「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
                 
(マルコによる福音書222

 ユダヤにおいて、断食は施しや祈りと共に、大切な行いとされていた。主イエスも「山上の説教」の中で、偽善的な断食について警告されているが、断食そのものを否定されていない。しかし、主は弟子たちに断食を押し付けられなかったので、弟子たちは断食をしなかったようである。そこで、熱心に断食をしていた洗礼者ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、イエスのところに来て、「なぜ、あなたの弟子たちは断食をしないのですか」と、イエスを批判した。
 すると主イエスは、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」と言われた。ここで「花婿」とは、御自分のことを指しておられる。「神の国は近づいた」と宣言され、神の国の祝宴が始まろうとしているのに、断食は相応しくない。今や、主の到来によって、喜び祝うべき新しい時代が始まっているのだ。
 
このことを主イエスは更に二つの譬えで語られた。一つは、「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる」というもの。律法に従って生きるという、これまでの生き方に、キリストによってもたらされた罪からの救いという福音による生き方を継ぎはぎしても、かえって生涯全体が破れてしまう。だから、生き方を全面的にキリストに委ねる生き方に変えなくては、喜びに満ちた人生にはならないということである。もう一つの譬えは標記で、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れよ」というもの。この譬えも同じ主旨だが、強調されているのは、新しいぶどう酒の発酵のエネルギーである。この新しいぶどう酒とは、「花婿」であるイエス・キリスト御自身のことである。
 
では、ここで主が言おうとされていることは、私たちが古い革袋では駄目で、努力して新しい革袋に自己変革せよということであろうか。そうであれば、ファリサイ派の人たちが、自分たちの努力で正しいことをすれば救われると主張しているのと同じことになる。主イエスは、新しい革袋を用意したら、それに新しい恵みを注いであげようと言っておられるのではない。既に、新しいぶどう酒、即ち、キリストによる罪の赦しが用意されていて、その赦しの力が、私たちをキリストに相応しいものに造り変えて、喜びと感謝の生活へと導いてくださる、ということではないか。

主日礼拝説教<要 旨> 2014年6月29日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 2:18−22 
 説教題:「
断食か、祝宴か」 説教リストに戻る