序.安息日は何のために

教会では日曜日のことを「聖日」とか「主の日(主日)」と呼んでいます。そして、日曜礼拝のことを「聖日礼拝」とか「主日礼拝」と呼びます。かつては「聖日礼拝」という言い方が多かったですが、最近は「主日礼拝」と呼ぶ教会が多くなっているように思います。「聖」を表わすヘブル語は<分離>を意味します。つまり「聖日」とは他の日とは分離された特別な日という意味になります。<神様を礼拝する特別な日>ということで、それなりに意味のある呼び方だと思います。一方、「主の日(神の日)」という呼び方は、旧約聖書では特定の記念すべき日、あるいは極めて重要な出来事が起こる日として用いられることが多くて、これは毎週の礼拝を行う「安息日(今の土曜日)」とは違っていました。ところが、初代教会では、主イエスが復活された「週の初めの日」(今の日曜日)を「主の日」として、礼拝を守るようになりました。また新約聖書では、「主の日」は復活後天に昇られた主イエスが終わりの日に再臨される日として記されることが多くあります。では、初代教会において、元の「安息日」はどうなったかと言うと、当初は「安息日」と「主の日」の両方を守っていたようですが、次第に「主の日」が「安息日」に代わる日とされるようになったようです。
 
ところで、今日の聖書の箇所(マルコ223以下)では、安息日の持ち方について、ファリサイ派の人々と主イエスの間で問題になっています。これは、日曜日が「主の日」とされる以前の出来事ですから、仕事を休んで礼拝をすべき日とされていた「安息日」のことが問題になっているのですが、私たちがこの箇所から考えなければならないのは、今の「主の日」がどういう日なのか、この日は何のためにあるのか、この日をどのように過ごすのがよいのか、という問題であります。
 先程から歌いました讃美歌55番と53番は、どちらも「礼拝」に分類されている「主の日」がテーマのもので、「主の日」がどれほど喜ばしい日であるのかということが、高らかに歌い上げられていました。これらの讃美歌からも多くのことを教えられ、励まされるのでありますが、今日は更に、ファリサイ派の人々に対する主イエスの御言葉から、私たちの「安息日」である「主の日」がどのように恵みに満ちた日であるのかということを聴き取りたいと思います。

1.なぜ、安息日にしてはならないことを――ファリサイ的批判

 さて、2324節を見ますと、こう書かれています。ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
 
このファリサイ派の人々の疑問(批判)を理解するには、当時のユダヤ人が安息日をどう考えていたかという背景を知らなければなりません。神様からイスラエルの民に与えられた十戒の第三戒では、「安息日に心を留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト2078)とあって、その根拠として「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(同2011)と述べられています。つまり、創世記に記されているように、神様が六日の間に天地を創造されて、七日目に休んで、その日を祝福されたので、人間もこの日を特別な日として、仕事を休まなければならない、とされていて、更にレビ記には、「七日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である」(レビ233)とあって、「聖なる集会」、即ち礼拝をする日と定められていたのであります。ここまでは、「安息日」がどのような日であるのかという基本的なことが述べられている部分で、これらのことは私たちの「主の日」にも当てはまることであります。主イエスや弟子たちは、この日の安息日の礼拝をすませていたでしょうから、その点では問題がありません。
 
ファリサイ派の人々が疑問を投げかけたのには、麦畑で麦の穂を摘んだということに関係があります。申命記2326節に、「隣人の麦畑に入るときには、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」とあります。これは、麦を買えないような貧しい人が飢えることのないように、麦畑に穂が残っているようにするための規定です。弟子たちも、伝道のために旅を続けていて、食べ物を手に入れる時間的余裕も、金銭的余裕もなかったでしょうから、他人の麦畑の穂を摘むことについては何も問題はありませんでした。ファリサイ派の人たちが問題にしたのは、それを行ったのが「安息日」だったからです。「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」という十戒の教えをもとに、ユダヤ教ではこまかい規定を作っていました。それによると、安息日には刈り入れとか脱穀という農作業が禁じられていましたし、食事の準備をすることも出来ないことになっていました。彼らの解釈によれば、麦の穂を摘むことは、刈り入れの作業をしたことのなり、それを食べるには食事の準備が必要だったことになるので、規定に違反するということでしょう。これは、何とか口実を見付けて主イエスを陥れようとする、いわば<為にする批判>であります。

2.供の者にパンを与えたダビデ――主イエスの反論

 このようなファリサイ派の人々の挑戦に対して、主イエスはこう答えられました。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」2526節)――これは先ほど朗読していただいたサムエル記上21章に記されている故事を用いての反論です。サムエル記では祭司の名がアヒメレクとなっているのに、主イエスはアビアタルと言っておられますが、間違いではなくて、アビアタルが大祭司であった時に、その子アヒメレクが祭司でありました。ダビデがサウル王に追われていた時のことですが、ダビデも供の者たちも空腹になって祭司のところに駆け込むのですが、ちょうどその日は安息日で、供え物のパンを取り換える日だったので、普通のパンがなくて、祭儀に用いた聖別されたパンしかありませんでした。それは祭司のほかは食べてはならないとされていたものでした。しかし、困っているダビデたちを見かねたアヒメレクは、身を清めていることを確認した上で、そのパンをダビデに渡したのであります。主イエスはこの故事を引き合いに出しながら、困っている者がいた場合には、細かい規定に囚われるよりは、そこにある物を神様の賜物として受け取る方が、むしろ安息日に相応しいということをこの故事を用いておっしゃったのでしょう。ダビデの故事を引き合いに出されたのは、こじつけのような印象を持たれるかもしれませんが、ここで大事なことは、安息日はそもそもどういう日であるか、ということです。安息日とは、あれをしてはいけない、これをすべきだと、人間が何をするかが大切なのではなくて、この日に神様が何をしてくださるかが明らかにされることであります。ダビデはサウルから追われる中で、神様が備えてくださったパンによって、供の者たちと一緒に空腹を満たすことが出来ました。そのことによって、しばしの安息を得ることが出来たのであります。そのように、安息日というのは、元々神様の恵みの下で安息を得る日であります。しかもここで、もう一つ聴き取らなければならないのは、ダビデはやがて到来する救い主メシアを指し示す存在として旧約聖書の中で位置づけられていたということから、主イエスこそが、ダビデが指し示している救い主である、ということが暗示されているということです。主イエスは、御自分の体であるパンを人々のためにお与えになって救いを実現なさるお方です。そのようにして、主イエス・キリストこそが、安息日の本来の意味を回復するお方である、ということを今日の聖書は告げようとしているのであります。
 
では、主イエスが来られたので、安息日の掟はもう守らなくてもよい、ということでしょうか。 安息日の掟は昔のユダヤ人が大事にしていたけれど今は忘れてもよい、ということでは決してありません。十戒で言われていることは、今も大切な神様の御言葉です。今の時代になれば、この言葉を軽視してよいとか、無視してもかまわないということでは決してありません。しかし、この安息日の掟は、もはや人間を縛り付け、自由を奪うものではなくて、イエス・キリストによってもたらされる本当の自由、罪を赦され悪魔の支配から解放されることによってもたらされる本当の安息を約束するものなのであります。

3.安息日は、人のために

 ダビデの故事を用いて反論されたあと、主イエスがおっしゃったことが27節に書かれています。そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」
 創世記によれば、創造の御業の中で、人間は六日目に神に似せて造られました。そして神はお造りになったすべてのものを御覧になって、「見よ、それは極めて良かった」と述べられ、次の七日目に安息なさいました。これが安息日のそもそもの起源であります。神様は御自分が安息なさるだけでなく、人間と共に安息されたのであります。神様は御自身の安息の中に、人間を引き入れて、人間にも安息を与えようとされたのであります。この御心はその後もずっと続きます。モーセを通して十戒を与えて「安息日に心を留め、これを聖別せよ」と命じ、「いかなる仕事もしてはならない」と言われた時も、それは、人間を礼拝に縛り付けるためではありませんし、人間が空腹のままで我慢したり、病気の人がいるのに治さずにいたりするためではありません。人間を辛い仕事や苦役から解放し、神様と共にある安らぎを喜ぶためであります。安息日の掟を守るために、人間が苦しむようなことがあっては、本末転倒であります。
 けれども、安息日を人間の喜びや楽しみだけに用いるとか、他の用事や家庭での憩いを優先するとすれば、それは、ここで主イエスが言われる「人のため」には決してなりません。六日間の仕事日というのは、どうしても人間の考えや人間の力が支配いたします。神様のことが忘れ去られます。そこには、いつの間にかサタンが忍び寄ります。罪が入り込みます。自分が中心になって、他人のことが二の次にされます。強い者が威張り、弱い者が虐げられます。憎しみが生じます。争いが起こります。そこでは、心からの平安や喜びが失われます。そのような状態というものは、リクレーションや趣味の活動や家庭の憩いだけでは、決して癒されません。罪の赦しということがなければ、本当の安息は得られません。安息日は、サタンの支配や人間の罪から解放される日であります。それは、他人の罪からの解放だけではなくて、何よりも自らの罪から解放される日であります。そして、本当の安息へ、本当の喜びへとリセットされる日であります。本当の意味で「人のため」になる日、本来の人間が回復される日であります。そのことが、安息日に主の前に出て、御言葉を聴き、礼拝することによって起こるのであります。
 
平日に懸命になって働いているので、せめて日曜日くらいはゆっくりと休みたいという気持ちは分らないではありません。確かに、疲れた体を休めたり、気分転換をはかるということも必要ではあります。しかし、それでは働くための休みでしかありません。安息日というのは、労働のための休養日として設けられたのではありません。本当の意味での休養、それを「安息」というわけですが、それは、神様抜きでは与えられません。罪からの解放がなければ、真の安息は得られません。真の安息に入れられることによって、平日の中での人間の思いに支配された無駄な疲れからも解放されます。たとえ安息日に多少、肉体的な疲れが増したとしても、それにも増して、平日の疲れが取れる筈です。そして真の「人のための安息」が得られるのであります。

4.人の子は安息日の主

 最後に主イエスは、28節でこう言われました。「だから、人の子は安息日の主でもある。」――「人の子」とはもちろん、主イエス御自身のことであります。「安息日の主」ということは、主イエスが安息日の主人である、安息日の支配者である、ということです。27節では「安息日は、人のために定められた」と言われました。そこでは、安息日の主人公は人間であるとも受け取れる言い方をなさっています。確かに、27節のところで聴いて参りましたように、安息日は人間の本当の安息と喜びのためにあるのであります。それでは、「人の子は安息日の主でもある」という御言葉とは矛盾するのでしょうか。それなら「だが、人の子は安息日の主である」と言われてもよいのですが、「だから、人の子は安息日の主でもある」と言われます。
 繰り返しになりますが、もともと安息日が設けられたのは、天地を創造された神様が七日目に休まれたことからでした。それは、創造の業を人間と一緒に喜ぶためでした。そして、人間がその神様によって創られた世界で、神様の御心に沿って生きるために十戒をはじめとする律法が与えられました。その律法においても、安息日は仕事を休んで、主の恵みを賛美して、主の安息にあずかる日でありました。しかるに、神様に造られた人間は、律法の本来の趣旨を忘れて、御心に従わなくなりました。安息日の律法についても、安息日にしてはならないこと、しなくてはいけないことを細かく論じるだけで、喜びと感謝の日ではなくなり、人を裁く日となってしまいました。
 そのような中で、本来の安息日を取り戻して下さったのが、主イエス・キリストであります。しかし、本来の安息日を取り戻すためには、今日の箇所にも表れていますように、主イエスには戦いがありました。それは命をかけての戦いでありました。そしてついに、十字架の死に至るまでの、自らの命をも惜しまれない御業が必要でありました。そのことによって、ようやく人間の中にある罪の問題が解決されました。
 
そして、創造の時の本来の安息日を取り戻してくださいました。それは、あくまでも主イエスの御業によることであって、私たちの功績によるものでないことは明らかであります。ですから、「人の子は安息日の主でもある」のであります。イエス・キリストこそ称えられるべき日なのであります。そして、このイエス・キリストを称えることこそが、また私たちの安息にもなるのであります。

結.私たちの安息日

ですから、安息日は単なる体や心の憩いの日ではありません。主イエス・キリストが私たちのために罪を担って、真の安息を勝ち取ってくださったことを覚えて、主を崇め、賛美する日であります。礼拝を行うべき日であります。そのことによってこそ、私たちも本当の安息、真実の安らぎに憩うことができるのであります。
 従って、安息日は義務的に守られるべきものではありません。「礼拝厳守」などと言って、教会に行くことが義務的に行われるようであれば、それはファリサイ派の人々が、安息日の律法の規定を義務的に捉えて弟子たちが麦の穂を摘んだことを批判したことと同じことになります。彼らには安息日の喜びがありません。安息日は、あくまでも神様の恵み、主イエスの御業を覚えて、自由に守るべきものです。
 前に学んだ213節以下では、主イエスの弟子になったレビが開いた食事の席に、主イエスが徴税人や罪人たちと同席しておられるのを見て、ファリサイ派の律法学者が批判したことが書かれていました。彼らは、この食事の席の喜びを共有することが出来ませんでした。そのあと主イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」と言われて、罪人とされる人たちをこそ招くために来られたことを言われたのでありますが、実は、主イエスを批判して喜びのないファリサイ派の人たちこそ、医者を必要とする病人でありました。主イエスは彼らをこそ本当の喜びに招こうとされているのであります。先週の礼拝で聞いた218節以下も同様であります。ここでもファリサイ派の人々は、主イエスの弟子たちが断食をしないことを批判しておりました。それに対して主イエスは、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか」とおっしゃいました。救い主キリストが花婿として来ておられるのに、断食など出来ません。ここでもファリサイ派の人々は、婚礼の喜びの席に加わろうとしていないのです。主イエスは、そのような彼らをこそ、断食の席ではなくて、喜びの婚礼の席に招ねこうとしておられるのであります。私たちの主の日の礼拝は、主と共にある喜びの礼拝であります。そうであるのに、私たちの礼拝もまた、ファリサイ派の人たちと同じような、喜びのない義務的な礼拝になってしまっていないかということを思わされます。
 
私たちの教会の礼拝から遠ざかっている方々がおられます。礼拝に時々しか来られない方々もおられます。その人たちをファリサイ派の人々のように批判しがちです。しかし、その批判は私たち自身に帰って来るものであります。私たちが本当に安息日を喜んでいるか、礼拝で真の安息を得ているか、ということが問われます。私たちの礼拝が、本当の安息日の喜びに溢れているならば、自然と、礼拝から遠ざかっている人たちが帰ってくる筈ですし、礼拝に半ば義務的に来ていた人も、毎週、喜び勇んでやって来られるようになる筈であります。
 しかし、私たちは、自分がファリサイ派の人々に似ていることを憂えていても意味がありません。主イエスは今日も、私たち一人ひとりを礼拝に招いてくださり、安息日の喜びに引きずり込もうとされています。そして主イエスは、ファリサイ派の人々をも命がけで招こうとされたように、私たちのためにも、命を懸けて、罪から救い出して、憂いや疲れの中であえいでいる者を、喜びの叫びを挙げる者へと変えようとしてくださっているのであります。そのような「安息日の主」の御心を覚えて、この主を心から賛美したいと思います。
 
祈りましょう。

祈  り

安息日の主であるイエス・キリストの父なる神様!
 あなたが大きな恵みの喜びを備えてくださっているにも拘わらず、様々な義務感に囚われ、また自分を正しいとして、他人を裁くことをしてしまいがちな者であり、喜びよりも嘆きの中に落ち込むことが多い者でございます。
 
そのような私たちを、今日はあなたの喜びの席に引き出してくださり、御自身の身を捨てて私たちのために救いの道を開いてくださった主イエスの御言葉を聴くことを許し、真の安息へと導き入れてくださいましたことを感謝いたします。
 
あなたが設け、主イエスが勝ち取ってくださった安息日を、どうか私たちが毎週、喜びと感謝をもって迎えることができますように。
 
どうか、1人でも多くの方々と共に、この所で、「安息日の主」なるキリストを賛美することが許されますように。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年7月6日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 2:23ー28
 説教題:「
安息日は、人のために」         説教リストに戻る