序.受難節に福音の初め?

 今年に入ってからヨハネ福音書の18章以下の、主イエスの御受難のことが書かれている部分から御言葉を聴いて参りましたが、19章の終わりの御遺体の埋葬のところまで来まして、後は復活の箇所で、そこについては以前に取り上げていますので、ヨハネ福音書の講解説教は全部終わったことになります。そこで、4月からの福音書の講解説教はマルコ福音書を取り上げることにさせていただきました。約1年後の来年の復活節のあとまでかけて、全部を読み終えたいと思っております。
 
今日は、マルコ福音書の最初の部分で、1節には、神の子イエス・キリストの福音の初め、と書かれています。これは、マルコ福音書の最初の序文に当たる部分につけられた標題のようなものです。マルコ福音書全体が「神の子イエス・キリストの福音」であって、その最初の序文にあたる部分なので、「初め」と言っているわけです。その「初め」と言われる序文がどこまでなのか、ヨハネの活動を記した8節までなのか、荒れ野での誘惑の所まで含む13節までなのかなど、議論のあるところですが、今日は主イエスが洗礼を受けられた11節までを取り上げることにさせていただきました。
 
ところで、今日はレント(受難節)の第5主日でありまして、受難節の真っ只中であります。なぜそんな時に福音書の最初の部分をテキストにしたのか、疑問に思われた方もおられたかもしれません。今日からマルコ福音書を始めたのは、年度が替わってキリの良いところで、始めようとしただけで、受難節との関係をあまり深く考えていなかったのが正直なところであります。しかし、今日の説教の準備をする中で気付いたことは、この箇所に書かれているヨハネが行っていた悔い改めの洗礼のことと、主イエスがそのヨハネから洗礼を受けられた悔い改めの洗礼というのは、主イエスの御受難と深い関係があるということでした。
 
そのことについては、後程詳しく述べたいと思いますが、皆様は、今日の箇所が主イエスの御受難とどう関係があるのかということを考えながら、今日の説教を聞いていただきたいと思います。
 
ところで、「福音」という言葉は、元々、<戦いに勝利したことの知らせ>という意味を持ちますが、そこから、<良い知らせ><喜びの知らせ>という意味で使われるようになりました。しかし、聖書で「福音」と言われる場合には、単なる<良い知らせ>ではありません。ここに書かれていますように、「神の子イエス・キリストの福音」であります。しかもそれは、<イエス・キリストが宣ベ伝えた福音><主イエスが語られた教えや説教>という意味だけではなくて、主イエスは生きた人格としての御自身を語られたのでありますから、福音を聞くということは、福音の内容であるイエス・キリスト御自身に出会うということでもあるということです。これから「マルコによる福音書」に記されていることを聞いて行くわけですが、それはマルコが伝えた主イエスのなさったこと、話されたことを聞くということなのですが、それは主イエスの伝記を知るとか、主イエスの思想を学ぶということではなくて、今も生きて働いておられる主イエスという方に出会うということなのであります。

1.荒れ野で叫ぶ者の声

 さて、マルコ福音書には他の福音書と違って、主イエスの誕生の物語や幼少の頃のことについての記述がなくて、いきなり洗礼者ヨハネのことから書き始めています。なぜなのか。その理由はよく分かりません。誕生物語や幼少期の出来事が福音の内容として価値が低いと考えて省いたとは思えません。マルコ福音書は福音書の中では章の数もページ数も最も少なく、全般に記述が簡潔であります。どうしても欠かすことが出来ない記事だけを集めたということかもしれません。その最初に記すのが洗礼者ヨハネのことであります。
 
ヨハネのことを記すに当たって、まず、旧約聖書の引用から始めています。2節の初めに、預言者イザヤの書にこう書いてある、と記してありますが、ここに引用されているのはイザヤ書の言葉だけではありませんし、少し変えている所もあります。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし」は出エジプト記2320節の引用ですし、「あなたの道を準備させよう」はマラキ書31節を少し変えたもので、3節の「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」だけがイザヤ書からの引用です。このように、マルコの記述には少し正確さを欠くところがありますが、それは間違いと言うよりも、実際に起こった事実から旧約を再解釈しているのです。ここでマルコが伝えようとする大切なことは、これから書き記すヨハネのこと、更には主イエスのことを記す福音が、旧約聖書の全体を通して語られ、待たれて来たことの成就であるということです。神の救いの御業がここから大きく前進することになる、ということを告げたいのであります。
 
ここに記された旧約聖書の預言の中で、イザヤ書403節から引用した「荒れ野で叫ぶ者の声がする・・・」と言われていることについてだけ触れておきたいと思います。イザヤ書40章については427日の説教で取り上げる予定にしておりますが、ここはバビロンで捕囚になっていたユダの民の解放の喜びを告げている箇所であります。「荒れ野」とは、バビロンからエルサレムに帰るために通らねばならない砂漠地帯を念頭に置いた言葉だとも考えられますし、かつてエジプトの奴隷状態から解放されてカナンの地へ向かう途中の「荒れ野」での体験と重ねられた言葉でもあります。「荒れ野」とは何もない所、不毛の地であって、神様に頼るしかない場所であります。「叫ぶ者の声」とは誰の声でしょうか。天使の声とも預言者の声とも考えられますが、いずれにしろ神様の御心を示す声であります。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と命じられています。この場合の「主」とは神様のことであります。捕囚の間には、神様のことが忘れられていたかもしれません。しかし、もう一度神様と共に歩む道を、「荒れ野」に整えよと言われているのであります。このイザヤの言葉をマルコは洗礼者ヨハネの登場と結びつけて受け取っているのであります。洗礼者ヨハネが荒れ野に現れました。ヨハネはエルサレムの町の中で活動したのではありません。「荒れ野」でありました。人間の知恵や文化が幅をきかせているところではありません。神殿の中でもありませんでした。当時の宗教指導者たちが牛耳っていた場所からは自由な「荒れ野」に、「主の道」即ち、主イエス・キリストが登場される道を整えたのであります。
 
このように、福音は「荒れ野」から始まります。人間が造り出したものがない所、神様に頼るしかない所から始まります。そこに響き渡る神様の声に耳を傾けることから、新しい歩みが始まります。ですから、私たちも「荒れ野」に赴きたいと思います。そして裸の私になって、福音の真理に耳を傾けたいと思います。

2.悔い改めの洗礼

さて、ヨハネが荒れ野に現れてしたことは、4節にあるように、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えることでありました。「洗礼」というのは、元々は唯一の神様を知らなかった異邦人が唯一の神様を信じる者へと改宗するときに授けられたものでした。ですから、ユダヤ人は神の民として洗礼を受ける必要がなかったのです。ところが、ヨハネはユダヤ人にも悔い改めの洗礼を受けるように勧めたのです。「悔い改め」とは方向転換することです。神様の方に背を向けていた者が、神様の方に向き直ることです。ユダヤ人たちの多くは、自分たちは律法を守っているので、神様の方を向いていると思っておりました。しかし、ヨハネは彼らが神様の方を向いていないと指摘して、激しく悔い改めを迫ったのであります。5節を見ますと、ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた、と書かれています。「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆」とあります。この「全」とか「皆」というのは、文字通り「全員」という意味ではなくて、広くユダヤ中のあらゆる階層の人々が普く洗礼を受けに来たということで、その普遍性を表現していると受け取ったらよいでしょう。それまでは異邦人だけが受ければよいと考えられていた洗礼でしたが、ヨハネが現れることによって、誰でもが神様の前に罪を犯していることを指摘したので、その罪を告白して神様の前に悔い改めて、そのしるしとして洗礼を受けたということです。これはユダヤ人にとって大きな変化でした。ここに、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」というヨハネの役割がありました。
 
ここで注意して読まなければならない点があります。「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と記されていますが、これは、ヨハネの授けた洗礼によって罪が赦されたということではないということです。ここで、「罪の赦しを得させる」とあるのは、「罪の赦しに至らせる」とか「罪の赦しを目指す」という意味であって、ヨハネの洗礼によって直ちに罪が赦されたということではありません。ヨハネの洗礼は悔い改めのしるしではありますが、罪の赦しそのものではありません。罪の赦しは主イエスの出現を待たねばなりませんでした。6節にはヨハネの服装と食事のことが記されています。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。これは当時のファリサイ派の人たちの姿とは大違いです。この姿は、旧約の預言者エリヤを思わせる姿であります。マラキ書の323節に、「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と預言されていました。そのエリヤの姿をとることによって、ヨハネは旧約に預言されていたことが始まったことを表わそうとしたのでしょう。

3.聖霊で洗礼

 しかし、ヨハネの役割はそこまでであります。ヨハネ自身もそのことは心得ていて、7節でこう述べております。彼はこう宣ベ伝えた。「わたしより優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」――旅人を迎えるとき、靴のひもを解き、その足を洗う役目をするのは、その家の奴隷の仕事でありました。わたしの後に来る方、つまり救い主と自分を比べたら、自分は客の履物のひもを解く奴隷の値打ちもない、と言っているのであります。比べようもない方、自分をはるかに超えた方が来られるということであります。そして、両者の決定的な違いは、ヨハネがヨルダン川の水に浸けて洗礼を授けたのに対して、その方は聖霊で洗礼をお授けになるということです。先ほど、ヨハネがしたことは「罪の赦しに至らせる(目指す)悔い改めの洗礼」であって、罪の赦しそのものではない、ということを申しましたが、あとから来る方、すなわちイエス・キリストこそは、「罪の赦しそのもの」を与える聖霊の洗礼を授けるお方である、ということです。ヨハネとイエス・キリストの違いは、水と聖霊の違いです。では、聖霊の洗礼とは何でしょうか。そのことがはっきりするのが、9節以下に書かれている、主イエスが洗礼を受けられたという出来事であります。

4.主イエスの受洗

9節には、そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた、と簡潔に書かれています。ヨハネの洗礼とは、何度も申しておりますように、罪を告白し罪を悔い改めたしるしとして水に浸けて授けられるものであります。その洗礼をユダヤの全地方からやって来た人々と同じように受けられたのです。
 マタイ福音書によれば、最初、ヨハネは驚いて、洗礼を思いとどまらせようとして、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(マタイ314)と言っております。この時点でヨハネが主イエスのことをどれだけ知っていたのか分かりませんが、少なくとも罪のないお方が悔い改めの洗礼を受ける必要はないと考えたのでしょう。それに対して主イエスは、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とおっしゃいました。「正しいこと」というのは、<神様の御心にかなったこと>という意味でしょう。罪のないお方が悔い改めの洗礼を受けることが、神様の御心だ、ということです。そこには罪のない方が、他の人の罪をも担われるという意味が含まれているのではないでしょうか。「我々にふさわしいことです」ともおっしゃいました。これは、神の民である我々にふさわしい、という意味でしょうが、確かに主イエスもユダヤ人の一員という意味では「我々」なのですが、それだけの意味ではないでしょう。そこには、罪深い人々を我々と呼んで、罪人の一人となられた、ということが込められているのではないでしょうか。だから、「我々にふさわしいこと」なのであります。洗礼とは、水に浸けられて、死ぬことを表わしています。主イエスは洗礼を受けられることによって、これから始まる主イエスの人生が、罪ある人々のために罪を負って、死に至る人生であることを、洗礼を受けるということでお示しになったのではないでしょうか。言い換えると、罪のない主イエスがヨハネから水の洗礼を受けられたのは、主イエスが人々の罪を負って十字架に架かられた、その御受難、その救いの御業を表わしているということであります。だから、それは神の御心にかなった相応しいことなのであります。主イエスの公の生涯は、この時から、私たちの罪を負う十字架の生涯として始められたのであります。受難節に、主イエスの受洗の箇所を聴く意味が、ここにあったというわけであります。
 主イエスが洗礼を受けられて、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった、とあります。「水の中から上がる」というのは、死を越えて新しく生まれるということを象徴しています。新しい命の働きが始まるのです。「天が裂けて」というのは、天と地上にいる私たちとを隔てていたものが裂ける、ということです。天と私たちとの間を隔てるのは、私たち人間の罪であります。その隔てが、天の側から(神様の側から)裂かれたということです。神様が人間の罪の問題の解決に乗り出されたということです。「霊が鳩のように…降った」とは、聖霊なる神様御自身が、生き生きと働き始められたということです。聖霊はこうして、まず主イエスに降りました。この聖霊は、やがてペンテコステに弟子たちの上に降って、教会が誕生することになります。この時主イエスに聖霊が降ったことは、私たちが、水ではなくて聖霊を受けて洗礼を授けられることの原型になってくださったということであります。私たちが罪からの救いに与るのは、この時、神様の御心によって、主イエスに聖霊が降ったところから、十字架の御業が始まったということです。私たちの救いの原点がここにあるということです。

結.愛する神の子

11節によると、すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた、と言います。この天からの声は、詩編第2編にある、「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ」(詩編27)という言葉を反映していて、王の即位の言葉でもあるとされます。ここから始まる主イエスの十字架の生涯が、神様の御心に適ったものであり、その生涯こそが待望の救い主としての王となられたということなのであります。この時天から聞こえたのと同じ言葉が、いよいよ十字架に向かわれようとなさる、あの「山上の変貌」の時にも聞こえました。
 私たちと神様との関係は、洗礼者ヨハネが告げたように、悔い改め(即ち、方向転換)を要する罪の状態にあります。ヨハネが水の洗礼で示したように、死すべき状態であります。その状態は、水による洗礼だけでは解消されません。主イエスは神様の御心を受けて(聖霊を受けて)、罪人の一人として十字架の道へと進まれました。そこに私たちの罪からの救いがあります。私たちも聖霊による洗礼を受けて、神様との関係を取り戻す道が開かれたのであります。そうして私たちもまた、神の愛する子に加えられるのであります。これが、今日、受難節第5主日に天から聞こえて来る喜びの福音であります。
 祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 受難節第5の主日に、洗礼者ヨハネを通して、私たちが悔い改めを要する死すべき者であることを知らされ、主イエスが洗礼を受けられたことを通して、あなたが私たちに救いの道を開いてくださったことを覚えることが出来ましたことを感謝いたします。
 私たちは、このような恵みの道を備えられているにもかかわらず、なおも、あなたの御心を忘れ、勝手な道を歩んでしまう者であることを告白いたします。どうか、聖霊の豊かな導きを受けて、神の子とされた恵みに相応しい歩みをする者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2014年4月6日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書 1:1ー11
 説教題:「
悔い改めの洗礼」         説教リストに戻る