序.主が公生涯のはじめに御覧になったこと

福音書の中で最初に書かれたと考えられているマルコ福音書の御言葉を聴き始めました。マルコ福音書には主イエスの降誕物語や少年期のことは書かれていなくて、いきなり公生涯と呼ばれる伝道の働きの記述に入るのでありますが、その公生涯の初期になされたことが、19節から20節に記されています。そのうち、前回に聞いたのは、911節でしたが、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたことが書かれていました。そして、今日の箇所に入ると、1213節では、荒れ野で誘惑を受けられたこと、1415節では、福音宣教の第一声を上げられたこと、そして1620節で四人の漁師を弟子にされたことが書かれているのであります。これらの四つの記事は、他の福音書の併行記事と比べると大変簡潔でありますが、主イエスがその地上での御生涯で何をなさろうとしておられるのかということを端的にあらわしているように思います。今日はそこから、主イエスが私たちのために何をしてくださったのか、また今、私たちとどう関わろうとしておられるのかということを学びたいと思っております。
 ところで、今日の説教の題を「主が御覧になった」とさせていただきました。「御覧になった」という言葉は、10節で「“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」と書かれている箇所と、16節で「シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった」と書かれている箇所と、19節で「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると」と書かれている箇所に出て来ます。わざわざ「御覧になった」と書いているということは、<何となく目に入った>という程度のことではありません。<注目された>ということであり、そこには主イエスの特別な思いが込められていたということが言いたいのであります。二番目の荒れ野で誘惑を受けられたという箇所には「御覧になった」という記述はありませんが、これは主イエスが公生涯を始められるに当たっての重要な体験でありまして、その体験を通して、主イエスは大変重要なことを御覧になられたのではないかと思います。また、三番目の福音宣教の第一声の記事においても、「御覧になった」という記述はありませんが、主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた」と言われたように、大変重要な事態が迫っていることを御覧になったのであります。――そういうわけで、今日は、主イエスが公生涯の最初に何を御覧になったのか、そしてその主イエスが私たちを今、どのように御覧になっているのかということを聴いて参りたいと思います。

1.主の受洗で御覧になったこと

 まず、前回学んだ箇所でありますが、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時のことをもう一度、思い起こしてみましょう。洗礼者ヨハネが行なっていた洗礼とは、罪の悔い改めのしるしとして行うものでありました。ですから、罪のない主イエスが受ける必要のないものであります。その洗礼をわざわざ受けられたのは、罪のない主イエスが罪人の一人となられたということを表わしています。つまり、罪がないのに罪人の一人として十字架にお架かりになる御生涯を指し示している出来事でありました。そして、その洗礼を受けられた時に、「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」のであります。そして、天から、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえました。これは、主の御受難の御生涯が神様の御心に適っているということであります。そのことを鳩のように聖霊が降って来るのを「御覧になった」ことによって確信されたのであります。罪のない主イエスが死の徴である洗礼を受けられることによって、罪ある者たちのために御自分の命を献げられることがご自分の使命であることをはっきりと「御覧になった」ということであります。

2.主が荒れ野で御覧になったこと

 主イエスが公生涯の初期に体験された二つ目のことは、荒れ野でサタンの誘惑を受けられたということでありました。12節を見ると、それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した、と書かれています。洗礼を受けられた時に降った聖霊が、今度は主イエスを荒れ野に導いたのであります。ということは、荒れ野で誘惑を受けることが、神様の御心だということであります。主イエスの御受難の御生涯の第一歩が荒れ野において、サタンの誘惑を受けることであったのです。

 「荒れ野」というギリシャ語は、元々「捨てる」という意味を持っているそうです。荒れ野に送り出されるということは捨てられるということになります。荒れ野では、神様から捨てられたのではないかという体験をさせられる中で、神様への疑いが芽生えるのであります。イスラエルの民は出エジプトの旅で荒れ野をさ迷い歩かなければなりませんでしたが、そこで、彼らはしばしば神様を信じることが出来なくなって、不平が生じ、エジプトが懐かしくなりました。神様の試みを受けたのでした。主イエスも聖霊によって、そのような荒れ野に送り出されたのであります。このマルコ福音書には主イエスがサタンからどういう誘惑を受けられたかは記されていません。他の福音書によれば、一つは、空腹になられた中で、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」というものでした。神の子としての力を自分の欲望を満たすために用いるという誘惑でありました。この誘惑に対しては、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と申命記の言葉をもって答えられました。次に、サタンは主イエスを神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神が天使たちに命じると手であなたを支える』と書いてある」と言って聖書の言葉を使って誘惑しました。これに対して主イエスは「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」といわれて拒否なさいました。三つ目の誘惑は、サタンが高い山に連れて行って、世界の繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」というものでしたが、主イエスは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と答えられたので、さすがのサタンも諦めて、主イエスから離れ去ったのでありました。主が誘惑に勝たれたということです。三つの誘惑は、それぞれ深い意味を持っていると思いますが、今日はその一つ一つに立ち入ることは出来ませんが、共通していることは、神のような力と栄光を手にするという誘惑であると言うことが出来るのではないかと思います。それは神など要らないということです。神のような知恵や力を持ちたいという誘惑は、人間があのアダム以来求めて来たものであります。ですから、この荒れ野での主イエスの誘惑は、人間が生涯の中で出会う誘惑の凝縮したものと言えますし、主イエスの御生涯の中でも、最後のゲッセマネの祈りまで戦い続けられた誘惑ですが、それに先立つこの荒れ野での誘惑の中で、御自分の十字架の使命をはっきりと「御覧になった」、確認されたのであります。こうして私たちがサタンに負けることがないように、代わって戦ってくださったのであります。13節の終わりに、その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた、という不思議なことが書かれています。創世記によれば、神様が世界を創造された時には、人間は家畜をはじめ地の獣、地を這うものすべてを支配するものとして造られました。ですからエデンの園では野獣と人間は一緒に平和に暮らしていたのであります。しかし、人間は蛇にそそのかされて知恵の木の実を食べて神のようになるという誘惑に負けました。そうしてエデンの園を追われ、荒れ野へ追放されました。そこでは野獣との戦いもありました。しかし、ここで主イエスが野獣と一緒におられたということは、元の楽園の状態が回復したということです。イザヤ書11章には、こういうことが書かれています。「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さな子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。」(イザヤ1167)主イエスが荒れ野での誘惑に勝たれたことによって、このイザヤの預言が成就したと解釈されています。主イエスはサタンの誘惑に勝たれたことによって、このような神の許にある平和な世界が再び訪れることを「御覧になった」のであります。そのことが次の14節以下につながります。

3.主が御覧になった神の国

次に、主イエスが公生涯の初期に「御覧になった」三つ目のことは、主が御生涯にわたって語り続けられたことでもありますが、「時は満ち、神の国は近づいた」という、新しい事態が迫っているということを御覧になったのであります。14節の初めに、ヨハネが捕えられた後、とあります。洗礼者ヨハネは人々に悔い改めを説きました。その叫びは人々の良心をえぐりました。しかし、そのヨハネはヘロデ王の悪を暴いたことで、捕えられました。その事態の中に、主イエスは御自身が人々の罪を担うために十字架の御業を行なって、そのことによって人々の罪が赦されるという神の国が実現する救いの時が来たことを、「御覧になった」のでしょう。救い主メシアが到来するということは預言者たちを通して預言されていました。今やそのことが実現する時が来た、神の国、即ち神様の御支配が露わになる時が来た、そのことを主イエスははっきりと「御覧になった」のであります。だから、人々に「時は満ち、神の国はちかづいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのであります。そして、私たちは救いの御業が主イエスの十字架で実現したことを知っています。神の国は既に始まりました。あとは、私たちが悔い改めて(即ち、生き方の方向転換を行なって)、この福音を信じるだけであります。「時は満ち」と宣言されました。「時」と訳されているギリシャ語にはカイロスとクロノスという言葉があることを前にお話ししました。私たちが日ごろ暮らしている時は「クロノス」で、のんべんだらりと続く時であります。しかし、ここで使われている「時」はカイロスであります。決定的な時であります。その時が既に来たのであります。私たちはこの世の中の現状を嘆き、それが一向に改善の方向へ向かわないことに苛立ちを覚えるのでありますが、神様は既に決定的な時、「カイロス」を主イエス・キリストによって来たらせてくださったのであります。人間の罪という最大の問題の解決の道が開かれたのであります。後は、私たちが、これまでの生き方を変えて、その福音に身を委ねるかどうかだけであります。

4.主は弟子たちを御覧になった

 さて、そこで残された課題は、この神の国の福音を多くの人々に伝えて、信じるようになることです。そのためには、その福音を伝える役目をする人が必要です。もちろん、主イエス自身が率先してその働きをされるのですが、福音というのは世界中に届く天の声のように形で、一斉に人々に届くものではありません。日々の暮らしの中で喜んだり嘆いたりしている一人一人に届けられることによって神の国(神様の御支配)は実現して行くのであります。それには、一人ひとりのところへ福音を持ち運ぶ人が必要なのであります。主イエスはそのことを十分に御承知でありましたから、御自分が十字架と復活という決定的な救いの御業をされる前に、あらかじめ福音を持ち運ぶ役割をする最初の弟子たちを用意しなければならないと考えられました。そしてそのことを、既に公生涯の最初の段階で実行されたのであります。それが16節以下に書かれていることであります。
 
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
 
主イエスは、シモンとアンデレ兄弟を「御覧になった」と書かれています。これは、ふと見かけられた、たまたま目に止まったというようなことではなくて、むしろ、じーっと御覧になる、注目されるという意味が込められている言葉であります。このあと17節で主イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とおっしゃいますが、シモンとアンデレを御覧になった目は、まさに「人間をとる漁師」の目でありました。漁師はどこに網を打てば魚が入るかを見分ける目をもっています。そのような目をもって二人を御覧になったのであります。では、主イエスはシモンとアンデレの中にある何を御覧になったのでしょうか。聖書の教えをよく学んでいるとか、信仰心があることを見抜かれたということでしょうか。これまでに主イエスとお会いしていて、彼らの人柄や能力を評価しておられたということでしょうか。彼らが漁師としての働きに限界を感じていて、転職を考えた方が彼らの将来が開けるというように御覧になったということでしょうか。家族の状況などを考えて、家族を離れて伝道活動をしても支障がないという判断をされたということでしょうか。そのような、弟子となるに相応しい能力や性質や状況を、主イエスが特別な目をもって見抜かれて、弟子として適材だと判断されたということなのでしょうか。――そういう主イエスの洞察や判断が全く働かなかったということではないでしょう。しかし、聖書には、彼らが主イエスの目に適ったとか、相応しい条件を持っていたというようなことは一切書かれていません。全く突然の出会いのような書き方であります。このあとの、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネの場合も同様であります。主イエスは彼らが舟の中で網の手入れをしているのを御覧になった、としか書かれていません。そこには主イエスの弟子に相応しい条件のようなことは何も触れられていません。では、主イエスは何を御覧になったのでしょうか。それは、彼らが弟子に相応しい条件を持っているということを御覧になったというよりも、彼らを弟子にしようとの選びの御意志をもって御覧になった、ということであります。主イエスの選びの御意志こそが決定的であったということです。
 
さて、シモンとアンデレを御覧になった主イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とおっしゃいました。すると、二人はすぐに網を捨てて従いました。ヤコブとヨハネも、御覧になると、すぐに彼らをお呼びになりました。するとこの二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った、のであります。――普通なら、「そんなことを急に言われても無理です」とか、「もう少しあなたの教えをよくお聞きしてから」とか、「もっとよく考えてから」とか、「人間をとるとはどんな仕事かよく分かってから」と言うのではないでしょうか。ところが、彼らはすぐに従ったのです。不思議なことです。彼らは、主イエスについて行くとどんな良いことがあるのか、人間をとる漁師とはどんなことをするのか、そんなことは何もよく分からないまま、すぐに網を捨て、父親や雇人たちを残して、主イエスについて行ったのです。それはどうしてでしょうか。――その秘密は、主イエスが彼らを「御覧になった」からです。主イエスがこの人たちを目に留め、弟子にしようと思われたからです。主イエスが彼らをお選びになったからです。主イエスは、このように人を動かしたり、変えたりする不思議な力を持っておられるとしか言いようがありません。

結.私たちを御覧になる主

このことは、私たちが主イエスの選びを受けて、弟子となる場合も基本的には同じではないでしょうか。私たちに相応しい素質や能力があるとか、私たちに篤い信仰や積極的な意志があるかどうかというよりも、主イエスが私たちを御覧になるかどうか、主イエスの選びがあるかどうかであります。もっとも、中には、長い求道生活の末、やっと決心して、洗礼を受けるという場合もあるでしょう。散々反発していたけれども、遂に捕えられるという人もあるでしょう。しかし、キリスト者になって見て分かることは、自分が十分考えた抜いた結果、弟子になることが良いと判断したとか、弟子になることに使命感を強く覚えたというよりも、主イエスの導きがあった、自分が決断するより以前から主イエスのお選びがあった、ということではないでしょうか。主イエスが私たちを捜し求めて御覧になる目、その愛の目、何とかして人々を救い出したいという御心が、私たちを見つけ出し、弟子にしてくださるのであります。その御心は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時に始まって、荒れ野でサタンの誘惑を受けられた時も、弟子たちを選ばれた時も、そして十字架の苦難を受けられた時にも、復活して弟子たちに現れられた時にも、持ち続けられて、今もその御心をもって、私たちを御覧になっているということです。
 この主イエスの目が、今日も私たちに注がれています。そして、その愛の目は、弟子になってからも注がれ続けている筈であります。私たちは様々な誘惑や障害に出会って、さ迷ったり、くじけそうになることがあるかもしれませんが、主イエスの選びは変わりません。主イエスは私たちの生涯の終わりまで、否、永遠に、私たちを御覧になり続けておられるのではないでしょうか。祈りましょう。

祈  り

私たちを今も御覧になっている主イエス・キリストの父なる神様!
 
今日も愛の眼差しをもって、私たちを選んで御覧くださり、御許に引き寄せ、弟子として歩むことを許してくださることを覚えて、感謝いたします。
 
私たち自身の方を見ますと、様々な足りなさ・至らなさや、諸々の妨げ、不信仰を覚えざるを得ませんが、どうか、あなたのお選びと召しに素直に応じる者とならせて下さい。どうか、主イエスの眼差しに応えて目を上げ、立ち上がる者とならせてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2014年5月4日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 1:12ー20
 説教題:「
主が御覧になった」         説教リストに戻る