序.疲れている私たち

今回の伝道集会のために作りましたチラシやはがきに、「現代人は皆、疲れています」ということを書かせていただきました。現代は激しい競争社会であります。その中で、落ちこぼれて負け組にならないためには、必死で勉強し、死に物狂いで働かなくてはなりません。仕事の場ではもちろんのこと、学校の勉強の場でもそうなっています。大人も子供も、目いっぱい頑張らなくてはならず、疲れてしまいます。 そうした競争社会の中では、人間関係にも破れが生じて来ます。上下関係において、同僚との間で、友達同士の間で、ギクシャクして、ストレスが溜まります。社会生活での疲れが家庭の中にも持ち込まれて、夫婦間の破れ、子育ての疲れに波及して、暴力に及ぶこともあります。子供の間の差別や妬みがいじめにつながって、大きな事件を起こすこともあります。社会の先行きが不透明になって、将来に希望が見出しにくい時代になっていることも、私たちを疲れさせているのかもしれません。また、医療の発達によって、長生きするようになったのは結構なのですが、高齢化が進み、老々介護など、介護の負担が大きくなっていますが、介護する方の疲れだけでなく、老後に介護を受けなければならなくなることへの不安も広がっています。このように、現代社会では肉体的な疲れもさることながら、精神的な疲れが広がっています。そうして、疲れ切って生きる望みを失って、自ら命を断つ人が、我が国では2012年以降減少に転じたとは言え、毎年3万人近くあり、交通事故で無くなる人の数を大きく上回っています。自殺までは行かなくても、20人に1人がうつ病の患者だとも言われています。
こうした状況の中で、今日は、「主に望みをおく人」という説教の題を掲げましたが、先程朗読していただいた聖書のイザヤ書の4031節には、「主に望みをおく人は・・・疲れない」と書かれています。神様に望みをおく人、即ち信仰を持っている人は疲れないと言うことです。今日はそのお話しをするわけなのですが、私は昨年、後期高齢者になった上、このところ仕事が重なって、つい妻の前で「疲れた」とこぼしましたら、「今度、伝道集会で、『主に望みをおく人は疲れない』という話をするのではないの」と言われました。しかし、キリスト者であるからといって、疲れないわけではありません。主を信じていながらも、肉体的疲れだけでなく、精神的にも、疲れるのであります。ですから、今日の聖書の言葉は、まだ神様と出会っていない方、信者でない方だけではなくて、私を含め既に信仰を持っている人も、改めて耳を傾けなければならない言葉だということであります。
先程読んでいただいた聖書の箇所の中には、「疲れる」とか「倦む」といった言葉が7回出て来ます。これは、このイザヤ書(第二イザヤ)が書かれた当時のイスラエルの人々の現実を反映しています。そのような疲れた人々に対して、預言者イザヤが語った言葉でありますが、今日はその言葉を現代の疲れている私たちに語られた御言葉として聴き取って、そこから新しく生きる力を与えられたいと願っております。

1.疲れの根本原因

 当時のイスラエル(紀元前600年頃のこと)は大国バビロニア帝国によって滅ぼされて、国の主だった人々がバビロンに捕囚の身となっていました。そういう状況に置かれると、これまで信じて来た神様に対する信頼が揺らいで、希望が失われました。彼らの中には異教の文化に同化して、偶像崇拝に取り込まれる者も出て来ました。27節を御覧ください。こう書かれています。ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。――ここで呼びかけられているヤコブとかイスラエルというのは、イスラエルの民のことであります。彼らは「わたしの道は主に隠されている、わたしの裁きは神に忘れられた」と嘆いているというのです。「道」とか「裁き」というのは、歩むべき道、神様によって定められた方向のことです。それが見えて来ないという嘆きの言葉であります。彼らは捕囚の状態にあるといっても、牢屋に閉じ込められているとか、奴隷のように働かされたということではなかったようで、生活はむしろ安定していたようですから、彼らの疲れは、単なる肉体的な苦役によるのでもなく、異国での不自由な生活や精神的重圧によるのでもなく、将来に対する希望が持てないことによる神様への不信から来る霊的な疲れ、信仰が萎えた状態でありました。30節には、若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れ、とあります。若者というのは、少々の困難に遭遇しても、普通は将来に望みをかけて元気を出します。「勇士」と訳されている言葉は、活発で精力的で、少々のことでは挫けない人のことであります。ところが、そうした元気であるべき人たちも倦み疲れ、つまずき倒れているというのであります。それは神様への信頼を失って、信仰の危機に陥っているからであります。
 人間は誰でも、心から信頼できるものを失った時に、心が病み、疲れ、絶望いたします。現代社会における疲れの根本原因は、心から信頼できるものを喪失しているために、自らの立ち位置や存在の意味が分からなくなって、進むべき道が見えなくなっているからであります。
昔であれば、家族親戚や地域共同体の中で、自分の位置や役割がある程度定まっていて、それに宗教的な伝統なども加わって、一応の心の拠り所があったのでしょうが、そうした絆が緩んでしまった現代社会の中では、自分で生き方を見つけ、道を開いて行かなければならないだけに、心の拠り所を失ってしまい勝ちになるのであります。そういう中で、自分なりに生き甲斐を求めて、仕事や勉強、趣味やスポーツ、あるいは奉仕などに拠り所を見出そうとするのでありますが、そこにも醜い人間の利己心や競争心が渦巻いているわけで、本当に信頼できる人や安らげる場所を見出すことは難しくて、疲れを癒すことが出来なくなっている、そして、自分自身に対しての信頼というか、確信を持てなくなってしまう、ということではないでしょうか。

2.誰が天の万象を創造したか

 さて、イスラエルの人々も、神様への信頼が揺らいでいた中で、預言者イザヤの語ったことが、今日の箇所の前(12節以下)に記されているのですが、そのうち2526節を読んでみましょう。

「お前たちはわたしを誰に似せ、誰に比べようとするのか、と聖なる神は言われる。目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方/それぞれの名を呼ばれる方の/力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。」

 バビロンでは昔から占星術が盛んで、イエス様が誕生された時に、大きな星が現れたのを見て東の国からやって来た博士たちというのは、バビロンの占星術師たちではなかったかと言われています。バビロンでは太陽や月や星々が国家の神として礼拝されていました。その中で預言者は、誰がその天の万象を創造したかを思い起こせ、と訴えているのであります。ここの出て来る「創造する(バーラー)」という語は、創世記の最初に書かれている創造物語でも用いられている語なのですが、それは<無からの創造>を表わす言葉でして、単に無かったものを新しく産み出すというだけでなくて、一切のものに秩序と存在の意味を与えるということを表わしています。バビロンの人々は時を越えて輝き、(きら)めく天体を見て、疲れを知らない不滅の力を感じたのかもしれません。しかし、創世記の創造物語では、「神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた」(創世記116)とあるように、神様は天と地の全てを創造され、それを支配しておられるのであります。その神様がイスラエルもバビロンも、御支配なさっているのではないか、と預言者は問いかけているのであります。そしてその問いかけは、現代の私たちにも向けられています。あなたがたは人生の意味が見出せないとか、歩むべき道が見えないと言っているが、誰が天の万象を支配しておられるのかを考え直して見よ、と問いかけているのであります。これが疲れている現代の私たちに対して聖書が語る第一の問いかけです。

3.主は疲れない

さらに預言者は、28節でこう言っております。
あなたは知らないのか、聞いたことがないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。
イスラエルの人々は捕囚という現実の中にあって、自分たちを導いて来られた神様も倦み疲れたのではないか、自分たちを助ける力も尽きた、と思っていたのかもしれません。私たちもまた、この世の現実の労苦と先の見えない閉塞状態の中で、<神様もこの現実を変えることは出来ないのではないか、神様なんかおられないのではないか>と思ってしまいがちであります。しかし、「主は、とこしえにいます神」と言っておりますように、万物を造りっぱなしされるお方ではありません。人間を造って、あとは勝手にやれと放り出されるお方ではありません。愛をもって世界を創造された神様は、決して倦むこともなく、疲れることもなく、愛し続け、働き続けてくださるお方であります。私たちは目の前の事しか見えなくて、動かせそうにない現実の前に疲れ果ててしまいます。しかし、神様は、究めがたい英知をもって、私たちを導かれるのであります。神様は命を創り出されるお方、命の源であられます。新しい事態を創り出すことの出来るお方であります。
私たちがなぜ疲れるのかと言えば、この大きな神様への信頼を忘れるからであります。私たちは困った時には神様のことを思い出さないわけではない。人間には宗教心のようなものが備わっていて、困った時の神頼みはいたします。自分勝手な御利益を求めます。入学試験に受かりますように、よい就職先に入れますように、よい結婚相手と結ばれますように、病気が癒されますように、と願いごとをいたします。そんな願いごとをしてはいけないとか、神様はそんなことには耳を貸されないということではありませんが、そういうことを神様に押し付けるのは、神様を自分の意に適う召使にするようなことであります。神様はそんな小さなお方なのでしょうか。私たちは、神様が世界を創造し、今も愛の御心をもって治めておられることを忘れてしまいます。神様を小さな存在にしてしまっています。
教会では人間の「罪」ということをよく言います。聖書で語られていることの中心は、この罪からの救いということであります。しかし、私たちは、そのことがあまりピンと来ません。自分はそれなりに人の道に反するようなことをしていないという自負を持っていて、「罪」があると言われても腑に落ちません。確かに汚い心を内に持っていることは認めますが、それを自分なりにコントロール出来ている、と思っています。しかし、聖書で言う「罪」というのは、そういうことのもっと根源にある問題性であります。「罪」ということの本質は、ここまでお話しして来たように、神様の存在を無視したり、無視はしなくても小さな存在にしてしまうことであります。或いは、神様を自分の召使のようにして、万物を御支配されているお方の前に額ずくことをしていないこと、それが「罪」であります。これが疲れの根本原因です。

4.主に望みをおく人

 そのような「罪」の中にあって、神様に目を上げることを忘れて、疲れきって、倒れてしまっている者たちに向かって、預言者イザヤは29節以下でこう語ります。疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが/主に望みをおく人は新たな力を得/ワシのように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
 「力を得」と訳されているところを直訳しますと、<力を交換する、力を入れ替える>となります。人間の力と神様の力を入れ替える、という意味であります。神様は御自身が「倦むことなく、疲れることない」力をお持ちであるばかりでなく、その主に望みをおく人には、神様の大きな新しい力を入れ替えてくださる、というのであります。
 「鷲のように」とありますが、鷲は鳥の中の王であって、力強さと自由の象徴であります。旧約聖書の中でも、「鷲のような若さを新たにしてくださる」(詩編1035)とか、「あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来た」(出エジプト記194)という表現があります。その鷲という鳥は、十年に一度新しい羽根に生え替わるそうです。その時期には崖っ淵で潮風に曝されながら、古い羽根を落として、新しい羽根が生えるのをじっと耐えて待つのだそうであります。私たちもまた、主を仰ぎつつ、忍耐して待つ時に、鷲のように新しい羽根を与えられて、翼を張って、今まで飛べなかった高さまで上ることが出来るようにされるのではないでしょうか。

結.疲れた者はわたしのもとに来なさい

ところで、新約聖書を見ますと、先程朗読していただきましたように、イエス様はこうおっしゃっています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ1128)。――イエス様は人々を「疲れた者、重荷を負う者」と呼びかけておられます。ここでイエス様に招かれているのは、特別に疲れている者、困難な状況にある者たちに限定されているのでしょうか。「だれでも」と言われています。イエス様は全ての人が疲れており、重荷を負っている、と見ておられるのであります。私たちは自分のことをそのような憐れな者とは見たくないかもしれません。自分は困難も克服する力を持っている者、他人の重荷も負うことのできる者、神様の求めにもある程度は応えることが出来ている者と見たいのであります。しかし、イエス様は私たちの疲れている本当の姿を見抜いて、そのような私たちの疲れと重荷に深い関心と憐れみを抱いてくださって、休ませるために御自分のもとへと招いてくださるのであります。
「休ませる」とはどういうことでしょうか。イエスさまのもとで何もしなくなるということでしょうか。そうではありません。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われています。「軛」というのは、一対の家畜が力を合わせて車を牽くための横木のことです。「わたしの軛を負う」とは、イエス様御自身が負っておられる軛を私たちも負わせていただく、あるいは、本来私たちが負わねばならない軛を、御自分の軛として一緒に負ってくださる、ということであります。いずれにしろ、イエス様が私たちと一緒に重荷を負って、一緒に疲れてくださるのであります。先程、疲れの根本原因は私たちの罪にあるということを申しました。その罪の重荷をイエス様が負って十字架に架かってくださいました。そのイエス様と軛を共に負うことによって、イエス様の十字架の柔和と謙遜を学ぶことが出来るわけで、それが本当の「休み」であり、「安らぎ」なのであります。そして、ここからこそ、私たちは新しい力を得て、鷲のように羽ばたくことが出来るのであります。預言者イザヤを通して語られた「主に望みをおく人は新たな力を得る」との約束の御言葉は、こうしてイエス様において成就されたのであります。もはや私たちは疲れる必要のないものとされたのであり、主に望みをおく者とされるのであります。教会はこのイエス様と出会う場であります。祈りましょう。

祈  り

憐れみ深い父なる神様!
様々な苦難や失望を経験する中で、あなたを見失いがちな者でありますが、万象を創造された主はお疲れになることなく、今も全てを御支配なさり、主イエス・キリストにあって私たちの疲れをも取り除いてくださることを覚えて、感謝とともに賛美いたします。
どうか、絶えず目を高く上げ、あなたに望みをおくものとさせてください。どうか、倦み疲れている者を顧みて、御言葉による慰めと力と希望をお与えください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

伝道礼拝説教<全原稿> 2014年5月11日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書40:27−31/マタイによる福音書 11:25ー30
 説教題:「
主に望みをおく人」         説教リストに戻る