「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
                              (マルコによる福音書217   主イエスがカファルナウムの町で、「通りがかりに」、「レビが収税所に座っているのを見かけて」、「わたしに従いなさい」と言われると、「彼は立ち上がってイエスに従った。」――この記述は、無造作で偶発的な印象を受けるが、主は何も考えずに、たまたま目に留まったレビに声をかけられたのではなく、徴税人という立場から離れる勇気を持てず、収税所に「座っていた」(安住していた)レビを、明確な御意志を持って、召し出され、救い出されたのである。
 レビはそのことを喜んで、主イエスと共に多くの徴税人や罪人とされる人々を招いて、宴会を催したのであろう。だが、それを見たファリサイ派の律法学者が、「どうして彼(イエス)は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と主イエスを批判した。律法に違反している人たちから自分を峻別しようとするファリサイ派の人たちにしてみれば、一緒に食事をする前に、彼らの間違いを正すのが先決だということであろう。
 そうしたファリサイ派の律法学者の批判に対して、主イエスは標記のように言われた。主イエスは、「病人」である徴税人や罪人を癒すためにこそ「医者」として来られて、彼らに寄り添っておられるのである。だが、この主の言葉には痛烈な皮肉が込められている。つまり、自分たちは「丈夫な人」だと自認しているファリサイ派の人たちこそ、医者を必要とする病人(罪人)ではないのか、ということである。主はこう言って彼らを断罪するだけでなく、彼らをこそ、思い上がりの罪から救い出そうとして、彼らからの批判という十字架を担っておられるのである。
 では、私たちはどうか。これまでの立場・生き方から立ち上がれないである徴税人であり、他を批判し、自分を正しい者とするファリサイ派の人たちこそ、正に私たちそのものではないのか。主イエスはそのような私たちをも、神の国の喜びの食事の席に招いておられるのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2014年6月22日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 2:13−17 
 説教題:「
罪人を招くため」 説教リストに戻る