序.キリストの復活と私

先程は子供たちと一緒に、紙芝居によって、主イエスの十字架と復活の物語と、復活された主イエスがエマオに向かう弟子たちに現れられた物語を聞きました。
 イエス・キリストによる救いの御業の中心は、(先週の受難週の礼拝においてエフェソの信徒への手紙1314から聞きましたように、)人々の罪のために十字架にお架かりになることによって、罪を贖い、赦されたということであります。神様はこのキリストによる救いの御業によって、深い愛をお示しになりました。しかし、もし、そこで終わっていたならば、イエス・キリストは結局のところ、人間の罪の力に負けてしまったということに過ぎなくなってしまいます。そして、イエス・キリストのことが世界中に伝えられるということはなかったでしょうし、今日のように教会が世界中に建てられるということもなかったのではないかと思われます。主イエスが捕えられた時に逃げ去ってしまっていた弟子たちが、もう一度立ち上がることが出来たのは、先程の紙芝居で見ましたように、十字架にお架かりになって墓に納められた主イエスが、三日目の朝に墓から甦られ、その後、色々な場所で弟子たちに現れられたからであります。この、十字架で殺されたお方が復活されたという出来事がなければ、十字架による罪の贖いという、すばらしい救いの御業は成就しなかったのであります。
 ところで私たちは、主イエスの十字架の出来事については、深く心を動かされますし、その出来事が事実かどうかといったことを疑うことをしないのでありますが、主イエスの復活ということになると、俄かには信じることが出来なくて、弟子たちが見た幻のようなものではないかとか、後から作った神話か作り話のようなものとして捉えてしまって、私たちの心を動かす現実的な力を持たない、単なる不思議なお話しになってしまっているということがあるのではないでしょうか。
 
今日、与えられておりますエフェソの信徒への手紙の11523節は、小見出しに「パウロの祈り」とありますが、この手紙の差出人とされるパウロが、主イエスの復活後に各地に出来て来た教会の信徒のことを覚えつつ、祈っている内容が記されている箇所であります。
 
その中で、今日は復活節でありますので、19節から20節にかけて書かれているキリストの復活のことを中心に、<それが私たちにとってどう関わるのか>ということを聴き取りたいと思いますが、そこに至る部分についても少し触れてから、そこへ進みたいと思います。

1.心の目を開いてくださるように

まず、15節の言葉を聞きましょう。こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。――まず、感謝の言葉から始めています。何を感謝しているかというと、「あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していること」であります。教会の信徒たちのキリストに対する信仰と信徒相互間の愛について感謝しています。信徒たちの中に信仰と愛の芽生えがあることを喜んでいるのであります。
 次に、1718節には信徒たちに対する期待というか祈りが記されています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。――ここでは、信徒たちが神様を深く知ることが出来るように、「心の目が開かれる」ことを願っています。神様のことを深く知るには、よく勉強すればよいとか、肉体の目をもってよく観察すれば発見できるということではなくて、心の目が開かれる必要があります。心の目はどのようにして開かれるのでしょう。「御父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与え」と言っておりますように、神様から聖霊を送っていただかないと、心の目は開かれません。ですから、神様に「心の目を開いてくださるように」とお祈りをしているわけです。
 
ではその祈りの目的は何でしょうか。心の目が開かれると何が見えて来るのでしょうか。一つは、「神様の招き」によって与えられる「希望」であります。人間が心に描く希望ではありません。神様がお招きくださる、それに応えることによって見えてくる希望であります。二つ目は、「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせる」と言っていますが、信徒たちが受け継ぐものとは「神の国(天国)」と言い換えてよいでしょう。神の国というのは、人間が思い描く理想の国のことではなくて、神様が御支配なさる国であります。その神の国がどれほど豊かで栄光に輝いているかということが、心の目が開かれることによって見えて来る、ということです。
 心の目が開かれることによって見えて来るものは、それだけではありません。このあと、19節以下に、今日の復活節に是非聴き取りたい三つ目のもののことが書かれています。

2.復活は本当か――トマスの疑い

 1920節の言葉を聴きましょう。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、と語られています。心の目が開かれることによって見えて来る三つ目のものは、「神の力」であります。そして、その神の力がキリストに働いて、死者の中から復活なさったのだ、と言っております。
 
しかし、冒頭で触れましたように、私たちは死者の中からの復活ということを素直に信じることができません。証拠はあるのか、科学的な根拠はあるのか、ということを問いたくなるのであります。
 
今、小保方さんが発見したというSTAP細胞というのが本当にあるのかどうかということが話題になっています。「NATURE」誌に掲載された論文に改ざんや捏造があるのではないかということで、STAP細胞自体の存在に疑問が投げかけられているわけです。これを立証するには、誰もが納得できる科学的なデーターの積み重ねが必要であります。――主イエスの復活ということについても、そういう科学的な根拠を問いたくなるのであります。聖書の中にはそういう根拠を求めた人のことがちゃんと記されています。それは主イエスの弟子の一人であるトマスという人です。そのことはヨハネ福音書の2024節以下に記されています。主イエスが復活された日の夕方に弟子たちが身を隠していた時に、復活の主イエスが現れて、十字架に架かられた時に受けた手と脇の傷をお見せになったので、そこにおられるのは幽霊でも幻でもなく、まぎれもなく主イエスそのものであることを知って、弟子たちは復活が本当であると分かったのであります。ところが、トマスはその場にいなかったので、後からその話を聞いても信じられなくて、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ2025)と言いました。いわば、科学的な根拠、目に見える証拠を求めたのであります。それから一週間が経って、また弟子たちが集まっていた時に、主イエスがそこに来られて、トマスに向かって、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われたのであります。主イエスは信じられないトマスが何とか信じられるようになることを目指して、やって来られたのであります。ここに主イエスの並々ならない熱意というか、深い愛があります。トマスはこの主イエスの愛が分かったのでしょう。すぐに「わたしの主、わたしの神よ」と叫んでいます。彼は、実際には、主イエスの傷跡には触れませんでした。しかし、その必要を感じなかったのでしょう。復活の主がそこにおられ、その主の愛に触れるだけで、信じることが出来ました。そのあと、主イエスは「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」とおっしゃいました。この言葉は、トマスに向かって言われたというよりも、私たちに向けて言われた言葉であります。肉眼で見るよりも、心の目で見ることの方が、ずっと確かなことがある、ということであります。トマスはこの時、科学的な証拠よりも、心の目で主イエスの愛の力を見たのであります。

2.神の愛の力

 エフェソの120節に戻りますが、そこには「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ」とありました。この「神の力」というのは、単なるパワーではありません。人を生き返らせる奇跡的な力のことではありません。神様の愛の力であります。先週は、主イエスが十字架の血によって私たちを贖い、罪を赦されたという愛の御業について聴きましたが、そこに愛の力があります。この愛の力が、キリストに働いたので死者の中から復活されたのであります。24節以下を御覧ください。ここは6月に取り上げる予定の所ですが、先取りして読みます。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。46節)――このように、私たちは十字架の主イエスに働いている愛の力に気づくことによって、(というよりも、)愛の力に圧倒されることによって、心の目が開かれ、見ないで信じる者とされ、救いの恵みに与るのであります。これはSTAP細胞のように、科学の力で証明することではなくて、聖霊において働く愛の力によって信じるようになるものであります。

3.キリストの体――愛による支配

21節以下には、復活されたキリストによる御支配のことが述べられています。もう一度20節から読みます。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。――キリストが死者の中から復活されたということは、罪が支配しているこの世に勝利されたということでありますが、それは単に宗教的な世界だけの支配、あるいは心の中の世界だけを支配されるということではなくて、「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き」と言われていますとように、万物を支配下に治められたということであります。自然のすべても、人間が造り出した物や文化や国家などの政治体制も含めて、すべてがキリストの支配の下にある、ということであります。それはもちろん、武力による支配ではありません。愛による支配であります。罪という世の中を混乱させる最大の障害物を、自らの命をもって贖い取って、勝利されたからであります。しかもその御支配は、今の世ばかりではなく、来たるべき世にも続くと言われています。私たちが信仰によって導かれた神の国の御支配は、決して一時的なものではなくて永遠であるということです。
 しかしそのことは、未だすべての人に明らかになっているわけではありません。そこに、教会が果たすべき役割があります。教会は宣教の業を通して、キリストの御支配を世界に広める役割を担っています。その場合、教会はキリストの御支配とは別のところで働くのでないことは言うまでもありません。2223節では、キリストと教会の関係が述べられています。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。――キリストと教会の関係が頭と体という関係になぞらえられています。世界の教会は全体として一つのキリストの体であります。私たちの教会はその一部であるし、私たち一人一人も、その一部を構成するわけです。一つの体ですから、血の通い合う生きた関係で結びあわされていて、生きて働くわけです。そして体全体に指令を与え、正しく働かすのは頭であるキリストであります。こうして教会は、「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」なのであります。現実の教会には弱さがあります。傷を負っている部分があります。勝手に動き出そうとする部分もあるかもしれません。しかし、キリストが頭であるかぎり、キリストの愛が、そしてキリストの霊が満ちているので、終わりの日の完成に向けて、この教会を通して、救いの御業が広がって行くのであります。死者の中から復活されたキリストの命と愛の力は、こうして今も私たちに働き続けているのであります。
 キリストの復活を賛美し、その命に私たちも与ることが出来るよう、祈りましょう。

祈  り

教会の頭なるイエス・キリストの父なる神様!
 
復活のキリストが今も、またこれからも私たちの中に生きて働いておられ、私たちの弱さや過ちにもかかわらず、御国の完成に向けて御業を進められていることを覚えて、み名を賛美いたします。
 
どうか、心の目を絶えず開いていることが出来ますように。そして、あなたの愛の力を悟ることが出来て、キリストの復活の命に満たされつつ、終わりの日を待ち望む者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2014年4月20日  山本 清牧師 

 聖  書:エエfソの信徒への手紙 1:15ー23
 説教題:「
死者の中からの復活」         説教リストに戻る