「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」
                        (マルコによる福音書22728

 主イエスの弟子たちが歩きながら麦の穂を摘んでいるのを見たファリサイ派の人々が、「なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と批難した。安息日には刈り入れや脱穀といった農作業もしてはならないとされていて、穂を摘むことも農作業に当たるというわけだ。
 これに対して主イエスは、かつてダビデの供たちが空腹になって神殿に駆け込んだ時に、祭司以外は食べてはならないとされていた供えのパンを与えられたという故事(サムエル上327)を持ち出して、規則に縛られるより、困っている者が恵みを得ることが大事であることを示されて、標記のように語られた。
 そこには、安息日がそもそも何のためにあるかが語られている。安息日の起源は、神が六日の間働いて天地万物を完成し、七日目に仕事を離れて、御自身の安息の中に人間をも引き入れられたことにある。その御心は今も変わらない。神は今も、人間を掟で縛り付けるお方ではなく、人間を罪から解放し、主の安息にあずからせようとされるお方である。安息日は、ただ仕事を休んで、心身の疲れを癒すためだけにあるのではなく、罪の赦しを得て、神と人との関係が回復され、真の安息が与えられる日である。
 主は最後に、「人の子は安息日の主でもある」と言われた。主イエスが引用された故事にダビデが登場するが、ダビデは救い主メシアを指し示す存在とされていた。主イエスは御自分の体であるパンを人々に与えることによって、罪からの救いを実現された。安息日は、そのような主イエスの御業によって、私たちに本来の安息が取り戻されたことを喜ぶ日である。だから、安息日の主役は人の子イエスである。この方と出会い、この方によって安息が与えられたことを喜んで、この方を礼拝するのが安息日なのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2014年7月6日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 2:23−28 
 説教題:「
安息日は、人のために」 説教リストに戻る