序.聖なる者たちへ――私たちに宛てられた手紙

4月に入りまして、福音書についてはマルコ福音書から御言葉を聴きはじめましたが、書簡(手紙)についてはエフェソの信徒への手紙を読んで行くことにしております。
 この手紙を書いたのは、1節にあるように、パウロだと記されていますが、多くの学者は、文体などがパウロの手紙とは異なるので、パウロの死後、パウロの名を使って書かれたものであろうと推測しています。そうであっても、決して価値が下がるものではありません。
 
宛先は「エフェソにいる聖なる者たち」と書かれています。これも、「エフェソにいる」という言葉が抜けている写本があるし、内容的にもエフェソの教会だけを対象に書かれたものではないので、方々の教会で回し読みされた文書ではないかと考えられています。「聖なる者たち」というのは、特別な聖人のような人たちのことではありません。これは元々旧約聖書で使われていた言葉で、〈神によって清め分けられた者〉という意味で、イスラエルの民のことを指していました。しかし、ここでは、「キリスト・イエスを信じる人たちへ」と言い直されていますように、キリスト者一般のことを指していると受け取ってよいのであります。そういうことですから、この手紙の内容というのは、どこの教会の信者が読んでも有益なものでありましたし、現代の教会の私たちに神様から届いたメッセージとして聴いてもよい内容なのであります。そういうわけで、原則として毎月1回の割合で、1年かけて読んで参りたいと考えています。

1.神は、キリストにおいて、霊的に祝福

 さて12節の挨拶が終わって、3節から14節までは、この手紙の序文(導入部)に当たるところですが、神様を賛美する一つの頌栄のようなもので、原文では全体が一つの文章でつながっています。しかし、内容的には大変豊かな内容で、先程読んでいただいた時にお気づきかもしれませんが、天地創造の前のことから、イエス・キリストの贖いの御業、そして、教会が出来てからの聖霊の働きに至るまでの神様の遠大な御計画に関することが述べられていますし、神学的に見れば、父なる神と御子キリスト、それに聖霊の働きという三位一体の神様の働きが記されているのであります。そういう豊かな内容を含んでいる箇所ですから、ある人はこの箇所で7回の説教をしております。そこを1回の説教でお話ししようとするのですから、お話が散漫になって焦点が掴みにくくなる恐れがあります。
 
そこで、今日は受難節最後の主日でもありますので、7節の十字架の御業に関する言葉、即ち、わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました、という言葉を中心にして、その他の記述をこれとの関係で捉えて参りたいと思います。























 まず、3節の前半を読みますと、わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように、とあります。これは神様に対する賛美ですね。先程、今日の箇所は全体が頌栄のようなものだと申しましたが、最初から賛美で始まっているわけです。そして最後の14節の後半を見ると、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです、となっていまして、私たちは結局のところ、神様の栄光を賛美することになる、と言って締め括っています。ですから、最初と最後に賛美のことが書かれていて、その間に、賛美すべき内容が述べられている、という構造になっているわけです。
 
考えてみますと、私たちがこうして礼拝をいたしますのは、神様の前にぬかずいて神様を賛美するということです。昨年秋の修養会では「喜びの礼拝」というテーマで多田先生に講演をしていただきましたが、そこで教えられた大切なことの一つは、礼拝というのは、私たちが喜びを与えられるというよりも、神様に喜んでいただく場である、ということでした。私たちが礼拝に来て、慰められるとか癒されるとか喜びに満たされるということは、もちろんあるのですが、そこに神様を賛美して神様が喜ばれるということがなければ、礼拝にはならないということです。
 キリスト者の人生というのも、神様を賛美する人生であります。神様から自分たちに都合のよいもの、自分たちの喜びを満たすもの、自分たちの名誉が高まるものなど、いわゆる御利益をいただくのがキリスト者の人生ではなくて、神様の御栄光をほめたえるのが本来の目標であって、そこに本当の平安と喜びがあるということであります。
 
今見ましたように、今日の箇所は、初めと終わりが神様を賛美することで挟まれているのですが、見落としてならないのは、そこに既にイエス・キリストがからんでいるということです。3節の前半の言葉の中には、「主イエス・キリストの父である神」という言い方があります。天地を創造され、今も世界を御支配なさっている父なる神様ですが、その方は、イエス・キリストの父なる神様であります。父なる神様は、本来は私たちが直接向き合ったり、言葉を交わしたり出来るお方ではありません。人間の一人として地上に来てくださったイエス・キリストが間に立ってくださることによってはじめて、関係を持つことができるお方です。だから、「主イエス・キリストの父である神」と呼ばざるを得ないわけです。14節の後半には、イエス・キリストという名前はありませんが、「わたしたちは贖われて神のものとなり」という言葉が入っています。キリストが父なる神様と私たちの間に入って、神様に対する私たちの罪を十字架にかかって贖ってくださったので、私たちは「神のもの」となることが出来たのです。ですから、キリスト抜きには神様を賛美することは出来ないのです。そういう意味で、神様を礼拝し、賛美する私たちの有り様・生き方というものは、イエス・キリスト抜きにはあり得ないということであります。
 
そのことを簡潔に述べているのが、3節の後半です。こう言っております。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。ここで「霊的な」と言われているのは、「物質的」に対する「精神的」というような意味ではなくて、「神様の力による」というような意味で、後でも出て来ますが、聖霊の働き、聖霊の仲介によって与えられる、精神的、物質的なあらゆる祝福のことを指しています。そして、ここでも見落としてならないのは、「キリストにおいて」という言葉が入っていることです。「あらゆる霊的な祝福」も、地上に来てくださって十字架の贖いの御業をなしてくださったキリストにおいて、現実のものとなった、ということであります。3節から14節までの間で、この「キリストにおいて」、「キリストによって」、あるいは「御子によって」という言葉が全部で10回出てきます。ですから、神様を賛美する頌栄を行うためには、どうしてもキリストを欠かすことが出来ない、ということであります。
 

2.天地創造の前に、キリストにおいて選び

 次に、4節から6節までの言葉を聴きましょう。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のまま前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。

 ここでは神様による「選び」の恵みが語られています。「天地創造の前に、・・・お選びになった」という表現には違和感があるかもしれません。創世記の創造物語では天と地や動植物など被造物を造られた後の、一番最後に人間が造られたことになっているのに、それよりも前に人間の選びがあるのは、おかしいと思われるかもしれません。しかし筆者は、人間の選びが神様の世界創造の御業の前に既に起こっていたと語るのです。ということは、世界創造の御業も人間に対する特別な思いをもって行われたということであります。この人間に対する選びが「キリストにおいて」なされた、と言われていることに注目したいと思います。キリストというのは新約聖書に登場するお方であって、旧約聖書の中では、メシアの待望という形では現れるけれども、キリストの働きそのものは新約聖書に属することだと思いがちであります。しかし、よく考えると、ヨハネ福音書はその冒頭で、「初めに言があった。言は神と共にあった」と述べていて、この「言」というのはキリストのことであります。即ち、キリストが世界の初めからおられた、と告白しているのであります。なぜキリストがおられたかと言うと、神様が人間を創る前から愛しておられて、神様と人間の間を執り成すお方としてキリストがおられた、ということです。選びの目的は、「御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと」と書かれています。神様の相手として相応しい者とするために、最初からキリストの執り成しの愛のお働きが用意されていた、ということです。そして5節に、「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」とあります。「神の子」というのはイエス・キリストに対する言い方でありますが、それをすべての選ばれた者たち、即ち私たちを「神の子」としてくださる、ということです。こうして私たちが御子イエス・キリストによって神の子に相応しい者とされるという「輝かしい恵みをわたしたちがたたえるため」だというのです。

3.血によって贖われ、罪を赦され

続いて7節は、そのキリストのお働きが具体的に述べられています。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。「血によって贖われ」というのは、明らかに十字架の御業のことであります。イエス・キリストのお働きの中心は、この十字架の贖いによる罪の赦しということであります。キリスト教と他の宗教との違いがここにあります。神様は人間が頭の中で考え出したものではありません。また、天の上にいて、あれをせよ、これはしてはならない、と指図だけするお方でもありません。御子イエス・キリストによって、具体的に罪という問題の解決に当たられるお方です。このお働きが神様と人間の関係を支えているわけですが、それは、〈人間を造ってみたが、悪い事ばかりするので、止むを得ず御子を地上に遣わして、罪の贖いとして十字架につけた〉、というようなことではなくて、天地創造の前からの神様の愛の御心だったということです。神様は人間をお造りになるのに、ロボットのように、ただ神様の言いなりになるものとして造られるのではなく、自由に神様と向き合う存在として造られました。しかし、そこには罪が入り込む可能性があります。それ故に、最初から御子イエス・キリストにおいて罪を赦す用意までされていたということです。そこに、神様の計り知れない豊かな恵みがある、ということです。

4.秘められた計画をキリストにおいて

 8節以降は、このキリストにおいて具体化された恵み(=罪の赦し)について、キリストが地上に来られて以降、どのようにして私たち一人一人の人間にとって確かなものとされていくのか、ということが語られています。それは言い換えれば、キリストが地上の歩みの中でなされた〈宣教の御業〉とペンテコステに聖霊が弟子たちに降った以降の〈教会の働き〉ということであります。

(1)秘められた計画

 まず、89節で、神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです、と述べられています。「秘められた計画」というのは、神様の計り知ることの出来ない御計画でありますが、それがイエス・キリストが地上に来られた以降、一人一人の人間の知恵と理解に向けて開かれたということであります。イエス・キリストはあちこちを巡り歩いて、神様の御言葉を伝え、癒しや奇跡の業を通して、神様の御心を人々に伝えられました。そして、やがて来るべき終わりの日のことも教えられました。それらは単なる教えではありませんでした。御自身の身を持って神様の御心を伝えられました。そこには人々の重荷を担い、罪を背負うという愛の御心が示されました。そして、遂に、十字架という形で罪の赦しという神様の御心を、身を持ってお示しになったのでありました。

(2)キリストのもとに一つにまとめられる

 次の10節は、こう述べられています。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。――これは主イエスのもとに弟子たちが集められたこと、そして、主イエスが天に昇られて以降には教会が形成されたことを言っていると受け取ってよいと思います。「頭であるキリストのもとに一つにまとめられる」と言われています。キリストを頭とする教会の形成ということです。私たちはキリストを頭とする教会の枝として、キリストのもとに集められて、キリストの救いの御業(罪の赦しの御業)をこの地上のあらゆる所で行なって行くという壮大なパノラマがここに示されているのであります。「天にあるものも地にあるものも」とあるのは、天上の教会と地上の教会という意味でしょう。既に天に召されたキリスト者と今地上に生きているキリスト者の双方を含めた公同の教会が、キリストのもとにまとめられているのであります。そしてその教会は最終的には、終末の時に一つとされるのであります。

(3)約束されたものの相続人

 1112節に参ります。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続人とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。――ここでは、私たちキリスト者のことが「約束されたものの相続人」と呼ばれています。それは、7節で言われていた「御子において、その血によって贖われ、罪を赦され」て救われた私たちのことであります。「相続人」と言われていますが、何を受け継ぐのでしょうか。それはこの後14節で出て来ますように、「御国を受け継ぐ」ということです。受け継いだ御国で私たちは何をするのか、――それは「神の栄光をたたえる」ということです。これが最終目標でありますが、今私たちはそれを先取りする形で、このような礼拝で神様の栄光を讃えて、予行演習をしているわけです。

(4)約束された聖霊で証印

 13節と14節の後半には、御言葉と聖霊のことが述べられています。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、と記されています。教会は、ここまでに述べられて来たように、神の言葉として来られたイエス・キリストの福音を伝えます。その福音(真理の言葉)は、救い(罪の赦し)をもたらします。今や、人が救われる手段は、この罪の赦しの福音を聞いて受け入れるということによって与えられます。「証印を押された」というのは、家畜に焼印を押して所有を明らかにするとか、郵便物が間違いなく送り届けられるために封印されることからの譬えであります。つまり、救いの確かさが聖霊によって、焼印を押すように保証されるということです。私たちの救いは、信じる私たちの側の確かさによって保たれるのではなくて、神様によって押された聖霊によって保証されるということであります。

結.贖われて、神の栄光をたたえる

以上、今日は、天地創造の前からの選びから始まり、御子イエス・キリストによる贖いの御業、それに続くキリストを頭とする教会の働きと、御国を受け継ぐことを保証する聖霊の働きまでの壮大なパノラマを見て来たのであります。そしてそれらのすべてが目指すものは、最初にもありましたし、最後にも書かれていますように、神の栄光をたたえるということ、神様を礼拝し賛美するということであります。
 
ところで、それを行う主体は誰かと言えば、「わたしたち」だと記されて来たのであります。ここには捨てられる人、神様を賛美する礼拝に加われない人のことは書かれていません。なぜでしょうか。それは最後の言葉で言えば、「わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになる」からです。神様の遠大な御計画の中心に、7節にあるように「御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」という御業があるからであります。私たちは一人残らず、愛に満ちた神様のこの壮大な救いの御計画に招かれているのであります。
 祈りましょう。そして心から主をほめたたえましょう!

祈  り

贖い主イエス・キリストの父なる神様!
 
御子イエス・キリストの御受難を覚え、あなたの壮大な、愛に満ちた救いの御計画に目を開かれて、御名を賛美いたします。
 
どうか、ここに招かれております者はもちろん、様々な理由でここにいない方々も、一人残らず、このあなたの御計画に気づくことが出来ますように。そして、キリストのもとに一つにまとめられて、心から御栄光を賛美することが出来ますように。どうか、聖霊が豊かに働いてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2014年4月13日  山本 清牧師 

 聖  書:エエfソの信徒への手紙 1:1ー14
 説教題:「
贖われ、罪を赦され」         説教リストに戻る