「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたがたに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」                          (マルコによる福音書178 

 マルコ福音書が記す「福音のはじめ」において、私たちは洗礼者ヨハネとイエス・キリストに出会う。
 洗礼者ヨハネの出現は、旧約において「荒れ野で叫ぶ者の声がする」と預言されていたことの成就である。福音は、人間の知恵や文化が幅をきかせる所にではなく、神に頼るしかない「荒れ野」から始まる。洗礼者ヨハネがしたことは、荒れ野で「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」を授けることであった。「悔い改め」とは、神の方に向き直ることである。自分たちは正しい生き方をしているから神の方を向いていると思っていたユダヤ人たちが、ヨハネによって罪を指摘され、悔い改めのしるしとして洗礼を受けた。洗礼とは、水に浸けられて、死ぬことを表わす。自分たちが神の前に死すべき者であることを知るのである。だが、そこにはまだ罪からの救いはない。
 ところが、洗礼者ヨハネは来たるべき主イエスについて、標記のように、「聖霊で洗礼をお授けになる」お方であると語った。聖霊による洗礼とはどのような洗礼か。主イエスがまずヨハネのところに来て、洗礼を受けられた。罪のない主イエスが悔い改めの洗礼を受ける必要はない筈だ。しかし、マタイ福音書が記すように、主イエスは「今は、正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしい」(マタイ315)と言われた。「正しいこと」とは神の御心にかなったことという意味である。また、罪深い人々を「我々」と呼んで、御自分を罪人の一人とされた。罪のない主イエスが洗礼を受けられたことは、人々の罪を背負って十字架に架かられる御受難の救いの御業を表わしている。主が洗礼を受けられると、「神の霊」即ち、聖霊が天から降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声が聞こえた。こうして主イエスは、私たちが聖霊を受けて洗礼を授けられることの原型となってくださった。このようにして私たちが罪から救われる道が開かれたのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2014年4月6日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 1:1−11 
 説教題:「
悔い改めの洗礼」 説教リストに戻る