イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。       (マルコによる福音書14142 

 主イエスはカファルナウムで、病気にかかっている大勢の人を癒されたので、翌日も多くの人が期待を寄せていたが、主は人里離れた所で祈られたのち、ほかの町や村へ行かれた。それは、人々が癒しの御利益だけを求めて、本来の救いである罪の赦しが疎かにされる恐れがあったからである。
 だが、そこでも、重い皮膚病を患っている人が主イエスのところまでやって来た。律法では、この種の病気の人は人との接触を禁じられていたのであるが、イエスなら癒していただけると確信して、ひざまずき、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。すると主イエスは、標記のように、深く憐れんで、律法の規定にも頓着せず病人に触れるまでして、「よろしい。清くなれ」と言われた。これは、この病人の身になって、強い御意志をもって癒されたということを表わしている。主イエスはこのように、私たちの病の癒しと罪からの救いに対しても、御自身の犠牲を顧みず、強い御心をもって当たってくださるのである。
 しかし主は、清くされた人に、「だれにも話さないように」と厳しく注意された。これは罪からの救い主としての本来のお姿を見誤らせることを危惧されたからであろう。だが同時に、祭司に体を見せて、清められたことの証明を受けるように命じられた。それは、彼が社会復帰することまで配慮されたからであろう。しかし、この人は、この出来事を人々に告げ、言い広め始めた。癒された喜びを他人に話さないではおれなかったのであろう。だが、そのために、主イエスはもはや公然と町に入ることが出来なくなり、福音の宣教を妨げることになり、結局は主イエスを十字架へと追いやることにつながった。
 主イエスは人間の病や苦悩を深く憐れまれ、そのために御自身をも投げ出されるお方であるが、主の御使命は病の癒しや苦難の解決に最終目的があるのではなく、罪に汚れている私たちに深い憐れみをもって近づき、御自身を投げ出して罪から清めてくださることにあることを覚えたい。

主日礼拝説教<要 旨> 2014年5月25日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 1:35−45 
 説教題:「
清くなれ」 説教リストに戻る