序.苦役の時の中で

私が米子に赴任いたしましてから、旧約聖書では預言者イザヤの言葉を聴いて来たのでありますが、前回で39章までの「第1イザヤ」と呼ばれている部分を終えまして、今日から「第2イザヤ」と呼ばれている部分に入ります。第2イザヤは40章から55章までと考えられています。前の第1イザヤは紀元前8世紀後半(南北分裂王国時代の末期)を背景として書かれたものでありましたが、ここからの第2イザヤは紀元前6世紀後半のバビロン捕囚時代末期に書かれたと考えられています。(古代イスラエル略年表参照)
 紀元前587年にバビロンによってエルサレムが陥落し、ユダ王国は滅亡したわけですが、ユダの民の主だった人たちはエルサレムから1000km以上離れたバビロンに連れて行かれました。こうして約50年の捕囚の年月が流れます。神の民とされたイスラエルの民でありましたが、国を滅ぼされ、祖国を離れた異教の国で暮らすうちに、民族の誇りや信仰が揺らぎかねない状態ではなかったかと思われます。もはや神の民としての歴史は終わったのではないか、神の約束に信頼しても無駄ではないのか、そういう思いが広がって来ていたとしても不思議ではありません。
 そうした中で、第2イザヤと呼ばれる預言者は、捕囚から解放されて、祖国に帰還する日が来ることを告げたのであります。1節、2節の言葉を読みます。
 
慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。
 
エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/
 
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
 
罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。
 
これは、第2イザヤ全体の序曲のような部分ですが、ここにこれから述べるメッセージの中心が語られています。「苦役の時は今や満ち」と言われています。「苦役」と言っても、バビロンで奴隷のような仕事をさせられていたというわけではないようですが、精神的には「苦役」に従事しているのと同様であったということでしょう。しかし、その時が今や満ちた(終わった)、と言うのです。苦役が終わっただけでなく、「彼女の咎は償われた」と言っております。「彼女」というのはエルサレムのことであり、イスラエルの民のことであります。なぜ、バビロン捕囚という苦役を受けなければならなかったかと言えば、イスラエルの民に「咎」(罪)があったからであります。神様の言葉に信頼せず、人間の力に頼ろうとしたことの報いを受けたのであります。しかし、その「咎」は償われ、「罪のすべてに倍する報い」を受けた、と言うのです。赦しを受けたということです。これは捕囚の中にある民にとって、大きな慰めのメッセージであります。
 
ところで、私たちは、この第2イザヤの時代から約2600年を経た時代に生きていて、置かれている状況はずいぶん違うのでありますが、ここに語られているイザヤの言葉は、現代の私たちの心をも捉えるのであります。なぜでしょうか。――それは、21世紀の私たちも、大きな力に捕えられて、自由に生きていないからであり、将来に対する確たる見通しが持てない閉塞感の中で、不安や混迷の中に置かれているからではないでしょうか。私たちも現代の<バビロン捕囚>の状態にある、と言ってよいのであります。
 キリスト教会は、この第2イザヤの預言を、救い主キリストによる解放(罪からの救い)の言葉として受け取って参りました。私たちも、ここに与えられている言葉を、<現代のバビロン捕囚>からの解放の言葉として聴き取って行きたいと思っております。

1.慰めよ

 まず、1節の「慰めよ、わたしの民を慰めよ」という呼びかけですが、この「慰める」という言葉には深い意味が込められているということを、小林和夫先生の本から学びました。(「イザヤ書講解説教(全)」)「慰める」という言葉のヘブル語は「ナホーム」と言いますが、この語は単に、苦しんでいる人を慰めるということではなくて、元の意味は「悲しむ」ということなのです。それだけではなくて、「あんなことをして悪かったなあ」と「悔いる」とか「悔い改める」という意味もあるそうです。「慰める」と「悲しむ」と「悔い改める」では全然意味が違うように思えるのですが、元を質すと、浅はかさ、小ささ、足りなさに気付いて、悲しむところから出発し、罪深さを覚えて、心から悔い改める時に、神様から与えられるのが、「慰められる」ということだということです。主イエスは「山上の説教」の中で、「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」と言われましたが、正に、悲しむことが慰められることにつながると言われているのであります。つまり、単に現状を悲しんでいるだけではなくて、そこに神様に対する悔い改めが起こることによって、神様の慰めに出会うことが出来るということであります。イスラエルの民のバビロン捕囚は、元を質せば、自分たちの不信仰の罪でありました。そこに気付かされて悔い改めに導かれた時に、「咎は償われ」、「罪のすべてに倍する報い」として、慰めを受けることが出来る、ということであります。
 
このことは、現代の<バビロン捕囚>についても、同じことが言えるのではないでしょうか。私たちが何か大きな力に捕えられていると感じ、閉塞感から脱出できない不安の中にあることを、時代の所為にしたり、為政者の所為にしたりして嘆き悲しみますが、自分たちに責任はないのか、自分が神様から離れてしまっているからではないのか、ということを思い直して見る必要があります。自分の罪を悲しむ必要があります。そこから悔い改めが生じ、神様の大きな慰めが見えて来るのではないでしょうか。神様は私たちのために、イエス・キリストをお送りくださって、「咎は償われた」ことを知らされる罪の赦しの御業を備えてくださっています。だから、「苦役の時は今や満ちた」のであり、「罪のすべてに倍する報い」を受けることが出来るのです。

2.荒れ野に道を
 次に、35節の呼びかけを聴きましょう。

 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/

わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
 険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
 主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。
 主の口がこう宣言される。

 ここでは、「荒れ野に道を備え」ることが呼びかけられています。この「道」とは、具体的にはバビロンからエルサレムに帰還するために通らねばならない砂漠地帯の道が念頭に置かれています。山を削り、谷を埋め、狭い道は拡幅しなければなりません。立ちはだかる様々の困難を乗り越えて、平らな道を築かなければなりません。しかし、ここで言われている「道」とは、実際の物理的な道というよりも、捕囚からの解放に伴う様々な障害を切り開いて行くことを比喩的に表わしているのでしょう。ここで、この呼びかけを注意して読むと、「主のために」、「わたしたちの神のために」と言われています。イスラエルの民のためというより、神のためなのです。そして、その目的は「主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る」ためなのであります。「肉なる者」とは<すべての人間>という意味です。

 私たちの人生はしばしば「旅」に喩えられます。困難な人生の旅路を進むために、道を切り開かなければなりません。私たちは、それなりに自分の道を切り開くための努力をいたします。しかし、ここで「荒れ野に道を備え」と言われている道は、自分の人生を豊かにする道、歩きやすくする道、自分の栄光に辿りつくための道ではありません。「主のため」の道なのであります。自分のための道を如何に立派に築いても、神様のための道が閉ざされたままであっては、何にもならないということです。

 それにしても、そのような道を私たちが備えることが出来るのでしょうか。私たちが道を開いてあげないと、神様は前に進めないということなのでしょうか。そうではありません。先程、2節で聴きましたように、「苦役の時は今や満ち」「咎は償われた」のであります。神様が、既に、最大の障害である私たちの罪の問題の解決の道を開いてくださったのであります。だから、私たちはただ、自分の心の扉を開けばよいだけにしてくださっているのであります。

 新約聖書では、ここで「荒れ野に道を備え」と「呼びかける声」と言われているのは洗礼者ヨハネのことだと受け止められています。ヨハネ福音書12223節を見ますと、ユダヤ人たちが洗礼者ヨハネに対して、「あなたは自分を何だと言うのですか」と問うと、ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」答えたと記されています。洗礼者ヨハネ自身が、自分のことをイザヤ書が言う「呼びかける声」だとしたのです。イザヤが語ったのは、直接的にはイスラエルの民がバビロン捕囚からエルサレムへ帰還する道を備えるようにとの声でありましたが、それは、救い主イエス・キリストをお迎えする道を備えるようにとの洗礼者ヨハネの声で成就したと受け取られているのです。

 イスラエルの民はこの後、ペリシャ王キュロスが現れて、バビロンを征服したことで、捕囚から解放されることになるのですが、それは罪の捕囚状態にある私たちをイエス・キリストによって解放されることを指し示していると受け取られているのであります。

 主イエスはご自分のことを、こう言っておられます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことは出来ない」(ヨハネ146)。主イエスが自ら十字架への道を歩むことによって、罪からの救いの道が開けました。こうして、私たちもまた、荒れ野を乗り越えて、神の許へ帰ることが出来るようにされたのであります。

3.神の言葉はとこしえに立つ

続いて、68節の呼びかけを聴きましょう。
  呼びかけよ、と声は言う。
 
 わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。

肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
この部分は預言者イザヤ自身が呼びかけることを求められています。通常、第2イザヤへの召命の記事だとされています。しかしこれは、イスラエルの民の一人ひとりへの召命の呼びかけであり、私たちへの呼びかけでもあります。
 
しかし、呼びかけられたイザヤは、「何と呼びかけたらよいのか」と問い返します。「肉なる者」とは、イスラエルの民もバビロニアを含むすべての民のことだと考えられますが、それらが「草に等しい」し、「野の花のようなもの」であって、一時的には華やかに咲き誇っていても、永続性はなく、やがて滅びてしまうものだと言うのであります。力を誇ったバビロンもやがて滅びるというのです。事実、バビロンもペルシャによって滅ぼされることになるのです。
 
そのように、「草は枯れ、花はしぼむ」のですが、神の言葉は決して枯れることも、しぼむこともなく、「とこしえに立つ」のであります。永遠に存続するということです。この世は過ぎ行きます。私たちの人生もやがて終わりが来ます。どのような華やかな人生であっても、どれほど楽しみや喜びに満ちた人生であっても、やがて枯れるし、しぼんで、ついには消え去るのであります。――そうであれば、生きている間に思いっきり楽しもうということになるのでしょうか。それは愚かなことであります。私たちの命が永遠につながる道が備えられています。それは永遠に存続する神の言葉を信頼して従う道であります。

4.声をあげよ

 9節以下には四つ目の呼びかけが語られています。
 高い山に登れ/良い知らせをシオンに伝える者よ。
 力を振るって声をあげよ。
 良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
 声をあげよ、恐れるな/ユダの町々に告げよ。
 
そして、9節の最後の行から11節までが呼びかけの内容であります。
 ここでは、高い山に登って、声をあげることが促されています。良い知らせを宣べ伝えるように呼びかけられているのであります。<枯れることもなく、しぼむこともない神の言葉>――それを伝える声をあげることが求められています。それは第2イザヤの使命であり、バビロン捕囚から解放される者の使命であり、現代の「バビロン捕囚」からの解放が告げられている私たちの使命であります。

結.主は羊飼いとして

では、その呼びかけの内容、伝えるべき神の言葉の内容、初めに言われていた「慰め」の内容を聴きましょう。9節最後の行以下です。
 
見よ、あなたたちの神/
 
見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される。

見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前に進む。
主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。
「見よ」と三回呼びかけられています。最初の「見よ」では、「あなたたちの神」を見ることが求められています。8節では「わたしたちの神」とも言われていました。神様は私たちを愛されるゆえに、御自身を私たちのものとされるのであります。どこか遠くで見守っておられるだけでなく、私たちと共にいたもうお方であります。
二番目の「見よ」では、力を帯びて統治される神であることが示されています。万物は神様の御支配の許にあります。かつてのバビロンでもなく、やがて興って来るペルシャでもなく、現代の諸々のバビロンでもなく、神様が御支配なさるのです。
三番目に「見よ」では、慈しみに満ちた愛の神の姿が示されています。「主のかち得られたもの」、「主の働きの実り」とは、直接的には捕囚から解放されるイスラエルの民のことでありますが、主イエスによって罪の奴隷から贖い出された私たちのことを指し示していると受け取ってよいでしょう。<多くの者が見捨てられるのではないか、落ちこぼれるのではないか>と、私たちは自分自身を見て、また私たちの回りを見ながら、不安を覚えています。しかし、主が選び取り給うた実が失われることはありません。11節には、主が「羊飼い」として描かれています。主イエスは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)とおっしゃってくださいました。そのお言葉のとおり、私たちの羊飼いとなって命を捨ててくださいました。そして私たちは救われました。確かに「神の言葉はとこしえに立つ」のであります。
祈りましょう。

祈  り

主イエスキリストにおいて私たちの神となってくださった父なる神様!み名を賛美いたします。
 
今日もイザヤを通して、とこしえに立つあなたの御言葉を賜りましたことを感謝いたします。
 
どうか、私たちもあなたの呼びかけに応えて、あなたが備えてくださった道を歩み、良い知らせを伝え、羊飼いなるあなたの許に集い、養われる者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2014年4月27日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書 40:1ー11
 説教題:「
神の言葉はとこしえに立つ」         説教リストに戻る