序.癒しはどこに起こるのか

先週の礼拝では、すぐ前のマルコ福音書121節から34節までの箇所から御言葉を聴きましたが、そこでは、カファルナウムの町の会堂での主イエスの教えが権威ある教えであったことに人々が驚いたこと、またその会堂で汚れた霊に取りつかれた男を癒されたこと、更に、会堂を出た主イエスが弟子のシモンとアンデレの家に行って、熱を出して寝ていたしゅうとめを癒されたこと、そして、病人や悪霊に取りつかれた者たちを大勢癒されたことが書かれていました。
 
今日の箇所は、その翌日の出来事が書かれているとみてよいと思われますが、主イエスは朝早く人里離れた所で祈られたあと、弟子たちはまだカファルナウムに留まって、癒しの業を続けてほしいと思っていたらしいのに、他の町や村へと出かけられて、宣教の御業を行われるとともに、そこで重い皮膚病を患っていた人を癒されたという出来事が記されています。
 
この経緯の中にいくつかの疑問があります。それは、カファルナウムの町の人たちが主イエスを捜していて、もっと主イエスに滞在してもらいたかった様子であるのに、なぜ主イエスは他の町や村へ行かれたのか、そして、人に接触することを禁じられていた重い皮膚病を患っている人がやって来て清くされることを願うと、主イエスはその人の手に触れて清くされたのはなぜか、そして、主イエスはその人に「だれにも話さないように」と厳しく注意されたのに、この人はこの出来事を人々に言い広めたので、主イエスは公然と町に入ることが出来なくなるという結末に至ったことは何を示しているのだろうか、といった疑問であります。この一連の疑問を解くことが、今日の箇所で福音書が伝えようとしている重要なメッセージを聴き取ることにつながるのではないかと思います。それは、私たちに対する癒しや救いの御業がどのようなところに、どのようにして起こるのかということを指し示していると思われるからであります。

1.イエスの祈り――ほかの町や村へ

 さて、先週の箇所の32節以下を見ますと、夕方になって日が沈んでからも、人々が病人や悪霊に取りつかれた者をイエスのもとに連れて来たので、大勢の人たちを癒し、多くの悪霊を追い出されたことが記されています。そして、今日の箇所に入ると、朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所に出て行き、そこで祈っておられた、と書かれています。聖書の中には主イエスがしばしば一人で祈られたということが記されています。この日もいつものように祈られたということかもしれませんが、そうであっても、主イエスの一回一回の祈りは軽いものではなく、神様の御心を伺う真剣な祈りであった筈であります。この日、何を祈られたのかは書かれていませんが、一夜明けた新しい日に、何をすべきかを神様に問われたことは間違いないでしょう。このあと、弟子のシモンとその仲間が主イエスの後を追って来て、主イエスを見つけると、「みんなが捜しています」と言ったことが書かれています。これはどういうことでしょう。単に主イエスが行方不明になったので捜しに来たということではなくて、昨日に続いて多くの人が癒しを求めてやって来ているので、早く町に戻って来て癒しの業を行ってほしいと、捜しに来たということでしょう。その弟子たちに向かって、主イエスはこう言われました。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」――このお言葉は何を示しているでしょうか。単に、一つの町に留まっているわけには行かない、ということではないでしょう。これ以上、カファルナウムの町に留まって、癒しの御業を続けることは神様の御心ではない、ということを祈りの中でお聞きになったのではないでしょうか。主イエスは御返事の中で、「わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」とおっしゃっています。福音の宣教ということが主イエスの第一の使命です。そのことを主イエスは祈りの中で確認されたのではないでしょうか。病人を癒したり、悪霊を追い出すことは、主イエスが行われる救いの御業の「しるし」でありますが、人々を誤らせる恐れもあります。人々が癒しという御利益だけを求めて、本来の救いである罪の赦しが忘れ去られる恐れがありました。また、癒しを行うことによって主イエスの名声は上がるでしょうが、そこには、荒れ野でのサタンの誘惑と同じように落とし穴があります。弟子たちが言った「みんなが捜しています」という言葉には、サタンの誘惑が隠されています。人々の求めに応えることで、主イエスの名声は更に上がるかもしれませんが、神様の福音を証しすることにはならない恐れがあります。主イエスは祈りによって、この誘惑に勝たれたのではないでしょうか。主イエスが向かわれる道は、十字架が待っているエルサレムへ向かっている筈であります。そのことをもう一度確認されたので、主イエスはカファルナウムを去って、ほかの町や村へ行こうとされたのであります。もちろん、そこでは病気の癒しや、悪霊を追い出すことを一切しないということではありません。39節には、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出されたとあります。福音の宣教と同時に、その「しるし」としての癒しの業も行われたのであります。

2.「御心ならば」

 さて、40節以下には、その中の一つの癒しの業が記されています。なぜここに、主イエスの福音宣教のことが記されずに、またしても癒しの業のことが書かれているのでしょうか。その一つの理由は、ここで癒された「重い皮膚病」というのが、律法の中で特殊な扱いがされていたからであります。先程、旧約聖書のレビ記を読んでいただきました。そこには、重い皮膚病を患った人は、「わたしは汚れた者です」と呼ばわらなければならないと書かれていて、人との接触が禁じられていて、一般の人たちとは離れて一人で住まなければならないことが定められています。また、重い皮膚病を患った人が清めを受けたならば、祭司のもとに行って調べてもらい、清めの儀式を行うべきことも記されています。これらは非常に差別的な規定でありますが、医療知識が不十分であった当時としては、病気の拡散を防ぐためにやむを得ないことと考えられていたのでしょう。

 ところが、40節によれば、そんな重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言ったというのです。これは律法違反の行為であります。おそらく主イエスの近くにいた人たちは、驚いて身を避けたに違いありません。しかし、この病人は大胆であります。癒されたい一心であります。主イエスのところまで来て、ひざまずいています。この方なら自分の不幸な病気を癒してくださる力をお持ちであると確信していたのでしょう。周囲の人の目も憚らずに、主イエスの前にひざまずいて言いました。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」――主イエスの前にまで近づいたことは可なり強引であります。自分の病の癒しのことしか考えていないようにも見えます。しかし、「御心ならば」と言っております。主イエスの御意志を問うています。自分の希望・自分の意志を押し付けようとしているのではありません。主イエスの御意志を尊重しています。そして、主イエスの御意志さえあれば、差別的な律法の規定を破ってでも、自分の難病も癒されると確信しています。そこに主イエスに対する深い信頼を見ることが出来ます。この「御心ならば」という言葉から、私たちは主イエスがゲッセマネの園で祈られた祈りを思い起こします。主イエスは十字架を前にして、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ2639)と祈られました。この主イエスの祈りは聞かれず、十字架へと進むことが神様の御心であることを確信されました。しかし、ここでの主イエスの御心はどうだったでしょうか。
 
3.手を差し伸べて、「清くなれ」

4142節を御覧ください。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった、のであります。
 
この中の「深く憐れんで」という言葉は(これまでにも申し上げていますが)<はらわたが痛む>という意味の語で、福音書の中では主イエスのお心を表わす時だけに使われています。ただ優しくされたというだけではない、並々ならぬお気持ちを表わしています。古い写本では、「深く憐れんで」の代わりに、「怒りに満ちて」と書かれているものがあるそうです。この病人を苦しめているものに対する主イエスの激しい怒りが表現されているのです。その主イエスのお心は、すぐ行動にも表れています。「手を差し伸べてその人に触れ」と書かれています。重い皮膚病の人に触れると汚れるとされていました。それには科学的な根拠はないかもしれませんが、誰も近寄ることさえはばかったのであります。しかし、主イエスはそんなことには頓着せず、病人に触れられます。「触れる」とは、単に軽く接触するというようなことではなくて、その人の身になる、その人と自分を同一化するということ、その人の身になり切るということです。この人の病気を自分の病気とする、ということです。そして、言われました。「よろしい。清くなれ。」――この「よろしい」と訳されている原語は「私はそうしよう」という意味です。英語の訳ではI am willingとなっています。主イエスの強い意志が表わされているのであります。この病人は「御心ならば」と言いました。それに対して主イエスは、あなたを清くするのが私の心だ、と言われたのです。この主イエスの御心はすぐに果たされます。「清くなれ」との主イエスの言葉は実現します。これはいわゆる奇跡ではありません。主イエスの奇跡はいつもそうですが、主イエスの心がこもっています。相手の身になられることによって奇跡は起こるのです。
 
先程、「御心ならば」という言葉は、主イエスのゲッセマネの祈りと同じだということを申しました。ゲッセマネの祈りでの主イエスの「杯を取り去ってください」との祈りは聞かれず、神様の「御心」に従って、主イエスは十字架への道を進まれました。しかし、そのことによって、人々は罪の贖いを受けて救われることになりました。この主イエスの犠牲の「御心」が今、この病人をも清くしているのであります。私たちの癒し、私たちの罪からの救いというのも、ここで起こっていることと同様であります。主イエスが私たちの痛み、苦しみ、罪の汚れを自分のこととして憐れんで下さり、怒ってくださり、御自分を投げ出して戦ってくださるので、私たちはそこから脱出でき、清められるのであります。「清くなれ」という主イエスのお言葉には、単なる強い力をもった命令以上の、御自身の犠牲を顧みない十字架の愛が込められているのであります。このお言葉によって、「たちまち重い皮膚病は去り、その人は清く」なりました。

4.何も話さないように/祭司に体を見せなさい

 その人が清くなると、主イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われました。44節です。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
 主イエスはなぜ、「だれにも、何も話さないように」と「厳しく注意」されたのでしょうか。それは、カファルナウムでの癒しが人々に誤解を産む危険を感じられたのと同じように、重い皮膚病の人が清くされたことについても、主イエスを単なる<重い病を癒す人>としてしか見なくなって、本当の救い主としてのお姿を見失う危険を感じられたからでしょう。しかし、一方で、祭司のところへは行って癒されたことを確認してもらい、律法の規定に従って献げ物をするように命じられました。これは「何も話さないように」ということと矛盾するようですが、主イエスはこの男が律法に定められた正規の手続きを踏むことによって、清められた者であることのお墨付きを得て、社会に復帰することを望まれたのでしょう。それが主イエスの憐みの御心・御意志でありました。

5.言い広め始めた

ところが、この男は、そこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めたのであります。この男は、主イエスが命じられた通りに祭司のところへ行ったのか、行かなかったのかは記されていません。いずれにしろ重い皮膚病が清められたことは本人にとっても、他の人々にも明白だったのでしょう。それは、この男にとってはこの上ない喜びであり、人に話さないではおれないことでありました。そして、その清めが主イエスによってなされたことをも語らずにはおれなかったでしょう。
 しかしそれは、主イエスが本当のメシア・救い主であることを人々に信じさせることにはつながらないのであります。主イエスのことを病の癒しの奇跡をもたらす魔術師のように考える人が出てきたり、逆に、主イエスをねたんだり、敵視する者たちを刺激することになることが予想されました。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた、のであります。誤解を避けるためでしょう。それは主イエスの伝道の活動を妨げることになります。しかし、それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た、と書かれています。それは主イエスの憐みの助けを必要とする人がいかに多いかということを物語っていますが、同時にそれは、彼らが求めているものと、主イエスが与えようとされたものとの違いを明らかにすることになって、結局、主イエスを十字架へと追いやることにつながるのであります。私たちもまた、そうならないように、主イエスを正しく知り、正しく伝える必要があります。

結.罪を清められて

私たちの周りには、生涯癒されることがないまま付き合わねばならないのではないかと思われる体や心の持病をもっている人がいます。また、現代の医療の技術では、もはや回復は困難で、長くは生きられないのではないかとみられている重い病に侵されている人がいます。私たちはそういう人のために祈らなければならないし、奇跡的な癒しが起こり得ることも信じたいのであります。主イエスはすべての病を癒すことが御出来になり、死さえ追い出すことが御出来になります。
 
しかし、主イエスがたとえ全ての病を癒されたとしても、人間の苦悩はなくなるのでしょうか。人間が互いに傷つけあうことによる苦しみが絶えることはないのではないでしょうか。病の癒しだけでは神の国は決して来ないのであります。主イエスは重い皮膚病の人を深く憐れまれ、手を差し伸べて触れるまでして、癒されるお方であります。その主イエスの憐みは、病の中にある一人ひとりに対しても及んでいる筈であります。しかし、主イエスの御使命は、病を癒すことに最終目的があるのではなくて、人間を罪から救い出すことであり、神の国をもたらすことであり、そのことを一人でも多くの人が知るようになることであります。そのことを知るために、場合によっては、病さえも用いられることがあります。主イエスは今日も、私たちを罪から救い出し、神様との関係を回復するために、そして、永遠の命に与らせるために、十字架を負いつつ、宣教の御業を続けておられます。そして、罪に汚れている私たちに、深い憐みをもって近づいてくださり、「清くなれ!」と呼びかけてくださっているのではないでしょうか。私たちがその呼びかけに応じて、神と人に対して犯した罪を悔い改めて、主の御手に委ねるならば、主イエスの贖いの故に、あの重い皮膚病を患っていた人のように、清くされて、残された人生を、喜びをもって歩むことが出来るようにされ、そのことを人々に言い広める者とされるのではないでしょうか。祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
あなたに対し、また人に対して罪を犯して、御心を痛めている者でございますが、今日、重い皮膚病を患っていた男が清められた出来事を通して、あなたは私たちをも主イエス・キリストの贖いの御業の故に、清めてくださろうとしていることを覚えることが出来まして、ありがとうございます。
 
どうか、「御心ならば」、罪深い者ですが、清めてください。どうか、罪の故に真実の交わりが出来なくなっている人たちとの間に、主にある交わりを回復させてください。
 
どうか、まだあなたを知らず、主イエスの救いの御業を知らない多くの人たちが、主の清めに与ることができますように。
 
そしてどうか、神の国が一日も早く完成しますように。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年5月25日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 1:35ー45
 説教題:「
清くなれ」         説教リストに戻る