序.自分の現実を知ろう

4月から福音書についてはマルコ福音書を取り上げておりますが、書簡(手紙)については、このエフェソの信徒への手紙から御言葉を聴くことにしております。(本日はペンテコステだがエフェソをテキストにする。)
 
エフェソの信徒への手紙の1章では、短い挨拶のあと、3節から14節のところでは、父なる神様による選び、子なるキリストによる贖いの御業、そして、聖霊の働きについて述べられて、三位一体の神様の驚くべき御業が賛美されていました。そして、115節以下では、筆者とされるパウロの祈りという形で、宛先の教会の信者たちに期待することが述べられていました。
 
さて、今日の箇所では、それを受けて、今度は宛先の信者たち、また私たちの立場に立ちつつ、1章で語られた三位一体の神様の御業を受けて、彼らが、また私たちがどのようにされたのかということを、救われる前の過去の私たちの姿、救われた後の現在の私たちの姿、そして、将来における私たちのあるべき姿について述べられています。
 ところで、私たちは自分自身のことがよく分かっているのでしょうか。私たちは自分のことは、自分がいちばんよく知っていると思っています。ところが案外、自分のこと・自分の姿がよく見えていないことが多いのであります。ですから、先輩や周りの人々から、また書物などを通して、自分の本当の姿を教えられることが大切なのでありますが、私たちのことを一番よく知っておられるのは、神様であります。神様は、私たち自身よりも、私たちの両親や伴侶や親友よりも、ずっとよく私たちのことを知っておられます。知っておられるだけではありません。私たちに最も必要なこと、大切なことをしてくださっています。今日の箇所は、そういう神様によく知られている私たちが、神様からどのように変えられ、今はどのようになっているのか、これからどうなるのかが述べられています。この箇所から、私たち自身の本当の現実を知らされたいと思います。

1.以前の自分――死んでいた者

 まず、1節から3節までには、過去の私たちの現実の姿が述べられています。1節では、こう言われています。――さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。――ここで「過ち」という言葉は<迷い出る>という意味を持っています。「罪」と言う言葉は<的をはずす>という意味をもっています。いずれも、私たちの行為や生き方が道を外している、方向を間違っているということです。どう間違っているかと言えば、神様との本来の関係から逸れてしまっていた、ということです。人間は神様によって創造された時から、神様と向き合う存在として造られました。しかし、その関係を失ってしまっていたということです。そして、そのような状態のことを、「死んでいた」と言うのです。肉体的には生きていたかもしれませんが、本来の生き方をしていないので、死んだも同然であるということです。肉体的に生きていたとしても、霊的には死んでいたということです。「霊的」とは、<神様との関係においては>という意味です。神様に造られた者でありながら、神様との関係においては死んでいたのです。
 
私たちの人生が、この世的にはどれほど栄光に満ちたように見えていても、一般的に見れば幸せに見える人生であっても、神様との関係が損なわれたり、忘れられていたのでは、神様の目には死んだ人生、命を失った生き方なのであります。「死んだ」とか「命を失った」という表現は極端すぎるのではないかと思われるかもしれませんが、単に「病気にかかった」とか「心が離れた」といった表現では不十分だということです。神様との関係が損なわれるということは、生きている意味がなくなることなのであります。肉体は生きていても、生ける屍(しかばね)だということです。
 
2節、3節は、神様から離れていたことで、どういうことが起こっていたのかということが、具体的に述べられています。まず、2節では、この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました、と書かれています。「この世を支配する者」「かの空中に勢力を持つ者」「不従順な者たちの内に今も働く霊」というのは、一言で言えば悪魔のことです。神様から離れていると、悪魔に支配されてしまうということです。私たちは、自分は悪魔なんかに支配されないで自覚的に生きて来たと思っていますし、他人から後ろ指を指されない人生を歩んでいると思いたいのですが、それは現実を直視していないのであって、神様から離れていると、気付かないうちに悪魔のペースにはまってしまうのであります。更に3節では、こう言っております。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。肉の欲望の赴くまま」とか「肉や心の欲するまま」と聞くと、道徳的に乱れた生活のことを思い浮かべて、<自分はそんなことはない>と考えてしまうかもしれませんが、「肉」というのは、単に肉体のことを指すのではなくて、<生まれながらの人間><神様と離れた人間中心のありかた>を意味します。私たちは、高遠な理想に向かって生きているようでいて、結局は自分の幸せを求めて生きているのではないか、自分にとって生き甲斐のある人生、人から評価される生き方を善しとしているのではないでしょうか。それは、ここで言う「肉や心の欲するままの生き方」であって、決して神様の喜ばれる生き方でなく、「神様の怒りを受けるべき」生き方なのです。
 
こうした生き方を、ここでは「以前は」と、キリスト者になる以前の過去のこととして語っていますが、私たち自身のことを振り返ってどうでしょうか。キリスト者になる以前だけでなく、キリスト者になってからでさえ、いつのまにか悪魔の支配の下に戻って行動したり、自分中心の言動を繰り返しているということがあるのではないでしょうか。それが私たちの現実のように思えます。

2.今の自分――復活させられた者

 ところが、パウロは4節に至って、しかし、と言って、以前とは違う現在の私たちの新しい状態が神様によってもたらされたことを語り始めます。こう言っております。憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。46節)

 ここには、驚くべきメッセージが語られています。注意深く聴き取って参りたいと思います。

 まず最初に確認したいことは、この文章の主語は「憐れみ豊かな神は」とあるように、神様であるということです。3節までの、「過ちと罪を犯して歩んでいた」私たちを支配していたのは悪魔でありましたが、それにとって代わって、ここでは「憐れみ豊かな神」が主人公であります。言うまでもなく、神様は天地創造の初めから、万物の主人公であります。しかし、先ほど聞きましたように、私たちはその神様を無視して、悪魔の支配に身を委ねて、勝手気ままな歩みをしてしまいました。けれども、神様は、その主権を悪魔に譲り渡されたわけではありません。私たちが悪魔の支配下にあるままに、放置されることはありません。神様は私たちに対する主権を発動されます。主権を取り戻すために動かれます。取り戻すというよりも、本来の主人公・本当の支配者が誰であるかを私たちに分からせるために、行動を起こされるお方であります。私たちは、この本来の主人公であり、支配者である神様を見失って、まともな人生を歩める筈がありません。

 次に注目したいのは、神様は「憐れみ豊かな」と言われており、「わたしたちをこの上なく愛してくださる」と言われていることであります。ここで「愛して」と訳されている「アガパオー」という言葉は神様や主イエスにだけ用いられる言葉で、愛される値打ちのない者を愛するという意味です。私たちは神様との関係を無視して、自分本位のほしいままの生活をして来たのですから、神様の怒りを受けるべき者であり、神様から見れば値打ちのない者として、捨てられても当然な者なのであります。それにも拘わらず、神様は私たちをお見捨てにはならい、ということであります。見捨てないということは、ただそこに存在させているというだけではありません。神様は私たちのために御子イエス・キリストを遣わして、十字架の上で命を投げ出させてくださるという仕方で、私たちを悪魔の支配から救い出されたということであります。大きな犠牲を払ってまでも救い出してくださるというのが、神様の愛であります。

 三つ目に聞き逃してならないことは、その神様の愛によって、「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」「キリスト・イエスによって共に復活させ」と言われていることであります。つまり、死んでいた私たちが復活させられた、ということであります。神様との関係を無視する生き方、過ちと罪を犯した歩みの結果は永遠の死であります。どんなに幸せに見えた人生であっても、どれほど人々から羨ましがられるような生涯であっても、神様との関係に生きなかった人生は永遠の無に帰してしまう筈のものでありました。しかし、神様の愛とキリストの犠牲によって、永遠の死を免れさせ、逆に、永遠の命へと復活させてくださったのです。永遠に無に帰するのではなくて、イエス・キリストと共なる命へと生かしてくださったのであります。神様との関係がキリストを介して永遠に続くようにしてくださったということです。これが、キリストによってもたらされた私たちの新しい現実であります。
 新しい現実はそれだけではありません。「キリストと共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」と語られています。これは驚きであります。キリストが天に昇られて、神様の右に座しておられるということや、私たちの国籍は天にあって、そこには私たちの席が用意されているということは、主イエスの御言葉などによって聞いていて、それなりに信じていることであります。けれども、私たちが天の王座に着かせていただけるということまでは、思い及ばないことでありました。しかし、キリストと共にあるなら、同じ座に着いていてもおかしくないわけです。もちろん、私たちが単独で王座に着いて、世界を支配するわけではありませんが、キリストと共におらせていただくことによって、キリストの御支配に参与する者とされるということでしょう。

 ここで、もう一つ読み落としてならないのは、5節の後半のダッシュの中にある言葉です。「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」とあります。とても大事な言葉で、カール・バルトはこの言葉だけで印象的な説教をしております。バルトは、「『救われた』というのは、少しばかり元気づけられたり、慰めを受けたり、楽にさせられたりすることではない。それはあたかも燃えさかる炎の中から木片を取り出すようなことを意味している」と言った後、スイスに伝わる一つの物語のことを取り上げています。「ある人が霧の夜に、自分では気づかずに、凍りついたボーデン湖を馬で渡って、向こう岸に着いた時に、自分がどこを通って来たかを聞かされて、驚いて腰を抜かしてしまった」という話です。私たちがこの御言葉を聞かされたときの状況がこれと似ているというわけです。私たちは自分では気づいていないけれども、恐ろしい死の危険に瀕していたのであります。罪のために死んでいる筈だったのであります。ところが、湖が凍りついていたので助かった人のように、私たちも、キリストの十字架の故に永遠の死の世界に落ち込むことなく救われたのであります。そこには私たちの功績は何もありません。知らないうちに救われていたのです。これは「恵みによる」としか言いようのないことです。私たちに誇れることは何もありません。ただ、驚きと感謝をもって受けるしかないことであります。

3.これからの自分――善い業を行う者

以上の4節から6節では、救われた今の自分、現在の私たちの状態について語られていましたが、7節以降は、「こうして」という言葉で始まっていることからも分かりますように、これからの自分たちがどのような歩みをすることになるのか、言い換えれば、神様が私たちを救ってくださったことの目的は何か、ということが語られます。
 
7節では、こう述べられています。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来たるべき世に現そうとされたのです。――私たちが救われた目的は、神様の豊かな恵みを、来たるべき世に現すためである、と言っております。ここで「来たるべき世」というのは、終末のことではなく、<これからの地上の歩み>のことであります。私たちは自らの地上の歩みの中で、神様の恵みを現して行くのです。それは、私たち一人ひとりの役割でありますが、救われた者たちの集まりである教会の役割でもあります。
 
8節、9節は、先ほど4節で聞いた「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」ということと重なっています。しかし、単なる重複ではありません。8節では、恵みにより、信仰によって救われました、とあって、「信仰によって」ということが付け加えられています。また9節では、行いによるのではありません、と言っております。このように、<行いによってではなく、信仰によってである>ということが強調されているのです。私たちが神様に気に入ってもらえることをしたから救われたのではありません。人々のために役立つ働きをしたから、死んだと同然の者がもう一度生かされたということでもありません。「信仰によって救われました」と語ります。「信仰によって」とはどういうことでしょうか。信仰に入って教会生活をすることが功績として評価されるということではありません。信仰に入って模範的な生活が出来るようになったからということでもありません。「信仰によって」とは、神様が私たちのためにしてくださった恵みを、ただ信仰をもって受け入れた、ということであります。神様がイエス・キリストによって成してくださった罪の赦しを、自分のためであったと、感謝をもって受け入れることが「信仰」であります。信仰は神様からの賜物です。ですから、私たちは自分たちの救いについて・信仰について、誰も誇ることはできません。
 10節は、7節で述べられた私たちのこれからの歩みを別の面から述べています。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。――私たちは元々、神様によって「造られたもの」でありました。そういう点で、造り主である神様に対して誇れる存在ではありません。しかも、罪を犯して、神様との関係を壊したのでありますから、捨てられても仕方のない者であります。そのような私たちを、もう一度神様の御心に沿える者にするために、キリスト・イエスにおいて造り直してくださいました。「神が前もって準備してくださった善い業」と言っております。神様が万物を創造された時に、人間が果たすべき役割を準備されました。それは、創世記によれば、神様の似姿に造られて、神様と向き合う存在、心を交わせる存在として造られたということと、被造物を支配する(統率する)という役割であります。神様との関係を破った私たちは、その本来の役割を果たすことが出来なくなっていました。しかし、今や、私たちはキリスト・イエスによって新しく造り直されたのであります。新しい生き方・新しい復活の命を与えられたのであります。その恵みを感謝したいと思います。

結.キリストと共に生き続ける

今日はペンテコステであります。この日は、主イエスが天に昇られたあと、弟子たちに聖霊が降って、教会として宣教の業を開始したことを記念する日であります。救われた者たちは、人々に神様の恵みを証しせざるを得なくなるのであります。しかし、そこには聖霊が働かなくてはなりません。神様の導きがなくてはなりません。ただ気持ちが高まって行動に走るということでは、教会の働きになりません。弟子たちは、集まって祈りながら、待っていたことが使徒言行録には記されています。そこに聖霊が降って、色々な国から来ていた人々に福音を宣べ始めたのでありました。私たちも、この弟子たちの働きを受け継いで、聖霊の導きを受けながら、救われた恵みを現して行くのであります。5節にこう書かれていました。「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、・・・キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」――これが今私たちのために神様が備えてくださっている現実であり、本当の生き方であります。私たちはこれからも、聖霊の導きを受けて、キリストと共に、備えられた役割を歩み始め、歩み続ける者でありたいと思います。 祈りましょう。

祈  り

憐れみ豊かな父なる神様!
 罪の中に死んでいた私たちを、この上なき愛をもって、探し求め、見つけ出し、救い出して、イエス・キリストと共に、もう一度、生かし、用いようとしていてくださいます恵みを、感謝いたします。
 
私たちは弱い者です。悪魔の誘惑に引き戻されかねない弱さがあります。どうか、あなたの恵みのもとに立ち続けることが出来るように、絶えず、御言葉によって救いの御業を思い起こさせてください。どうか、あなたの恵みを、身をもって世に現すことができる者とならせてください。聖霊のお導きのもとで、生き、働くものとさせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年6月8日  山本 清牧師 

 聖  書:エフェソの信徒への手紙 2:1ー10
 説教題:「
キリストと共に生きる」         説教リストに戻る