序.癒しと赦しの関係を問う

今、皆様が神様にお願いしたいことは何でしょうか。日々の祈りの中で、あるいは、教会に来て、解決を願っておられること、求めておられることは、どのようなことでしょうか。それぞれに、様々な問題を抱えながら、そのことの解決を求め、あるいは問題の打開のための指針を与えられたいと願っておられるのではないでしょか。あるいは、なかなか解決の見通しが立たず苦しんでいることに対して、上からの慰めを得たいと望んでおられるかもしれません。
 4月からマルコの福音書を読みはじめましたが、主イエスが公の生涯を始められるにあたって、いくつかの出来事を通して、御自分の使命を確認されたあと、1章の21節以降に書かれていることは、汚れた霊に取りつかれた男が癒されたことや、重い皮膚病を患っていた人がいやされたことなど、多くの病人が癒されたことが書かれているのですが、それらの箇所から学んだことは、主イエスがなさろうとしておられた第一のことは、人々を病の苦しみから解放するということではなくて、「神の国は近づいた」という福音を人々に伝えるということでありました。135節で、主イエスが朝早く、人里離れた所に出て行って祈られたのも、その御自分の使命を確認なさるためでした。そして、病気を癒していただこうと期待して大勢の人が待っているカファルナウムの町を避けるようにして、他の町や村へ出て行かれて宣教活動をされたのでありました。主イエスが病気で困っている人を助けることを嫌がられたわけではありません。先週も聞きましたように、重い皮膚病を患っている人が、清くされることを願って、人に近づいてはならないという律法の規定を侵して主イエスのところにやって来た時にも、主イエスはそれを拒否なさるどころか、深く憐れまれて、手を差し伸べてその人に触れてまでして、清くされたのでありました。このような病の癒しは、神の国が近づいたことの一つのしるしではありましたが、病の癒しが神の国の到来そのものではありません。
 
同様に、私たちが抱えている様々な問題が解決したり、打開できるようになることが、神の国の到来ではありません。神の国の到来とは、神様の御支配が人々に行きわたることであります。私たちと神様の間の壊れた関係が修復されて、創造されたときの善い関係を取り戻すことであります。言い換えると、私たちの犯した「罪」という神様との敗れた関係から救い出されるということであります。主イエスはそのためにこそ、地上に来られたのであり、罪からの救いが主イエスの御使命であります。もちろん、罪からの救いが実現し、神の国が到来する中で、病の癒しや様々の人間を苦しめている問題の解決ということもありますし、死という、人間にはどうすることも出来ない限りある命の問題も解決されて、永遠の命に至る道が開けるのでありますが、その根本にあるのが、罪の問題の解決であり、それが、主イエスが成そうとしておられることであります。
 
そういう中で、今日、与えられております、21節から12節の出来事は、中風という当時の医療技術では癒すことが困難な問題の解決と、罪の赦しという主イエスの最大の使命の関係を表わす大変重要な出来事なのであります。この箇所は3つの福音書に出ていて、よく知られた出来事でありますし、2009年の伝道礼拝でも取り上げた箇所でもありますが、改めて、この箇所を通して、私たちが現実に抱えている問題と、私たちの罪の赦しとの関係を主イエスはどのように考えておられるのか、そして、どのように関わってくださるのか、―――そのことを今日はしっかりと聴き取りたいと思います。否、2000年前に起こった話を聞くということだけでなしに、御心ならば、実際に主イエスの癒しと赦しに与りたいのであります。そして、中風の人が、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた主イエスの言葉に従って、起き上がることが出来たのを見て、人々が驚いて神様を賛美したように、私たちも驚きと賛美に導かれたいのであります。

1.大胆な求め/あなたの罪は赦される

 さて、カファルナウムとは別の町で宣教活動をしておられた主イエスは、21節によると、数日後、再びカファルナウムに戻って来られました。この町の人々の求めを無視されたわけではなかったということが、このことからも分かります。家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった、と書かれています。どこの家におられたのでしょうか。一つの想像ですが、129節以下に書かれた、あのシモン・ペトロの家ではなかったでしょうか。そして、あの、熱を癒されて一同をもてなすようになったペトロのしゅうとめが、この時も集まってくる人々のお世話をしていたという風景を思い描くことも許されるのではないでしょうか。
 
さて3節に、主イエスが御言葉を語っておられると、とありますから、ここでも「神の国が近づいた」という福音を告げておられたに違いありません。罪からの救いについて語られていたことでしょう。
 
その主イエスが御言葉を語っておられる家に、四人の男が中風の人を運んで来ました。何のためでしょう?中風の男にも主イエスのお話しを聞かせたいということもあったかもしれませんが、それよりも、どうしても治らない中風という難病を何とかして主イエスに癒していただこう、というのが主な目的であったに違いありません。
 
しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができませんでした。入り口から中に入ることさえ出来なかったのでしょう。そこで彼らは大胆な行動に出ました。当時のこの地方の家は、屋根が平らで屋上になっていて、屋上に上がる外階段がついていたようですが、その階段を上って、主イエスがおられる辺りの屋根をはがして、穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろしたというのです。穴をあけるには、破片やほこりがバラバラと人々の頭の上に落ちたでしょうし、家の持ち主にも大変な迷惑がかかります。何とか病人を治してやりたいという気持ちは分りますが、非常識な行動であります。おそらく、中にいた人たちは、「何をするんだ」とか「やめろ」と言ったかもしれませんが、彼らは強引に、病人を床のまま主イエスの前に吊り降ろしました。そして、聖書には書いてありませんが、屋上にいる四人は口々に、「その人を治してやってください」と大声で叫んだでしょう。これには、主イエスも驚かれたことでしょう。
 
ところが主イエスは、5節にあるように、批難されるどころか、その人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのであります。ここで、「その人たちの信仰」というのは誰の信仰のことでしょうか。病人が四人に頼んだのであれば、病人の信仰ということもあるかもしれませんが、「その人たち」とありますから、病人を運んできて、大胆な行動をした人たちでしょう。これらの四人は近親者であったのか、友人であったのか分かりませんが、病人を治してやりたいと思う彼らの気持ちは十分に伝わりますし、主イエスなら癒してくださるに違いないとの主イエスに対する信頼も相当なものであることが伺えます。では、主イエスは、彼らの行動は少々乱暴ではあるが、その行動の中に主イエスに対する十分な信頼が見られることを評価されて、病人を癒してやろうと考えられたということでしょうか。しかし、それなら、「子よ、あなたの罪は赦される」とは言わずに、「あなたたちの信仰が立派だから、この人を癒してあげよう」と言われても良さそうなものです。ところが、「あなたの罪は赦される」と言われたのですから、この病人に罪があるということです。それなら、「あなたの病気は罪に原因があるからだけど、運んできた四人の信仰を評価して、あなたの罪を赦してあげよう」という意味でしょうか。そうであれば、病を罪の結果とする因果応報の考え方をされているということになります。確かに、当時の人々はそういう考え方をしていました。しかし、ヨハネ福音書9章を見ますと、生まれつき目の見えない人に出会った時に、弟子たちが主イエスに、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれか罪を犯したからですか。本人ですか、それとも、両親ですか」と尋ねますと、主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と答えられたことが書かれています(ヨハネ913)。主イエスは病気を罪の結果だとは見られず、病を癒し、罪をも赦される神様の救いの御業の素晴らしさが現わされるためだと考えられているということです。確かに、人間には罪があり、そのために病気にもかかり、死すべき存在であります。そこには、神様の裁きがあります。しかし、そうした裁きを越えて、神様の愛があり、罪からの救いという恵みの御意志があるということであります。この病人にも罪があります。なかなか治らない病気に苦しむ中で、神様を頼っても応えてくださらないという思いがあったかもしれません。将来に対する不安もあったでしょう。自分のことだけを考える利己的な思いもあったでしょう。そうしたことの奥に潜んでいる神様への不信の罪があります。また、四人の男たちの信仰についても、確かに病人を何とか治してあげたいとの思いはあったにちがいありませんが、所詮は御利益を求めただけの信仰の域を出ていないとも言えます。決して主イエスの目指しておられる神の国に相応しい信仰、罪の赦しを信じる信仰とは言えなかったかもしれません。しかし、主イエスは、そんな彼らの信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦される」と宣言されました。そこには、人の罪の問題を解決し、神様の赦しを得ることこそ、御自分の役割であるという、御自身の強い御意志・使命感が示されているのではないでしょうか。おそらく、その場に来ていた多くの人は、主イエスが行われる病の癒しに驚き、何とかして自分たちもその恵みの一端に与りたいと思っていたのでしょうが、その人たちに向けて、御自分の使命は、ただ病を癒すことや困難な問題の解決にあるのではなくて、罪の赦しであり、神の国をもたらすことなのだということを、はっきりと宣言されたということではないでしょうか。

2.誰が罪を赦すことができるか――律法学者の問い

 さて、今日の箇所はそこまでで終わるのではなくて、第2ラウンドともいうべき、律法学者たちへの対応が、6節以下に記されています。
 その家にいた人々の中には、律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えました。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりにほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」――この律法学者の考えたことは、主イエスが普通の人間であるならば、全く正しいことであります。ここで「罪」というのは、あれこれの悪い行いではなくて、神様に対する罪、神様の方を向いていないこと、神様を信頼していないことであります。そのような罪を赦すことが出来るのは、神様だけで、人間が赦すなどと言うのは越権行為であり、神様を冒涜することであります。律法学者たちは、主イエスが神の子で、人間を罪の縄目から解放する救い主であるとは認めていなかったのですから、「罪は赦される」とおしゃったことは神様を冒涜する言葉だと考えても無理からぬことです。

 しかし主イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われました。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』というのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」8b9)――どちらが易しいでしょうか。長年、中風で歩けなかった人に向かって「起きて、床を担いで歩く」と言うのは、すぐに見える結果が出ることですから、容易なことではないのに対して、「罪は赦される」と言う方が、目に見えないことですから、易しいでしょうか。しかし、罪が赦されるとは、<神様との敗れた関係が回復すること><神様の方に向き直ること>であります。それは、私たちにとっては、中風が癒される以上に困難なことです。私たちの心は普段、神様から離れていて、自分本位のこと、自分の幸せのことだけを考えています。そして、困った時だけ神様を利用しようとするのが、私たちの実態ではないでしょうか。「どちらが易しいか」という問いは、言葉を変えれば、「どちらが大切か」ということであります。大切なのは、私たちが癒されたり、幸せになれたりすることよりも、私たちの罪が赦されて、神様との関係が回復されることであります。そのことを主イエスは今、この問いかけによって語りかけておられるのであります。けれども、律法学者たちにも、私たちにとっても、病の赦しや、現状で抱えている問題の解決よりも、罪の赦しが大切だということは、大変分かり難いことであり、誤解しやすいことです。イザヤ書4325節にこういう言葉があります。「わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする」――つまり、神様は御自身のために人間の罪を赦すのだと言っておられるのです。私たちは罪の赦しということも、人間の幸せのため、人間がうまくやって行けるためと考えてしまいます。しかしそうではなくて、神様の方が私たち人間と良い関係にあることを望んでおられるということです。そのためにこそ、地上にイエス・キリストをお送りになったのであります。その神様の御心を知って生きることが、罪を赦された者としての生き方であり、神の国に生きるということであります。

3.罪を赦す権威

そこで、その御心が分かるために、主イエスは続けておっしゃいます。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われました。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」――すると、驚くべきことですが、その人は起き上がり、皆の見ている前を出て行った、のであります。「人の子」とは主イエス御自身のことです。主イエスが語られる言葉というのは、単に口先だけではありませんでした。主イエスがおっしゃったことは、その通りになるのであります。中風の人は、これまで、床から離れたくても起き上がれず、床に縛り付けられていました。しかし今や、自ら起き上がって、自分を縛り付けていた床を担いで、皆の前を歩き始めたのであります。「罪は赦される」ということも、これと同様で、主イエスが語られる場合は、決して口先だけのことではなくて、その通りになるのであります。なぜなら、主イエスは御自分の全存在をかけて、語っておられるからであります。全ての人の罪を御自分で担って十字架にお架かりになる覚悟で語っておられるからであります。ある人は、〈主イエスのお言葉は、十字架の血痕のついた言葉である〉と申しました。主イエスが「罪は赦される」と中風の人にお語りになり、私たちに語られるとき、そこには主イエスの血に染まった十字架があるので、私たちと神様との間の溝は埋められるのであります。罪を赦す権威とは、居丈高になって力を振り回すことではなくて、御自分の命を私たちのために注ぎ出して、私たちを生かしてくださることであります。そして、神様との良い関係が回復されます。そのことの目に見える証拠として、中風の人が癒されたということであります。中風の人が癒されるということも、主イエスの中に奇跡的な業を行う神通力のようなものが備わっていて、その力を働かせたということではありません。このマルコ福音書の5章に到りますと、十二年間も出血の止まらなかった女が、群衆に紛れこんで主イエスの服に触れて、出血が止まったという奇跡の出来事が書かれていますが、そのとき、主イエスは、御自分の中から力が出て行ったことに気づかれたというのです。女が癒されるためには、主イエスの方から力が奪われるのであります。中風の人が癒されるためにも、主イエスから力が出て行くのであります。主イエスの命が分け与えられるからです。それは単に、長年中風のために自由な生活が出来なかった人が、その状態から回復されて、幸せな生活が出来るようになったということではありません。罪が赦されて神様との関係が回復された新しい生活に甦るということです。そして、私たちの罪が赦されるためにも、このように、主イエスの命を注ぎ出してくださるということであります。

結.起き上がりなさい――驚きと賛美へ

先程、5節で中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と明言された主イエスは、この11節では、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と命じられます。
 
この中風の人の生活は、これまで床に縛り付けられていた生活でありました。ファウスティというイエズス会の司祭は、「この床は律法に似ている」と書いております。つまり、以前には、律法は人間の罪を明らかにして、人間を裁きの下に縛り付けていた。しかし、床が中風の人を主イエスのところへ運んだように、律法が私たちを、罪を赦す権威を持っておられる主イエスのところへ運んだ、というわけです。そして、起き上がって床を担いだということは、復活して律法のくびきを担うことができるようになったというのです。なるほど、うまい比喩的な解釈ですが、そのような比喩を用いるまでもなく、この人は、これまでの病に縛られていた生活から解放されただけでなく、主イエスによって、神様との関係を修復された、真の自由へと解放された生き方へと変えられたにちがいありません。ここで「起き上がる」と訳されている言葉は、「復活する」という言葉であります。この人は新しい命へと復活したのであります。そして、この人の生き方が変わっただけでなく、12節の後半によれば、人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美したのであります。人々は何に驚いたのでしょうか。起き上がることの出来なかった中風の人が起き上がって、床を担いで歩き出したことを驚いただけでしょうか。それとも、主イエスが罪を赦す権威をお持ちであることに驚いたのでしょうか。この時は、そこまで明瞭に理解したわけではなかったかもしれません。しかし、主イエスの十字架と復活の出来事の後には、そのことがはっきりと理解され、ここに心からの驚きと賛美をもって記されたのであると思われます。
 
幸い、私たちも、主イエスの十字架と復活の御業を知っております。そして、その主が私たちにも、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と命じておられるのではないでしょうか。私たちはこれまで、この中風の人のように、この世の様々な制約に縛られていました。何よりも罪によって縛られていました。神様との良い関係が持てずに、そのために人との関係においても破れがありました。しかし、神様は私たちがそのような罪に縛られた状態にあることを喜ばれません。そして、イエス・キリストの贖いをもって、罪を赦し、罪の重荷から解放してくださいます。そして、これまでの罪に縛られた生き方から立ち上がらせてくださり、新しい生き方へと復活させてくださるのであります。そのような罪の赦しの世界へと招かれていることに驚きを覚えつつ、心から神様の恵みを賛美したいと思います。祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
今日も私たちを、主イエスの御言葉が語られている家に運んで来てくださって、ありがとうございます。そして、「あなたの罪は赦される」との主イエスの権威ある御言葉をいただくことができましたことを、感謝いたします。
 これまで、あなたと人に対して犯して来た罪は大きく、主イエス・キリストによってしか償っていただくことが出来ません。どうか、主イエスのお言葉を信じ、その救いの御業に身を委ねて、起き上がる者とならせて下さい。どうかまた、求道中の方々や、私たちの家族や友人や近隣の人たちも、罪の赦しの恵みに与り、驚きと賛美を共にすることができますように、そして共々に、神の国が現に近づいたことを、心から信じ、喜ぶものたちとならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年6月1日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 2:1ー12
 説教題:「
起き上がりなさい」         説教リストに戻る