも出来なかった萎えた手、おそらく医者も癒すことが出来なかった手を伸ばすように命じられました。その人は主のお言葉に素直に従って伸ばすと、手は元どおりになりました。主イエスは安息日にはしてはならないとされていた医療行為をされて、その人を苦しめていたものから解放されました。そして、その人は心から主イエスに感謝し、神様を賛美したことでしょう。それは手が自由に動かせるようになったというだけの喜びではありません。手が萎えているのは、自分の罪のゆえではないか、何かのたたりではないかという思いに、心まで萎えていたかもしれません。そのような、萎えた心からも解放されました。こうして、主イエスの言われた「善」が行われ、「命」が救われたのであります。これこそ安息日に相応しいことであります。
 しかし、イエスを訴えようとしていた人々の「かたくなな心」は、まだ解放されませんでした。

1−4.イエスを殺そうと

 解放されていないどころか、ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ党の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた、というのです。ヘロデ派の人々というのは、ヘロデ王家を支持する人たちでローマの支配を受け入れていて、ファリサイ派の人たちとは政治的には一致していませんでしたが、主イエスを殺すことでは連帯するのであります。先程も申しましたように、主イエスは彼らのたくらみを御承知でありましたが、敢えて安息日に癒しの御業をなされて、十字架への道を進まれるのであります。
 
片手が萎えた人のために、御自分の命をそこないかねないことまでされなくともよかったのではないか、安息日を避けて翌日にでも癒されてもよかったのではないか、とも思ってしまうのでありますが、主イエスはこの出来事を通して、何が善で何が悪か、何が命を救うことで、何が殺すことかという、極めて大切なことが示されているのであります。それは、ファリサイ派の人たちにしてみれば、自分たちの主張する正しさ、自分たちの存在理由をへし折られるような出来事でありました。ですから、主イエスを殺そうと考えずにはおれませんでした。一方、主イエスにとっては、それが全ての人々の救いにつながることであり、避けて通ることの出来ない道であったのであります。

2.おびただしい群衆

 次に、7節以下の、主イエスのもとに押し寄せて来た群衆の姿に目を転じましょう。
 7節の初めを見ますと、イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた、と書かれています。6節までの場面では、何ものをも恐れず、決然と十字架へと進んで行かれる主イエスのお姿を見たのですが、そのままエルサレムに向かって進まれたのではなくて、ここでは、一旦湖の方へ立ち去られたのであります。猪突猛進されるのではなくて、十字架にお架かりになるまでに、なさらなければならないことがありました。それは13節以下に記されることですが、十字架の以後の宣教の働きのために弟子たちを教育しておくということであります。
 
ところが、群衆は主イエスと弟子たちを追いかけて来ます。7節後半からを読みます。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。――主イエスがこれまで活動しておられたガリラヤの人たちのほかに、これから行こうとしておられるユダヤ、エルサレムの人々も噂を聞いてやって来ましたし、イドマヤ以下に書かれている地名は、東西南北の異邦人の国々であります。と言っても、異邦人たちがやって来たのではなくて、それらの地域に移り住んでいたユダヤ人でありましょうが、いずれにしろ各地から、主イエスのことを耳にした人々が押し寄せて来たのであります。

2−1.イエスに触れようと

彼らは何を求めて主イエスのところにやって来たのでしょうか。「イエスのしておられることを残らず聞いて」とあるように、彼らの関心は主イエスが「しておられたこと」、即ち奇跡の業にあったようで、必ずしも主イエスの御言葉を聴くためではなかったようです。10節を見ると、イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからである、と書かれています。病気の癒しを求めて各地からやって来たのであります。5章では、十二年間も出血の止まらなかった女が群衆の中に紛れ込んで、後ろから主イエスの服に触れればいやしていただけると思って触れたことが書かれています。主イエスに触れたら癒されると思うのは、迷信的なことかもしれませんが、その時は、主イエスが気づいて、「あなたの信仰があなたを救った」と言って、女を癒されました。触れることによって主イエスとのつながりを持ち、そこから力を受けようとしたことは、あながち間違いではないのかもしれません。

2−2.小舟――おしつぶされないために

 しかし、9節を読むと、こう書かれています。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。――群衆に押しつぶされないために距離を置かれたのであります。これは身体的な意味で記していることでありますが、群衆が病気の癒しだけを求める迷信的な信仰に陥っていることから距離を置かれたということでもあるかもしれません。実際、このように群衆が熱狂的に主イエスを支持することが、主イエスに敵対している人たちの妬みを買い、彼らの殺意を強めることになりました。また、熱狂的に主イエスに癒しを求めた群衆が、最後には「十字架につけろ」と叫ぶようになるのであります。彼らの信仰は御利益的であり、本物の信仰ではなく、主イエスを十字架に追いやることになるのです。
 けれども主イエスは、敵対者らの妬みを誘わないようにするために群衆を遠ざけられたわけではありませんし、病気の癒しと言う御利益だけを求めて、結局は主イエスを十字架に追いやってしまうことになる、間違い易い、罪深い群衆を捨てられたわけでもありません。主イエスはあくまでも、飼い主のいない羊の群れのような、迷い易く悩み多い彼らを深く憐れまれるのであります。そして、結局、彼らに押しつぶされる道を辿られるのであります。こうして主イエスは、御自分を陥れようとする人々の罪を担われるだけでなく、自分の利益だけを求めてやって来て、結局は主イエスを見捨ててしまう人々の罪をも担って、十字架への道を進まれるのであります。

2−3.言いふらさないように

 1112節には不思議な光景が書かれています。
 
汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。――これは、汚れた霊が、病気を癒してもらおうとして主イエスに触れようとして押し寄せている人たちに取りついているということであります。群衆は、主イエスに癒しの力があることを期待してはいるけれども、主イエスを真の「神の子」であるとは気づいていません。しかし、汚れた霊は、敏感にも主イエスが神の子であることに気づいているのであります。主イエスは霊どもに、御自分が「神の子」であることを言いふらさないように戒められました。それは、病を癒すということが神の子である主イエスのお働きではないからであります。

結.命を捨て、命を救われる主

それでは、「神の子」主イエスの本来のお働きとは何か。それは、自分の正しさだけを主張して、主イエスを陥れようとする人々の罪をも担われるとともに、自分の利益だけを求めて、主イエスを追い求めながら、結局は主イエスを捨ててしまう群衆の罪を担って、十字架にお架かりになって、彼らの罪の赦しを神様に願われるという、救い主としてお働きであります。
 ここの登場するファリサイ派やヘロデ党の人々の中に、自分の正しさを誇る私たちの姿があります。また、自分たちの病や苦しみから逃れようとして、神の子を見ることが出来ず、結局は主イエスを捨ててしまう群衆の中にも、私たちの姿があります。けれども主イエスは、そんな私たちのために、十字架にお架かりになり、命をお捨てになり、私たちの命を救うことを、善しとし給うておられるのであります。そして、私たちが自分の癒しのため、利益のために、こうして礼拝にやって来て、主イエスに触れようとすることをも、決して拒否なさらないのであります。 祈りましょう。

祈  り

憐れみ深い神の子、イエス・キリストの父なる神様!
 今日も、主イエスを訴えようとする人々の姿と、病の癒しを求めて主イエスに押し寄せる人たちの姿を通して、罪深い私たちの本当の姿をお示しくださり、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みへと目を上げさせてくださいましたことを感謝いたします。
 どうか、浅はかで、独りよがりな、私たちの罪を、イエス・キリストの贖いの故に、お赦しください。どうか、主に全てをお任せする信仰をお与えください。そして、もし私たちに出来ることがあるなら、それを喜んでする者とならせてください。また、あなたから離れそうになっている人たちや、あなたに近づこうとしない人たちを批判するのでなく、そうした人たちの悩みや苦しみに寄り添い、あなたの慈しみを証しする者とならせてください。どうか、御名を崇めさせてください。御国を来たらせてください。御心が成りますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年7月13日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 3:1ー12
 説教題:「
イエスに触れようと」         説教リストに戻る