序.病人の癒しから罪人の赦しへ

4月からマルコによる福音書によって御言葉を聴いております。
 
主イエスが伝道を始められるに先立って、まず、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたこと、荒れ野でサタンの誘惑を受けられたこと、漁師たちを弟子にされたことが記されていました。そのあと、伝道活動が始まるのですが、第1章の中で書かれていることは、(3つの小見出しで分かるように、)汚れた霊に取りつかれた男を癒されたこと、多くの病人を癒されたこと、重い皮膚病を患っている人を癒されたことと、癒しの奇跡の出来事でありました。そして、第2章に入りますと(前回の箇所ですが)、中風の人を癒された出来事が書かれているのですが、そのあとで、主イエスが中風の人に「あなたの罪を赦された」とおっしゃったことを巡って、律法学者が心の中でつぶやいたことに対する主イエスのお言葉があって、そこでは、主イエスが病気を癒す権威をお持ちであるだけではなくて、罪を赦す権威を持っておられることが明らかにされていました。――このようにマルコ福音書は、主イエスのお働きが、病人の癒しから始まりつつも、本来の最も重要なお働きが罪の赦しであることを示そうとしているのであります。――このことを念頭に置きながら、今日の箇所を見て行きたいと思います。
 
今日の箇所の小見出しは「レビを弟子にする」となっています。確かに前半の1314節は徴税人のレビが主イエスの弟子になったことが書かれているのですが、後半の15節以下は、主イエスがレビの家で徴税人や罪人と食事をされていたことを巡ってのファリサイ派の律法学者とのやり取りが記されていて、そこでは、罪人という病人の招きということがテーマになっているのであります。レビが弟子になった話は1章の4人の漁師が弟子になった召しの物語に続いているようでもありますが、ここでは、むしろ「罪人の救い」ということが、すぐ前の中風の人の癒しの出来事を巡って語られたことを受け継ぐ形で、一層鋭く、深く述べられているのであります。

1.レビを弟子にする

 しかし、その「罪人の救い」というテーマに、レビが弟子とされたことが大いに関係するのであります。そこで順序に従って、まずレビが弟子とされた物語から見て参りたいと思います。
 
主イエスは引き続きガリラヤ湖畔のカファルナウムの町に滞在されていたようであります。相変わらず、大勢の群衆がそばに集まって来たので、主イエスはそれらの群衆に教えを語られました。
 
さて、14節を見るとこう書かれています。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。「通りがかりに」とか「見かけて」という言葉は、無造作で偶発的な印象を受ける言葉ですが、主イエスが何も考えずに、偶々目に留まったレビに声をかけられたということではないでしょう。1章に書かれていた2組の兄弟を弟子にされた時も、彼らを「御覧になった」と書かれていましたが、それはただ目に入ったということではなくて、主イエスが明確な御意志を持って彼らを選び出されたのだということを申しました。ここでも主イエスはレビの状態を深く見抜かれて、声をかけられたのであります。そのことは、「レビが収税所に座っているのを見かけて」という言葉から読み取ることが出来ます。徴税人が収税所に座っているのは当たり前と言えばそうなのですが、わざわざ「座っている」と書いたのは意味深長です。収税所から離れられなかったという意味が込められているように思えます。仕事柄、席を空けるわけには行かなかったということではないでしょう。私たちは同じような徴税人のザアカイの物語を知っています。彼は、主イエスがエリコの町に来られたことを聞くと、人目見たいと、ノコノコと出かけて行って、先回りしていちじく桑の木に登って主イエスが通られるのを待っていたのであります。レビだって、どうしても主イエスに会いたい、主イエスの話を聞きたいということであれば、誰かに仕事を代わらせて、出かけて行くことも出来たでしょう。それをしなかったのは、レビがおっちょこちょいでなかったというだけではなさそうです。徴税人という立場から腰をあげることが出来なかった、そこから離れる勇気がなかった、むしろ、そこに安住していたかったのではないでしょうか。
 
カファルナウムという町は交通の要衝にあって、関所があって、そこを出入りする人や品物に税をかけていました。徴税人というのは、税の徴収の請負人であったため、定められた以上の税金を徴収して私腹を肥やすということが出来たようで、人々から反感を買っていて、ユダヤ人からは遊女と同じように罪人扱いされていました。けれども経済的には裕福な生活が出来たようで、レビもその生活から離れられないでいたのであろうと思われます。しかし一方では、そうした生き方を続けていることは、空虚で、孤独であったにちがいありません。
 
主イエスが「見かけられた」のは、そういうレビの空虚な生き方を、憐みをもって目を留められたということに違いありません。主イエスが「わたしに従いなさい」と声をかけられると、彼はすぐに「立ち上がって」主イエスに従ったのです。これは、主イエスの弟子になったという意味です。聖書は、この時のレビの心の動きや、どのようにして弟子になる決断が出来たのかということについては説明しておりませんが、15節以下に主イエスがレビの家で食事の席に着いておられたことを記していて、ルカ福音書の併行箇所によれば、「イエスのために盛大な宴会を催した」と記されているので、弟子とされたことを大いに喜んだことが伺えるのであります。
 
しかし、レビが主イエスの弟子になったことを通して福音書記者がどうしても語りたかったのは、16節以下のファリサイ派の律法学者と主イエスとのやり取りです。そこで今日は、そこを重点的に見て参りたいと思います。

2.罪人と一緒に食事

 レビの家での食事の席には、15節によれば、多くの徴税人や罪人もイエスの弟子たちと同席していた、と記されています。元の仕事仲間の徴税人が招かれていました。先ほども申しましたように、徴税人は当時のユダヤでは罪人扱いであります。この食事の席には、徴税人以外にも「罪人」とされた人たちがいたようです。ここで言う「罪人」とは、律法に従っていないとして、当時のユダヤ社会において蔑まれていた人たちのことで、神様との関係の破れを持つ人という本来的な意味の「罪人」ではないようです。ユダヤでは、ユダヤ人以外の異邦人も「罪人」とされていましたので、ここには異邦人も含まれていたかもしれません。徴税人は仕事柄、外国人との付き合いも多かったと思われますから、この時も招かれていた可能性が高いですが、ユダヤの律法によれば、異邦人と同席することも禁じられていました。

 しかし、主イエスはそうした罪人とされて蔑まれている人たちを敬遠することなく、むしろ喜んで彼らと同席されていたのであります。それは、ユダヤの社会の中で蔑まれている人たちを同情し憐れまれたということだけではなくて、自分もその人たちの仲間と見なされ批難されることを厭われなかったということです。彼らの汚れを引き受けようとされたということです。自らそうした人たちと同じ罪を犯されたということではありませんが、そうした罪人の仲間になることを良しとされたということです。彼らに対する批判を自らも受けられたということです。

 主イエスはしばしば、このような食事や宴会の場面を、神の国の譬えとして語られました。「大宴会の譬え」(ルカ1415以下)というのがあります。大宴会を催した主人が、宴会の時刻になったので、僕を送って招いておいた人たちを迎えにやったのですが、彼らは色々理由を述べて来ようとしない。そこで主人は、貧しい人や体の不自由な人を連れて来させたという話です。この譬えで描かれているように、神の国には、招かれて当然と思われる人ではなくて、招かれるとは考えられない罪人とされる人こそが招かれることを教えられたのです。主イエスはそのことを教えられるだけでなく、実際の食事や宴会で実行されたのであります。
 このような主イエスの行動を批判したのが、ファリサイ派の人たちや律法学者と言われる人たちであります。16節です。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。――ファリサイというのは分離する(区別する)という意味があります。ファリサイ派の人たちは、自分たちは正しいことをしているとして、律法に違反している人たちから自分たちを分離(区別)するのです。だから、罪人とされている人たちと一緒に食事するなどということは、もってのほかの行為です。そこで彼らは自分たちの疑問を主イエスの弟子たちにぶつけました。この前の中風の人の癒しの場合は、主イエスが「あなたの罪は赦される」と言われたことに対して、律法学者たちが心の中で批判していただけでしたが、今回は、彼らの疑問を弟子たちに投げかけています。言葉は疑問の形ですが、明らかな批判であります。主イエスのしていることは明らかな律法違反だ、という告発です。そして自分たちこそ正しいということを主張しているわけです。
 
このようなファリサイ派の人たちの主張を私たちはどう考えたらよいのでしょうか。形式主義だとか、律法的だとか言って、簡単に批判してよいのでしょうか。彼らが主張するように、正しいことと間違ったことは、はっきりとけじめをつけることは大事なことであります。徴税人のしていることが、倫理的に間違っているとか、律法に違反しているとするなら、そのことを指摘して正すべきであります。曖昧なままにしておくことは決してよい結果を生みません。もし、教会に来る人の中で間違ったことをした人がいるなら、その人を諭して、悔い改めに導くのが筋道であります。そういうことをせずに、曖昧にしていると、本人のためにも、教会全体のためにも、決してよいことではありません。そうであれば、主イエスが徴税人や罪人とされている人と一緒に楽しそうに食事をする前に、彼らの間違いを正すのが先決と考える方が正しいと言えそうです。
 このような問題に、主イエスはどう対処されるのでしょうか。徴税人というのは、当時のローマの法律に違反するようなことをしていたわけではないでしょうが、立場を利用して、私腹を肥やしていたことは確かであったでしょう。貧しい人たちが大勢いる中で、自分だけは贅沢に暮らすような生き方をすることについて、主イエスは諄々と諭されてもよかったのではないでしょうか。そういうことをせずに、彼らと楽しそうに食事などするのはおかしい、とファリサイ派の人たちが考えたとしても、もっともなのではないでしょうか。

3.罪人を招くため

 ところが、このファリサイ派の律法学者が弟子たちに言った言葉を主イエスが耳にされると、こう言われました。17節です。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
 
この主イエスの言葉は、「今月の言葉」にもしておりますが、ファリサイ派の人たちの批判に対する答えでありますし、今申しましたような間違ったことをしている人に対してどのように対処すべきか、という問題に対する答えでもあります。それだけではなく、実はファリサイ派の人たちへの痛烈な批判(皮肉)であり、私たちに対する厳しい警告でもあります。しかし、この言葉には、そうした批判が込められているだけではなくて、この中に主イエスの招きがあり、救いの道が示されているのであります。今日は是非、この言葉に込められている深い恵みを聴き取って帰っていただきたいと思います。
 主イエスはまず、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」とおっしゃっています。この言葉の表面的な意味は誰もが了解できることであります。しかし、「医者」とか「丈夫な人」とか「病人」というのは譬えの表現であります。では、ここで「丈夫な人」とは誰で、「病人」とは誰のことを言っておられるのでしょうか。ファリサイ派の人たちは、この食事の席に着いていた徴税人や罪人を「病人」だと考えていて、自分たちは「丈夫な人」だと自認しているわけです。その上、徴税人や罪人と一緒に席に着いている主イエスをも「病人」扱いにして、問題視していて、彼らは主イエスを罪の中にいる者たちを癒す「医者」とは見ていないわけです。けれどもここで主イエスがこのように言われたのは、「病人」である徴税人や罪人を癒すために御自分が「医者」としてここに来ているというだけの意味ではありません。既にお気づきだと思いますが、これはファリサイ派の人たちに対する痛烈な皮肉が込められています。つまり、ファリサイ派の人たちは、自分たちこそ正しくて、「丈夫な人」だと自認しているのですが、その彼らこそ、実は「病人」ではないのか、彼らにこそ「医者」が必要なのではないか、と言われているのであります。彼らは律法をきっちり守ってさえいれば、正しい人であり得ると思っています。そして、律法を守れない人たちを裁いています。しかし、律法は全ての人の罪を暴くことは出来ても、罪から救い出すことは出来ません。律法が医者の役目をすることはないし、ファリサイ派の人たちがその役目をするわけでもありません。彼らは罪人たちを批判するだけで、救うことは出来ないし、彼らこそ自分が正しいと思い上がっている罪人ではないか、というのが、主イエスがここで彼らに気づかせようとなさっていることであります。
 主は続けて、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とおっしゃいました。これは、<私は、あなた方が批判している徴税人や罪人たちを罪の中から救い出す「医者」として、そのような人たちと接しているのだよ>という意味も、もちろんありますが、更には、<私は、あなたがたのような、自分を正しいとして思い上がっている罪人をこそ招いて、癒すために来たのだよ>という意味が込められているのではないでしょうか。主イエスは徴税人や罪人とされている人に対して、ファリサイ派の人たちのように、ただ<あなたがたは罪がある>と言って断罪するだけではなくて、彼らを御自分の中に招き入れることによって、罪の状態から救い出されようとなさいました。そのことが、十字架の御業につながるわけですが、そのような救いの御業を、ファリサイ派の律法学者たちに対してもなさろうとしておられるのであります。主イエスはここでも、彼らの思い上がりを鋭く非難されるだけではありません。彼らをこそ、罪の中から救い出すために、招こうとしておられるのであります。

結.私たちも招かれている

この主イエスの言葉で言われている「罪人」とは、同じ食事の席にいた徴税人や罪人とされている人たちだけではなくて、主イエスを批判したファリサイ派の律法学者たちこそが当て嵌まるということなのですが、そこまでの理解で止まってしまっているなら、この主イエスの言葉を本当に聴いたことにはなりません。ここに登場した収税所に座っていた徴税人が私たちの姿であることに気づかねばなりませんし、主イエスを批判したファリサイ派の人たちこそ、正に私たちそのものであることを覚える必要があります。私たちは、自分が徴税人や罪人ではないことを誇って、そうした人たちを批判しているファリサイ派の人たちの立場に立ってしまっていることが多いのではないでしょうか。キリスト者はファリサイ派の人たちのようになりがちであります。
 しかし、今日の主イエスの御言葉は、私たちがファリサイ派の人間に近い罪人だということを自覚させるだけのものではありません。主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とおっしゃっています。主イエスは、徴税人を招き、ファリサイ派の律法学者を招き、そして罪深い私たちをも招くためにこそ来られ、十字架に架かられ、こうして御言葉を賜っているということであります。この主イエスの前にぬかずき、従うときに、罪が赦されて、私たちも神の国の食事の席に着かせていただけるということです。このような礼拝は、そのような主イエスの招きの時であり、この主イエスの御言葉は私たちへの招きの言葉であります。その招きを、素直に、感謝と喜びをもって受け取りたいと思います。
 
お祈りいたしましょう。

祈  り

主イエス・キリストの父なる神様!
 
あなたの恵みを忘れ、自分を高くし、他人を批判することの多い罪深い者でありますが、そんな私たちを、今日も、主イエス・キリストが主人である恵みの席にお招きくださって、ありがとうございます。
 
どうか、主イエス・キリストの贖いの故に、罪を赦してください。どうか、神の国の宴席に着く日まで、私たちをあなたの祝福のもとに留めてください。どうか、あなたの召しに従って、主の日ごとの喜びの席に着き続ける者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年6月22日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 2:13ー17
 説教題:「
罪人を招くため」         説教リストに戻る