イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。            (マルコによる福音書116

 主イエスは公生涯の最初に、4つの出来事において大変重要なことを「御覧になった」。
 第1は、罪のない主イエスが罪人の一人として洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたとき、「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」(110)。これは、十字架の死に至る御受難の生涯を歩むことが、神の御心であることを御覧になって確信されたということだ。
 第2は、“霊”によって荒れ野に導かれて、そこでサタンから3つの誘惑を受けられたが、それらはいずれも、神の子としての栄光を手にするという誘惑であった。この誘惑に対して主は御言葉によって勝たれたのであるが、「その間、野獣と一緒におられた」(13)と記されている。それは、アダムが蛇の誘惑に負ける前のエデンの園の平和の状態に復帰することを表わしている。主イエスはサタンに勝たれることによって、神の許にある平和な世界(神の国)が再び訪れることを「御覧になった」のであろう。
 第3は、「ヨハネが捕えられた後」(14)、「時は満ち、神の国は近づいた」(15)と宣言された。ヨハネが捕えられた出来事の中に、十字架の時が近づいたことをはっきりと自覚され、神の国が実現する救いの時が来たことを「御覧になった」のではないか。
 第4は、将来、神の国の福音を伝える使命を果たすことになる弟子たちをお召しになったのであるが、その際、標記のように、主イエスは弟子たちを「御覧になった」と記されている。これは、ふと見かけたとか、たまたま目に止まったということではなく、注目されたという意味である。だがそれは、彼らの能力や適性を評価して注目されたというよりも、主イエスが彼らを弟子にしようとの選びの御意志をもって「御覧になった」ということである。
 主イエスは今も、この時と同じ愛の目をもって、私たちを見つけ出し、私たちを弟子にしようと「御覧になって」いるのではないか。

主日礼拝説教<要 旨> 2014年5月4日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 1:12−20 
 説教題:「
主が御覧になった」 説教リストに戻る