彼ら(アリマタヤのヨセフとニコデモ)はイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
              (ヨハネによる福音書1940 

 十字架上で息を引き取られた主イエスのご遺体を引き取ったのは親族ではなく、十二弟子の中の誰かでもなく、二人の議員であった。
 一人は、アリマタヤ出身のヨセフで、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人を恐れて、そのことを隠していた」と記されている。何を恐れていたのか。他の福音書によれば、金持ちであり、身分の高い議員であり、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意せず、神の国を待ち望んでいたと書かれている。イエスの教えや行動に心を動かされながらも、今の地位や生活を失うことを恐れ、会堂から追放(ヨハネ1241)されて、ユダヤ社会から疎外されることを恐れたのであろう。
 もう一人のニコデモは、「かつてある夜、イエスのもとに来たことのある」人物である。人目をはばかって、イエスの教えを受けに来たことがあった。その時、主イエスが「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることが出来ない」と言われたことを理解出来なかったが、「神はその独り子をお与えになったほどに、この世を愛された」との言葉は心に残っていた。その後、主イエスの裁判が律法に沿っていないことを述べて抵抗したことが記されている(ヨハネ750)が、公然とイエスの弟子であることを表明したわけではない。この人も、優柔不断で、不徹底な弟子であった。
 この二人が、十字架の後、真昼の衆人環視の中で、公然と主イエスの遺体の引き取りを申し出た。――何が二人を変えたのか。それは、十字架の出来事の一部始終を見、主が十字架上で語られた言葉を聞いて、その大きな愛に打たれたからであろう。ニコデモは、あの心に残っていた言葉が十字架の主イエスの御姿と結びついて、生まれ変わった。
 私たちも、主イエスとの関係、神との関係において、不徹底な生き方をしている。この世の立場や誉れに引きずられて、大胆に主イエスに人生を委ねる生き方を出来ないでいる。だが、私たちも、礼拝において、御言葉を通して、十字架の主の愛に出会っている。そして、神は死すべき者を新しい命に生きる者に変えようとされている。その招きに素直に応じる者とされたい。

主日礼拝説教<要 旨> 2014年3月23日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書 19:38−42 
 説教題:「
天国につながる墓」 説教リストに戻る