序.主イエスが来られて起こること

4月からマルコによる福音書を読み始めておりますが、前回は、19節から20節に、それぞれ短く書かれている4つの出来事――それは主イエスが公生涯をお始めになるに当たっての出来事でしたが、そこで主イエスが何を御覧になったのか、御自分の御生涯の使命が何であるかをはっきりと確信されたということを学んだのでありました。主イエスが御覧になったもの、確信されたこととは、一言で言えば、十字架の御業による神の国の実現ということであります。
 
今日の箇所は、主イエスがいよいよ実際にカファルナウムの町に出かけられて、そこで行われた御業のことが記されているのであります。前半はカファルナウムの会堂でなさったこと、後半は会堂を出て、弟子となったシモンとアンデレの家に行って行われたことであります。そこで主イエスは何をなさったのか、そしてそのことによって人々の間で何が起こったのか、そのことを見て参りたいと思いますが、22節を見ますと、こう書かれています。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。――主イエスのお話しは、いつも聞いている律法学者の話とは違って、権威ある教えであったので人々は驚いたというのです。ところが、ここにはこの時主イエスが話された内容は記されていません。そして、主イエスが汚れた霊を追い出されたこと、シモンとアンデレ兄弟の家で、しゅうとめを癒されたこと、悪霊を追い出されたことが書かれているのであります。一体この時、主イエスはどんな話をされたのだろうか、そして人々は主イエスの話のどこに驚いたのだろうか、また、その教えと、その後の主イエスの業との間にどんな関係があるのだろうか、そして、この時起こったようなことは、現在の私たちの間でも起こるのだろうか、――そのようなことを考えながら、与えられた聖書の箇所を読み進んで参りたいと思います。そして、私たちもまた、主イエスの教えと御業に驚きを覚えさせられたいと思います。

1.神の国の到来の宣言

さて、先程申しましたように、この時主イエスは何を語られたのか、どんな教えをされたのか、その内容は書かれていません。しかし、前回学んだ箇所の1415節によりますと、主イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた、とあります。おそらくカファルナウムの会堂で語られたことも、同じ主旨の内容であったと想像されます。前回もお話ししましたが、当時のイスラエルの人々は、旧約聖書の預言者の言葉を通して、救い主メシヤが到来して神の国が実現するという神様の約束を信じていました。しかし、現実はロ−マ皇帝の支配下にあって苦しめられていました。歴史の終わりの時、終末の時が来れば神様の御支配は実現するとは思っていましたが、それは遠い将来のことのように考えていたのでしょう。それに対して主イエスは、「時は満ちた」と言われました。決定的な時(カイロス)がやって来た、と宣言されたのであります。「神の国」というのは、神様の御支配のことであります。それは政治権力による支配ではなくて、愛と赦しによる支配のことであります。その神の国は、終わりの日、終末の時に完成するものですが、その時が遠い未来のことではなくて、「近づいた」と宣言されたのであります。それは、世の中の情勢を分析して、そう判断されたとか、霊感を受けてそのように思われたということではありません。前回学んだように、主イエス御自身が洗礼を受けた時に、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞かれたこと、また荒れ野でサタンの誘惑を受けて、それに対して御言葉をもって勝たれたことによって、御自身の十字架の使命をはっきりと受け止められた中で、確信されたことであります。ですから、「神の国が近づいた」というのは、御自身がこれからなさろうとしておられる救いの御業(十字架の御業)によって実現する、という宣言なのであります。人々はこの宣言に非常に驚いたのであります。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである、と記されています。人々は律法学者と呼ばれる、旧約聖書の律法の権威者の話は、よく聞いておりましたし、そこで教えられる律法を守ることによって、神の国が実現する時がやがて来るのだと思っていました。しかし、それは自分たちの努力で勝ち得るものであって、その実現は遥かに遠い将来のことのように思われました。ですから、重苦しい気持ちになるだけで、心に喜びが湧いて来ませんでした。それに対して主イエス教えは、律法学者のように聖書の解説をしたり、律法の教えを守るように勧めるのではありませんでした。
 
主イエスが会堂でされた説教の一つがルカ福音書に紹介されていますので、それを見ていただきましょう。ルカ福音書416節以下です。(p107
 
イエスはお育ちになったナザレを出て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ41621
 
主イエスの話は、聖書に書かれていることをどうすれば実現できるかという話ではありませんし、いつか遠い将来に実現できるだろうという話でもありませんでした。主イエスの話は、聖書に書いてあることが、「今日、実現した」と語られたのであります。人々はそれを、〈権威ある者として語られた〉と受け留めました。それは、神様が語っておられる言葉として聴いたということですし、誰かが実現してくれるという話ではなく、主イエス御自身が責任をもって実現なさることとして語られたので、迫力をもって聴くことができた、ということでしょう。主イエスは今も同じように、「神の国は近づいた、私がそれを実現する/聖書の言葉は、今、実現した」と権威をもって私たちに語りかけておられるのです。

2.汚れた霊が出て行く

 さて、主イエスの御言葉は、権威ある教えとして、聞く人々に驚きを与えただけではありませんでした。主イエスの御言葉は実際に現実を動かす力を持っています。23節以下を御覧ください。

 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体はわかっている。神の聖者だ。」2324

 主イエスが話をされた会堂には「汚れた霊」に取りつかれた男がいました。当時の人々は、病気というもの、特に精神的な障害を医学的に解明することが出来ていませんでしたから、「汚れた霊」の所為にしていました。そうした考えは主イエスの頃だけでなくて、中世の教会でもあって、「悪魔払い」というようなことが行われたようです。では、医学が発達した現代では、「汚れた霊」などというものは恐れるに足りないものとして片付けられることなのでしょうか。すべてを医学の発達に委ねてよいのでしょうか。当時の人々が「汚れた霊」と呼んでいた悪魔的な力は、今も私たちをおびやかし、私たちを支配し、私たちの体や心に病をもたらすものとして、生きて働いているのではないでしょうか。私たちの心の中には、様々な不平、呟き、嘆きがあります。家庭のこと、職場のこと、教会のこと・・・。汚れた霊は私たちの中にも巣食っています。その悪魔的な力は、個人個人の体や心に働きかけるだけでなく、いつのまにかこの時代の政治や文化にも働きかけて、人々を支配しているということが起こっています。最新の医学の発達(ips細胞)の中にもそういう悪魔的な力は忍び込む可能性がありますし、国民の平和を守るためといった政治の大義名分(集団的自衛権)の中にも、汚れた霊が入り込んで参ります。だから警戒が必要です。

 ところで、主イエスの権威ある教えに人々が驚いたり感心したりしている時に、汚れた霊に取りつかれた男は、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫んでおります。汚れた霊は主イエスの本質を捉えています。元々、悪魔的なものは、聖なるお方に対して人一倍敏感であります。主イエスの「神の国は近づいた」といった教えに、自らの危険を感じとっているのであります。

 それに対して主イエスはすぐに、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行ったのであります。汚れた霊に取りつかれた男は、主イエスがどのような方であるかを、その場にいた人々以上に正確に理解していました。しかし、彼が語った言葉は、間違ってはいなくても主イエスを賛美するものではありません。礼拝には相応しくない言葉であります。だから主イエスは「黙れ。この人から出て行け」と命じられます。この主イエスの権威ある命令を聞いて、汚れた霊はその場から退散せざるを得ませんでした。

 汚れた霊、悪魔的な力は、現代の私たちをも惑わし脅かす恐ろしい力を持っておりますが、主イエスはそれを見破り、追い出すことが御出来になります。主イエスが「神の国が近づいた」と宣言され、神様の御支配が始まったところには、汚れた霊は存在を許されません。人々はここでも驚いて、「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ」と言っております。これまで聞いた律法学者の話では経験できなかったことであります。「新しい教え」と言っておりますが、単に耳新しいということではありません。口先だけではなく、古いもの、汚れたものを打ち壊して、事態を新しく創り変えるような力を持った権威のある教え、という意味であります。主イエスの教え、主が語り給う御言葉にはそのような新しさと力があるということであります。主イエスは今も、私たちの中にある汚れた霊に向かって、「黙れ、出て行け」と命じておられます。汚れた霊は、もはや私たちの中に留まっていることが出来なくなります。

3.病が癒される

さて、ここまでは安息日に会堂であった出来事ですが、29節以降は、主イエスたちの一行がその会堂を出て、弟子のシモンとアンデレ兄弟の家に行った時のことであります。ここでシモンというのはシモン・ペトロのことであります。ペトロとアンデレは、前回学びましたように、漁師として湖で網を打っている現場を御覧になった主イエスが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とおっしゃって、そのまま魚をとる漁師の仕事を捨てて、主イエスの弟子になったのでありました。主イエスの弟子になるということは、主イエスと一緒に村々町々を伝道して歩く生活に入るということですから、家族を捨てるような生活をするということです。ペトロは既に結婚をしていたことが聖書の他の箇所から分かります。そして、今日の箇所からその妻の母も一緒に生活をしていたことが分かるのですが、そんな家庭を捨てて弟子となったのであります。私たちが信仰を与えられてクリスチャンになるといっても、普通は家庭を捨てるということにはなりませんが、それでも信仰生活に入ると、これまでの生活とは大いに違って参ります。日曜日の過ごし方が変わります。日曜日が家族との団欒やレクリエーションの日ではなくなります。家に仏壇や神棚があれば、それとの関わり方が当然変わって来ます。主イエスに従って行くということは、これまでの生活とのある種の断絶を経験しなければなりません。ところがこの日、たまたまカファルナウムというシモンとアンデレの家のある町の会堂での集会に来たということもあったからでしょうが、会堂を出ると一行は彼らの家に来たのであります。おそらくこの日も大勢の人たちが癒しを求めて主イエスのもとに押し寄せて来る多忙さの中で、ペトロたちの家を訪問されたのであります。主イエスの弟子になるということは、家族との絆を断ち切って、世捨て人のようになることを要求されるのではありません。むしろ、主イエスは、弟子たちの家庭の問題に心を使われ、私たちの家庭の中に入って来られる方だということがこのことから分かります。
 
さて、ペトロたちの家に着きますと、人々はしゅうとめが熱を出して寝ていることを告げました。すると、主イエスはすぐにそばに行き、手を取って起こされると、熱は去ったというのです。マルコ福音書の中では最初の癒しの御業が、こうして弟子のシモンとアンデレの家で行われ、主イエスの恵みがその家族にも分け与えられたのであります。
 恵みはしゅうとめの熱が下がって病が癒されたということだけではありませんでした。31節の最後には、熱は去り、彼女は一同をもてなした、と書かれています。この「もてなした」という言葉は、「奉仕する」という意味の言葉でして、しかもギリシャ語の動詞の形は、一回だけ奉仕したということではなくて、「ずっと奉仕を続けるようになった」ということを表わす形になっているのです。つまり、このしゅうとめはこの時以来、ずっと主イエスと弟子たちをもてなすようになった、いつも主イエスにお仕えする人になった、というのです。更に申しますと、コリントの信徒への手紙(95)には、ペトロのことについて、「信者の妻を連れて歩く」ということが書かれています。つまり、後には、ペトロの妻も一緒に伝道に加わるようになったということが分かるのであります。ですから、シモンとアンデレが弟子に召し出されて、家族から引き離されたように見えましたが、結局、一家が主に仕える信仰の家族となったのであります。ここに、主イエスの大きな救いの御業が行われたことを見ることが出来ます。
 
主イエスは会堂で人々にお教えになりました。そこでは聖書の御言葉が読まれました。しかし、先程聴きましたように、それは律法学者のような、単なる聖書の解説や勧めではなくて、語られた御言葉がそこに実現するという宣言でありました。その宣言の通り、現に汚れた霊に取りつかれた男から汚れた霊を追い出されました。そのように、主が語られる御言葉は、人々が驚いたように、権威ある教えであって、汚れた霊をも追い出す力を持っていました。更に、その力は会堂の中だけに留まるのではなく、会堂から出て、ペトロの家族の中にまで及んで、一家が救われるところにまで広がったのであります。
 
更に32節以下を読みますと、こう書かれています。
 
夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。3234
 ここには、主イエスの御業がカファルナウムの町中の人たちに広がったことが伝えられています。これは単に、主イエスの不思議な奇跡の力が発揮されたということではありません。「神の国が近づいた」とおっしゃったこと、即ち、主イエスが御自分を投げ出して完成される罪からの救いの御業、十字架の御業が行われていることのしるしであります。罪が滅ぼされて新しい命が与えられるという御業が現実となるという出来事であります。正に言葉だけではない「権威ある教え」がそこに行われたのであります。

結.礼拝において起こること

2000年前にカファルナウムの会堂で語られた「権威ある教え」は、今も世界中の会堂で主の日ごとに語られています。そこではしかし、一見、何事も起こっていないようにも見えます。不思議な癒しの業が行われるわけではありません。汚れた霊に取りつかれた人、心の病にかかった人たちが直ちにそこから解放されるようには見えません。洗礼を受けて救いに入れられる人がどんどん現れるわけでもありません。カファルナウムの会堂で起こったことは主イエスが地上におられた時だけにしか起こらないのでしょうか。そうではありません。今も主の日ごとに主イエスがこの会堂にも来てくださって、御言葉を語ってくださいます。権威ある教えを語ってくださっています。であるならば、そこには、新しい事態が始まっている筈であります。神の国は近づいている筈であります。そのことを信じて、主の日の礼拝を守り続けたいと思います。主は必ず、その権威を発揮されて、このところにも、神の国を来たらせてくださる筈であります。否、既に、神の国は権威ある教えと共に、ここにも始まっているのであります。祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
  今日も主イエスを御言葉によって私たちのところにお遣わしくださり、権威ある教えをいただくことが出来ましてありがとうございました。
  私たちの信仰の目はなお、罪の故に曇りがちで、神の国の到来を見失うことが多いのですが、どうか、御言葉を絶やさず聞かせてください。どうか、あなたの権威を仰がせてください。どうか、私たちの回りにもあなたの権威ある教えが広がり、聞かれますように。御国が来ますように。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2014年5月18日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 1:21ー34
 説教題:「
権威ある教え」         説教リストに戻る