序.断食か、祝宴か

今日の説教の題は、予告では「新しい革袋に」としておりました。それは、22節にある主イエスの言葉からとったものですが、この主イエスの言葉は、一般の人にも比較的よく知られている言葉だと思うのですが、妻は、この説教題を看板に書いても通りがかりの人には何のことか分からないのではないか、と申しますので、考え直して、「断食か、祝宴か」という題に変えました。これで一般の方も興味を抱くかというと、そうとも言えませんが、「革袋」よりは「断食」とか「祝宴」の方が馴染みやすいかと思いますし、今日の箇所のテーマを簡潔に記すとすれば、こういうことになるかと思います。
 
18節を御覧いただきますと、こう書かれています。ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」――なぜ、彼らは主イエスの弟子たちが断食をしないことを問題にしたのか、その背景を初めに説明しておきましょう。
 
当時のユダヤでは色々な形で断食が行われていました。国の公式行事である年1回の「大贖罪日」には、断食を行うべきことが律法に定められていました(レビ記162931)。そのほかにも、国家の悲劇の歴史的記念日にも断食が行われました。またユダヤでは、行うべき大切な三つの行いとして、「施し」と「祈り」と共に、「断食」が挙げられていました。主イエスの時代には、ファリサイ派の人々は週に2回(月曜と木曜)の断食をきちっと守っていました。主イエスも山上の説教の中で、「断食をするときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない」(マタイ616)と教えておられて、形だけの偽善的な断食の仕方を問題にしておられますが、断食すること自体を否定しておられるわけではありませんでした。洗礼者ヨハネも16節に、「いなごと野蜜を食べていた」と書かれていましたように禁欲的な生活をしていて、悔い改めの洗礼を受けた弟子たちには、ファリサイ派の人々と同じように、週に二度の断食をさせていたようであります。このように、断食というのは、食を断つことによって欲望を押さえ、命の危機を体験して、神様との関係を思い起こすための敬虔な業として、重んじられていたのであります。しかし、主イエスは弟子たちに断食を押し付けるようなことはなさらなかったようで、そのために弟子たちは断食をしていなかったのでしょう。そこで、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちは、主イエスが弟子たちを甘やかせているとして指導力の欠如を批判しているのであります。一方、自分たちは正しいことをちゃんとしていると、自分たちの正当性を主張しているわけです。
 この批判は、先週の礼拝で聞きましたすぐ前の箇所の問答の続きでもあります。先週の箇所では、主イエスと弟子たちが徴税人や罪人とされている人たちと食事の席を共にしているということで、ファリサイ派の律法学者が主イエスの弟子たちに、「どうして彼(主イエス)は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言って、批判しております。それを聞かれた主イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われて、罪人とされている人たちを救うためにこそ来たことを明言されたのですが、ファリサイ派の人たちはその御言葉では納得していないのであります。先週、申しましたように、この主イエスの御言葉は、罪人とされた人々に対する主イエスの愛の御心が表わされているだけでなく、実は、主イエスを批判しているファリサイ派の人々に中に驕りがあり、神様に対する罪があることを見抜いておられて、そのようなファリサイ派の人たちをこそ救い出したいとの思いが込められているのであります。しかし、彼らはそのような主イエスの御心に気づかないまま、またしても断食のことで、主イエスを批判しているのであります。
 しかしこれは、2000年前の、主イエスに対して無理解な人たちだけの問題ではありません。先週も申しましたが、こうしたファリサイ派の人たちの考え方や態度は、私たちにも通じるものであります。ファリサイ派の人たちや、今日登場したヨハネの弟子たちは大変真面目であり、習慣やルールを誠実に守ろうとする人たちです。ヨハネの弟子たちは、自分たちの過去の行いを誠実に反省して、悔い改めて、洗礼を受け、贅沢な生活を慎んでいた人たちであります。ファリサイ派の人たちも(先週も説明しましたように)律法を忠実に守っている人たちであります。自分たちの生き方・生活態度において、他人に批難されるようなことがない人たちで、自分たちのようにしていない人を批判することが出来る人たちであります。このような態度は、私たちに通じるところがあります。私たちも、自分の正しさを主張して、同じように出来ない人、悔い改めない人を批判しがちであります。
 けれども、主イエスが来られて、投げかけられた問題は、その態度が本当に神様の御心に従うことか、それが救いということか、本当にあなたがたには問題がないのだろうか、罪がないと言えるのだろうか、むしろ、あなたがたにこそ、罪があるのではないか、ということであります。そして、その罪の問題の解決にこそ、私は来たのである、とおっしゃっているのが、先週の主イエスの御言葉でありました。

1.「花婿が一緒にいるのに」

 さて、ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちの批判に対して、主イエスは19節から22節までのことを語られたのでありますが、その最初の御言葉はこうでした。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。」――婚礼の宴席では断食は相応しくありません。だれも断食などいたしません。喜んで食事にあずかります。「花婿が一緒にいる」と言われています。花婿とは誰でしょうか。旧約聖書においては、花婿とは神様であり、花嫁とはイスラエルの民のことでありました。イザヤ書625節ではこう語られています。「若者がおとめをめとるように/あなたを再建される方があなたをめとり/花婿が花嫁を喜びとするとうに/あなたの神はあなたを喜びとされる。」――しかしここでは、主イエスは御自分のことを花婿としておられるのは明らかであります。イスラエルに対する神様の愛を行うお方として主イエスは来られたのですから、主イエスが花婿であります。主イエスが誕生なさったとき、天使はこう言いました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」と。主イエスが来られたことは、花婿である神様が一緒におられるのと同じであります。その花婿が既に来て一緒におられるのに、断食は相応しくありません。この主イエスの御言葉は、「神の国は近づいた」と宣言されたことにも通じます。主イエスが来られたことで、既に、神の国の祝宴は始まっているのであります。そこでは、断食は相応しくありません。罪人を批難したり、差別したりする時は過ぎ去って、罪が赦されて、神様と人間の愛の関係が回復されたことを喜ぶべき時が来ているのであります。ヨハネの弟子たちのように、悔い改めをすることも欠かせないことではありましたが、もはや、悔い改めによる赦しが始まっているのであります。律法に従って正しい生き方をすることも当然ですが、それを誇ったり、正しくない人を批難することに終始している時は過ぎたのであります。ですから、もはや、自分の罪を嘆き悲しむための断食も、自分の正しさを誇るための断食も不要になったのであります。今は、喜び祝うべき、全く新しい時代が始まったのであります。
 
私たちは、まだ悔い改めに至っていない人のことが気になります。まだ信仰を持つに至っていない人々が身の回りにも大勢いることが心配になります。確かに、その人たちは急がないと間に合わないかもしれません。しかし、そのような人たちを批難したり、嘆いていることで、自分たちのところに花婿が既に来ておられることの喜びを忘れて、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちと同じようになっているのでは、私たちが神様の御心を忘れた罪人に逆戻りしてしまいます。
 
他人を批難する前に、私たち自身が、そうした自分の罪に気づいて、喜びの席に戻るべきなのであります。そして、私たちが心から喜んでいる姿が、まだ悔い改めていない人、まだ信仰の決断を迷っている人を婚礼の席に招き入れることになるのではないでしょうか。

2.花婿が奪い取られる時

 主イエスは続けて20節でこう言われました。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」――「花婿が奪い取られる時」とは、皆さんも多分お気づきのように、主イエスが捕えられる時、十字架にお架かりになる時のことであります。主イエスの十字架の場面では、聖書は、「全地が暗くなり」とか、「地震が起こった」ということを伝えております。人間だけでなく、自然も、神の子イエス・キリストが地上から取り去られることを悲しんだのであります。もちろん、主イエスの弟子たちも、その時には自分たちの罪と力のなさを痛感して、深い悲しみを味わうことになります。そういう意味で、弟子たちも断食をすることになるのであります。

 しかし、主イエスがこの地上に来てくださったことによって、基本的には、断食は無意味なものとなりました。しかし、主イエスの御受難・十字架の一点で、後のキリスト教会でも断食が行われるようになりました。ユダヤ教では月曜日と木曜日に断食をしていたのに対して、初代教会のキリスト者たちは、火曜日と金曜日に断食を守るようになりました。それは、金曜日に主イエスが十字架にお架かりになったからです。それは、かつてのユダヤ教の断食以上に、自分たちの罪が主イエスを十字架に架けるほどのものであったことを深く覚えるためでありました。しかし、新しい断食は、その大きな嘆き悲しみを上回る、もっと大きな喜びに満たされているのではないでしょうか。それは、キリスト教会は主イエスの復活を知っているからであります。

 私たちの教会では、受難週には主の十字架を覚えて、贅沢な食事を控えたり、楽しみに浸るようなことは避けることはしますが、断食を行うことは致しません。その代わり、私たちは主イエスが制定された聖餐式を行います。これも主イエスの十字架の死を覚える悲しみの儀式であり、自分たちの重い罪を覚えて悔い改める儀式であります。そういう意味では断食に通じる儀式であります。しかし聖餐式は、同時に、主イエスによる罪の贖いの恵みを覚える喜びのしるしであり、神の国での祝宴を先取りする儀式であります。花婿である主イエスが真ん中に立ち給うて、新しい時代が始まったことを祝う喜びの席なのであります。

3.古いものと新しいもの

 さて、今日の箇所の21節以下では、主イエスは更に二つの譬えを用いて、この新しい時代の到来を告げられます。
 まず、「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる」と言われました。真新しい布はまだ縮んでいないので、新しい布で古い布に継ぎ当てると、洗った時に縮んで、弾力性のなくなっている古い布が破れてしまって、服全体がダメになってしまいます。主イエスが来られて、新しい時代が始まったのに、断食という古い習慣に拘っていると、せっかくの喜びが台無しになってしまうということです。律法に従って生きるというこれまでの生き方に、キリストによってもたらされた罪からの救いという福音による生き方を継ぎはぎしても、かえって、生活全体が破れてしまって、決して神様を喜ばせる生き方にはならないということです。キリストに出会う以前の生活の仕方を温存しながら、キリスト者としての生き方を一部に継ぎはぎしても、生活全体・人生全体が新しくなるどころか、かえって人生に破綻を招くことになりかねない、との警告であります。生き方を全面的にキリストに委ねた生き方に変えなくては、本当の喜びに満ちた人生にならないということであります。
 もう一つの譬えは、一般的にもよく知られているものです。「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」――水や乳やぶどう酒は、羊や山羊や子牛の革で作った革袋に入れて貯蔵されました。古い革袋は柔軟性がなくなっています。それに新しいぶどう酒を入れると、新しいぶどう酒はまだ発酵が続いていますので、その圧力で革袋は破れてしまいます。だから、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなければならないわけです。この主イエスの言葉を一般的な諺として用いる場合には、<新しい思想や内容を実行するには、それに応じた新しい形式が必要だ>という意味で語られ、例えば、企業などが新しい取り組みを始める場合には、古い体質のままの組織ではだめで、組織の見直しから必要だ、というように用いられるわけですが、主イエスが教えられたのは、単なる組織や形式の変更が必要だ、ということではありません。主イエスが語られたのは、先程の布切れの譬えと基本的に同じで、私たちの生き方の問題であります。これまでの律法的な生き方のままで、そこに福音を盛ろうとしても、破綻してしまうということであります。この譬えで主イエスが強調されたいことは、主イエスがもたらされた福音の持つエネルギーであります。主イエスが来られて、新しい神の国の支配が始まったことによって、古い世界の習慣や秩序と相入れなくなるというだけでなく、それらが破壊されるということです。偽善や形式主義が打ち壊されるということです。悲しみや嘆きが喜びに変えられるということです。主イエスが来られたということは、そのようなエネルギーに満ちた出来事であります。
 
主イエスが私たちに関わられるということは、従来の私たちの生活や生き方が壊されて、新しい生き方、新しい生活に造り変えられるということであります。今までの生き方が維持できなくなって、新しい生き方に変わらざるを得ないということです。私たちが主イエスによって救われるということは、古い人生の仕立て直しなんかではなく、古い人間が打ち壊されて、新しい人間が創造されるということです。パウロはコリントの信徒への手紙の中で、こう言っております。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Uコリント517)――キリストに出会うとか、教会に来るようになるということは、このように人間が創り変えられることであり、新しく生まれ変わることなのであります。

結.新しい革袋は新しいぶどう酒によって

それでは、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」という言葉で、主イエスは私たちに何を求めておられるのでしょうか。どうするのがよいとおっしゃっているのでしょうか。
 ここで「新しいぶどう酒」と言われているのは、「花婿」と言われているのと同じで、イエス・キリスト御自身のことであります。そうであれば、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」ということは、キリストを私たちが受け入れるには、私たちが古いままではいけない、新しい革袋に変わらなければならない、ということなのでしょうか。古いままの私たちでは、キリストと異質なままで、キリストのエネルギーに負けてしまって、両方ともダメになってしまう、ということでしょうか。――確かに、私たちが変わらなければ、キリストを受け入れることは出来ないということでしょう。
 しかし、ここで言われていることは、<まず、私たちが自らの努力で自分を変えて、新しい革袋になりなさい。そうすれば、新しいぶどう酒として、あなたがたの中に入ってあげる>ということなのでしょうか。<まず、自己改革が必要である。その後、キリストの恵みを与えよう>と言われているのでしょうか。――もし、そうであれば、あのファリサイ派の人たちが自分たちの努力で正しい行いをして、それで神様の恵みを得ようとしていたことと同じになるのではないでしょうか。もし、そういうことであれば、あの洗礼者ヨハネの弟子たちが、一生懸命に断食をして、自らの罪を反省していたら救いが得られると思っていたことと同じになるのではないでしょうか。もし、そういうことであれば、あの古いままの革袋であり続けるということに過ぎないのではないでしょうか。
 主イエスがおっしゃっていることは、<私たちが努力して、あるいは、私たちが熱心に悔い改めて、新しい革袋を用意出来たら、そこに恵みを注いであげよう>ということではありません。そうではなくて、新しいぶどう酒は既に用意されていて、そのぶどう酒の力が古い革袋をさえ変えてしまう、ということではないでしょうか。既に用意されたキリストの赦しの力が、私たちをキリストに相応しい者に造り変えてくださり、喜びと感謝の生活へと導いてくださる、ということではないでしょうか。新しいぶどう酒は既に私たちのために用意されています。キリストは既に私たちの所に来てくださったのですから、もはや古い私たちに止まっていることは出来ません。既に主イエス・キリストは十字架に架かってくださって、私たちの罪を清算してくださったのですから、私たちは喜びと感謝をもって、それに応えるほかありません。そうすれば、私たちのような者であっても、末永くキリストと共におらせてくださるのであります。もはや、他人によい格好をする必要は全くありません。これまでの罪を隠したり、正当化する必要もありません。ありのままの自分を、キリストの前に差し出せばよいのです。それをキリストが、神様のために役に立つ新しい革袋に変えてくださるのであります。 感謝して祈りましょう。

祈  り

恵み深いイエス・キリストの父なる神様!
 
古い自分にこだわり、あなたの御前においてさえ、自我から離れられない私たちでありますが、あなたはなお、御言葉において私たちの前に立ち続けてくださり、私たちが新しく生まれ変わるために、御自身を差し出してくださっている恵みを覚えて、感謝いたします。
 
どうか、花婿が来てくださった婚礼の喜び・神の国の喜びを、身をもって表わす者とならせてください。
 
どうか、新しいぶどう酒に相応しい者へと、私たちの思いと行動を、そして私たちの生き方を変えてください。
 
主イエス・キリストの御名によって、この感謝と願いを御前にお捧げいたします。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年6月29日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 2:18ー22
 説教題:「
断食か、祝宴か」         説教リストに戻る