序.再臨の待望が薄れる中で

今日はレント(受難節)4主日の礼拝を守っております。先週までヨハネ福音書によって、主イエスの御受難の場面から御言葉を聴いて参りまして、主の御遺体を埋葬する箇所まで来ました。あとは復活ということになるのですが、復活節までまだ3週あります。そこで今日は、毎月1回読んで参りましたペトロの手紙の最後の部分から御言葉を聴くことにさせていただきました。
 ペトロの手紙二の3章ですが、小見出しは「主の来臨の約束」となっています。主が再び来臨されることは、順序から言えば主の復活と昇天の後のことでありますが、実は、共観福音書によれば、主イエスがエルサレムに入城された後の受難週の間に、終末のこと・人の子が再び来られることを語っておられるのであります。ですから、今日ペトロの手紙によって主の再臨のことを聴くのは受難節に相応しいことだと言えるのであります。
 
そこで、ペトロの手紙に入る前に、福音書によって、主イエスが再臨のことをどのように語られたのかを見ておきたいと思います。マタイ福音書24章(p47)を御覧いただきますと、最初に「神殿の崩壊を予告する」という小見出しがあり、続けて「終末の徴」、「大きな苦難を予告する」とあって、その後の29節以下が「人の子が来る」となっています。そこを読んでみましょう。
 
「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(マタイ242931
 
これに続いて、主イエスは「いちじくの木の教え」を語られて、再臨の時の兆候について語られ、更に、「目を覚ましていなさい」という箇所では、44節にあるように、「人の子は思いがけない時に来る」ので目を覚ましてその時を待つ必要があることを述べられています。更に、「忠実な僕と悪い僕」の譬えを用いて、思いがけない時に主が帰って来られた時に、失敗をしないように警告を与えておられます。このように、主イエスは十字架の時が迫る中で、かなり丁寧に、終末の再臨のことを語っておられたのであります。
 
さて、今日のペトロの手紙に戻りますが、この手紙は新約聖書の中でも最も遅くに書かれたもので、主イエスの復活・昇天から既に100年以上が経過していて、主イエスが約束された再臨がなかなか起こらないので、〈再臨なんて起こらないのではないか〉と考える人が出て来て、緊張感が薄れて来ていた中で、書き記された手紙であります。
 
ところで、現在の私たちはどうでしょうか。主イエスの復活・昇天から2000年以上の時が経過しました。終末と再臨について主イエスがおっしゃったことはどのように受け取られているのでしょうか。時々、〈終末が何年何月何日に起こる〉などと言う人が現れて、世間を騒がせたりしましたが、何も起こらなかったということで、多くの人は、もうあまり緊張感を持たずに過ごしているのではないでしょうか。しかし、主イエスは世の終わりの徴として挙げられた中で、「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞く」とか、「方々に飢饉や地震が起こる」と言われていたことが、現に起こっていますし、世界の各地で、差別や対立があり、テロが頻発し、自然環境の破壊が続いています。いたずらに恐怖心を煽るのは良くありませんが、主イエスが警告されたように「目を覚ましている」ことが必要であります。そして、何よりも再臨の日は主イエスにお会いできる喜びの時であります。
 
今日は、ペトロの手紙によって、その主の来臨の約束について学び、その時を待つ者としての生き方を正されたいと思うのであります。

1.神の言葉によって

まず初めに、この手紙を書いた目的を改めて述べています。1節と2節を読みます。それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです。――ここで「聖なる預言者たちがかつて語った言葉」とは旧約聖書全体のことで、「あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟」とは、弟子たちによって伝えられていた主イエスの教えや伝承のことで、内容的には今の新約聖書のことと理解してよいでしょう。要するに、旧・新約聖書全体の御言葉を思い出して、純真な信仰心を奮い立たせたいというのです。
 34節は、主の再臨を否定する人たちの様子が書かれています。彼らは終末への緊張感を失って、欲望の赴くままに生活をしていて、「世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」と、うそぶいていると言うのです。このような傾向は、主の再臨を公然と否定する人たちだけのものではありません。主がもう一度来られるということが曖昧にされたり、忘れられたりしますと、聖書に記されている神様の言葉や主イエスの教えを重く受け止めることをせず、軽く受け流してしまうのではないでしょうか。〈聖書には良いことが書いてある、理想的なことが書いてある、しかし、現実にはそのように行かないので、世の中も自分自身も何も変わらないのではないか〉というような捉え方になってしまうのであります。御言葉の持つ力を見失ってしまうのであります。そうなると、自分の思いや自分の欲望を第一にする生き方になってしまいます。身の回りの人とトラブルを起こさない程度に自分の欲望を押さえたり、他人から称賛されるために他人の役に立つことをするとしても、神様の言葉を第一にした生き方ではありませんから、根本的には自分の欲望の赴くままの生活になってしまうのであります。
 5節から7節にかけては、再臨を信じない人たちが認めようとしない、神の言葉が持つ力とその確かさについて語られています。即ち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。――この部分の翻訳については問題が指摘されているのですが、そのことについての説明は省略いたしますが、ここで言おうとしていることの要点は、こうです。再臨を信じない人たちは「世の中のことは何一つ変わらないではないか」と言っているのだけれども、創世記に書かれているように、天と地は神の御言葉の命令によって、水を元にして創造されたということ、また、同じように、御言葉によって洪水が起こされて、洪水以前の世界がすっかり滅ぼされたこと、そして、今度は、天と地が火で滅ぼされることがイザヤ書などに預言されていて、やがて不信心な者は滅ぼされる日が必ず来る、ということであります。因みに、イザヤ書66章には、こう預言されています。「見よ、主は火と共に来られる。主の戦車はつむじ風のように来る。怒りと共に憤りを/叱咤と共に火と炎を送られる。主は必ず火をもって裁きに臨まれ/剣をもってすべて肉なる者を裁かれる。主に刺し貫かれる者は多い。園に入るために身を清め、自分を聖別し/その中にある一つのものに付き従い/豚や忌まわしい獣やねずみの肉を食らう者は/ことごとく絶たれる、と主は言われる。」(イザヤ661517
 再臨を信じない人たちは、神の裁きなどあり得ないと考えているのですが、御言葉によって天地を創造し給うた神が、御言葉によって不信仰な者を滅ぼされると預言しておられるのであって、今は、神様が忍耐をもって悔い改めを待っておられるのだということであります。

2.主の忍耐――主の日は盗人のように

そこで次に、8節、9節では、神様の忍耐のことが述べられます。
 
愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。――神様は天と地の空間を御支配なさっているのと同様に、時間をも御支配なさっています。そして、神様と人間とでは時間に対する基準が違います。神様の御計画を人間の基準で計ることは出来ません。終末がいつ来るのか、再臨がいつあるのかということは、神様のお決めになることであって、人間が算定したり、予測したり出来る事柄ではありません。だからと言って、神様は人間の状態と関係なく終末の時をお決めになるのではないし、神様の都合で約束の実現が遅れているということではなくて、「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられる」のだと言うのであります。神の時には、神様の愛と憐みが込められているということであります。ギリシャ語では「時」を表わす言葉に「クロノス」と「カイロス」というのがあります。日本語で言えば、「時間」と「時期」の違いと考えたらよいでしょうか。「時間」というのは1時間とか、2時間とか幅があって、無限に続くわけですが、「時期」というのは、絶妙なタイミングということで、神様がすばらしいことをなさる特定の瞬間であります。再臨はそのような「カイロス」として、神様の愛と忍耐によって決まるタイミングに起こるということであります。
 ですから、再臨がいつやって来るかは私たちには分かりません。10節には、主の日は盗人のようにやって来ます、と言われています。今日、冒頭にマタイ福音書で主イエスが終末のことについて語っておられることに触れましたが、そこでも主イエスは「人の子は思いがけない時に来る」(マタイ2444)とおっしゃっていました。人間の意志によって定めたり、人間が努力して招き寄せることは出来ません。私たちはその時が来ることを待つしかありません。しかしそれは、諺にあるように、「人事を尽くして、天命を待つ」ということではありませんし、「果報は寝て待つ」ということでもありません。主イエスの約束を信じて、最良のタイミングで必ず来ることを確信して、自分がなすべきことをなしながら、平安の内に待つということであります。
 
10節の後半には、その日、天は激しい音を立てながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に解け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます、とあり、12節の後半にも、その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去ることでしょう、と言われています。自然界のすべてのものも、人間が造り出したものも、消滅すると言うのです。それでは何のために再臨の時を待ち望むのかということになりますが、13節で、こう言われています。しかし、わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神に約束に従って待ち望んでいるのです。神様の義が宿る新しい天と地が立てられるのです。神の国の完成です。「義の宿る新しい天と新しい地」と言われています。今の世には「義」が宿っていないということでしょう。神の義は主イエスの十字架によって果たされました。しかし、まだ人間の罪がはびこっています。だから義が宿っていないのです。しかし、再臨の時には、義が宿るのであります。義が私たちの中にもしっかりと根付くということでしょう。

3.神の平和のうちに過ごす

さて、それでは、私たちは主の再臨の時までをどのように過ごせばよいのでしょうか。11節から12節前半にかけて、こう書かれています。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らねばなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。――再臨を信じない人々は、3節にあったように、「欲望の赴くままに生活して」いました。再臨を信じて待つ人は、それとは反対の「聖なる信心深い生活」を送ることになります。ここで、神の国に入るための新しい条件(資格)が述べられているということではないでしょう。神の日が来るのを待ち望みつつ日々を過ごしていたら、自然と「聖なる信心深い生活」が出来るようになる、ということではないでしょうか。また、神の日が「来るのを早めるようにすべき」だとも述べられています。先程は、神の時は神様がお決めになるのであって、人間がどうこうするものではないと申しました。それと矛盾するような言い方であります。しかし、神の時というのは、決して固定的なものではないでしょう。神様の愛と忍耐から来る「時」であります。ですから、動き得るのであります。主イエスは「御国が来ますように」と祈るように教えられました。そう祈りつつ、私たちは福音の宣教に携わるのであります。そして、人々の悔い改めが広まることは神様の喜ばれることであります。使徒言行録3章で、ペトロはこう言っております。「自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。」(使徒31920)ここには、人の悔い改めによって、「慰めの時」即ち、主イエスの再臨の時が訪れると述べられています。私たちのささやかな福音宣教の業が、再臨の時を早めるのに役立つということです。
 14節に入りますと、こうも述べられています。だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。――ここの「平和」という語はヘブル語の「シャローム」と同じ意味の言葉で、神様との正しい関係における平安を示す言葉であります。私たちが神様と正しい関係を保っているかどうかを、再臨の時に認めていただけることによって、神の国に入れるかどうかが決まるということです。では、神様との正しい関係とは、どうすれば保てるのでしょうか。私たちが良く聖書を読み、熱心に礼拝に通うことでしょうか。もちろんそういう形になって表れるでしょうが、神様との正しい関係を築いてくださった大元は、私たちが神様との関係を壊していた罪の問題を、主イエスが十字架の贖いによって解決してくださったからであります。主イエスが神様と私たちの間の「シャローム」を創り出してくださったのであります。この救いの出来事を大切にすることが、聖書に親しみ、礼拝に連なることにつながるのであります。そのことを、神様は認めてくださる、というのです。

結.堅固な足場を失わないように

最後に、17節、18節の言葉を聴きましょう。それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに(そそのか)されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。――不道徳な者たちに唆されない「堅固な足場」とは何でしょうか。今日の最初の1節には、「これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたい」と述べられていました。ここで「記憶」とは、2節に書かれている旧約聖書、新約聖書に記されている御言葉の記憶であります。今読んだ17節のすぐ前にも、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています、と書かれています。聖書を正しく読み、そこから御言葉を聴き取るときに、心が定まります。再臨を待ち望む心が形成されます。そのようにして、御言葉が「堅固な足場」となるのであります。今日も御言葉によって、「堅固な足場」の上に立たせていただいたことを感謝して、祈りましょう。

祈  り

御子イエス・キリストと共に天にあって、約束の実現を計っておられる父なる神様!み名を賛美いたします。
 
今日も豊かな御言葉をもって私たちに臨んでくださり、あなたの恵みの記憶を呼び起こし、約束の日を待ち望む者へと導いてくださいましたことを感謝いたします。
 
私たちは、厳しい現実が取り巻く中で、あなたの約束を信じられなくなったり、再臨を待ち望む心を失って、目先の楽しみにふけったりいたしますが、そのような私たちが悔い改めることを、忍耐をもって待っていてくださることを覚えて、重ねて感謝いたします。

どうか、御言葉という堅固な足場に立ち続ける者とならせて下さい。どうか、主イエス・キリストが一日も早く来てくださいますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2014年3月30日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙二 3:1ー18
 説教題:「
主の来臨の待望」         説教リストに戻る