序.イエスの死によって変えられたこと

先週は、十字架の上の主イエスが「成し遂げられた」と言って、息を引き取られたことと、そのあと、死を確認するために兵士が主イエスのわき腹を刺すと、血と水が流れ出たという記事から、主イエスの死によって何が起こったのか、その意味について考えました。
 
今日は、そのあと、アリマタヤ出身のヨセフが主イエスの遺体の取り降ろしを願い出たことと、かつてある夜、主イエスのところへ来たことがあるニコデモが香料を持って来て、主イエスの御遺体を埋葬したことが書かれている箇所から、御言葉を聴こうとしています。
 
アリマタヤのヨセフは、38節に書かれているように、イエスの弟子でありながら、そのことを隠していた人物であります。いわば弟子になり切れないでいた優柔不断な人間でありました。ニコデモはユダヤ議会の議員の立場にあった人物で、主イエスに関心があって、主イエスに接近したのですが、弟子にはなれなかった、これまた不徹底な人間でありました。しかし、その二人が、主イエスの埋葬をしたのであります。そこには十二人の弟子たちの姿はありません。なぜ、この二人がここで登場したのでしょうか。なぜヨハネ福音書の記者はここに、十二人の弟子たちのことを書かずに、この二人のことを書いたのでしょうか。それは、ヨハネ福音書の記者をはじめ、初代の教会の人々が、この二人のことを自分たちと二重写しにしていたからでありましょう。二人の優柔不断や不徹底が自分たち自身にもあったことを思わずにいられなかったということです。しかし、この二人は、恐らく初代教会において、仲間の一員として知られていて、運命を共にしていたのではないかと思われます。二人の人生は、主イエスの死とその後の復活によって大きく変えられたのであります。何が二人をそのように変えたのか。そのことを考えてもらいたい、伝えたいために、ここに二人のことを書いているのであります。今日は、その伝えたいことを、御言葉として聴き取りたいと思います。

1.遺体を取り降ろしたヨセフ

まず、アリマタヤのヨセフから見て参りましょう。彼は、今も触れましたように、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた、と書かれています。併行記事のマタイ福音書を見ると、金持ちであったと記され、マルコ福音書では身分の高い議員であったと書かれています。また、ルカ福音書には、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかったと記し、神の国を待ち望んでいたとも書かれています。この世的には立派な地位にあり、信仰的にも熱心で、主イエスを十字架につけることにも反対の意見を表明していたというのです。恐らく、以前から主イエスの教えや行動に心を動かされていたのでしょう。心は主イエスの弟子であったのです。しかし、ユダヤ人を恐れて、そのことを隠していました。何を恐れたのでしょうか。今の地位や生活を失うことを恐れたのかもしれません。1241節以下を見ますと、「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった」と記されています。会堂から追放されるということは、ユダヤ社会から疎外されるということを意味します。あるいは、死を恐れていたのではないかと言う人もいます。弟子であることは身の危険を伴うことでありました。こうしたことから、主の弟子であることに徹底出来なかったのであります。主イエスに心を寄せながら、これまでに築いて来たものを捨てる勇気がなかったのであります。こんなヨセフを私たちは笑うことが出来ません。私たちも、これまでの人生の歩みの中で勝ち得て来たものを捨ててまで、主イエスの弟子になり切れないところがあるのではないでしょうか。
 しかし、そんなヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出たのであります。ピラトがそれを許したと書かれています。死刑囚の遺体であるとは言え、誰にでも遺体を引き渡すことは出来ません。ピラトはヨセフがユダヤ議会の議員であることを以前から知っていたのかもしれません。或いは、この時ヨセフは勇気を出して、自分が主イエスの弟子であることを明かしたのかもしれません。いずれにしろ、ここでヨセフはこれまでとは違う一歩を踏み出したのであります。何がヨセフにこの勇気ある決断をさせたのでしょうか。それは主イエスの十字架に出会ったからであります。恐らくヨセフは、この日、十字架からあまり遠くないところにいて、出来事の一部始終を見て来たのではないでしょうか。主イエスが十字架上で語られた七つの言葉も聞いたかもしれません。それらによって、主イエスのこの上もない大きな愛を知ったのではないでしょうか。その結果、これまでの恐れは吹っ飛びました。
 
マタイ福音書によりますと、ヨセフは遺体を受け取ると、・・・岩に掘った自分の新しい墓の中に納めたと記されています。ヨセフは自分が死んだら葬ってもらおうと思って新しい墓を用意していたのでありましょう。そこへ、主イエスを納めたのであります。この後、主イエスが復活されるということまでは、考えていなかったでしょう。だから、自分は将来、主イエスの御遺体と並べて葬ってもらえると思ったのかもしれません。死んでもいつまでも主イエスと一緒におれる幸いを考えたのでしょう。しかし、主イエスは三日後に、この墓から甦られるのであります。それは、ヨハネの考えていたこととは違いますが、自分の墓で主の復活の出来事が起こり、すべての人の新しい命が始まるという、想像以上の恵みを受けることになるのであります。これは、勇気をもって主イエスの遺体の引き取りを申し出たヨセフに与えられた神様からの大きな恵みであります。私たちもまた、十字架の恵みに向き合うことによって、主の愛を知らされて、主の弟子としての生き方を徹底することへと、勇気を持って人生の舵を切ることが出来るならば、ヨセフと同じように、神様から大きな恵みを与えられるのではないでしょうか。

2.香料を持って来たニコデモ

次に、もう一人のニコデモの方を見てみましょう。
 
彼もまたユダヤ議会の議員でありました。39節を見ると、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモという紹介の仕方をしております。これは、ヨハネ福音書の3章に記されている物語のことであります。わざわざ「ある夜」と書いています。人々の目をはばかって、ひそかに主イエスを訪ねたのでありました。その時、主イエスはニコデモとの対話の中で、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」33)、「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」35)とお告げになりました。それに対してニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることができるでしょうか」34)、「どうして、そんなことがありえましょう」39)と、理解できませんでした。その後は、主イエスが独りでお話を続けられましたが、その中で「福音中の福音」とも言われる、有名なメッセージを語られました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」316)これを聞いたニコデモの反応は記されていません。ヨハネ福音書でニコデモのことが二度目に出て来るのは7章です。祭司長やファリサイ派の人たちが主イエスを逮捕するために下役たちを遣わすのですが、捕えられずに帰って来たので、ファリサイ派の人々が、「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか」と言いますと、議員の一人であるニコデモは、「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と言って、いい加減な裁判をすることに抵抗しているのであります。このように、ニコデモは公然と主イエスの弟子であることを表明したわけではありませんが、陰のシンパの一人であったようです。
 そのニコデモが、ヨセフと同じように十字架の場面にいて、おそらく主イエスが十字架に架けられてから、息を引き取られるまでの一部始終を見ていたのでしょう。そして、これまでのニコデモとは大きく態度を変えました。39節を見ると、こう書かれています。ニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。これらは防腐剤と香料であります。百リトラというのは30kg以上もあります。かつては、人目につかないように、夜に主イエスのところにやって来たのですが、この時は真昼の衆人監視の中で、公然と主イエスの御遺体の葬りを買って出ているのであります。ニコデモをこのように変えたのは何でしょうか。ピラトさえ何の罪もないと認めていたお方が、ニコデモ自身も議員の一人として責任を担っているユダヤ人たちの罪の結果を背負って、十字架にお架かりになったこと、そして、十字架上で、自分を十字架につけた人たちを赦すようにと祈られたお言葉、それらを見聞きする中で、ニコデモは自分自身の罪に気づき、その罪を負っていてくださる主イエスの愛の大きさを覚えたのではないでしょうか。そして、かつて、主イエスをお訪ねした夜に主イエスから聴いたメッセージ、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉が心に残っていて、それが十字架のお姿と結びついて、〈この方は本当に独り子であった、ここ方こそ救い主であった〉、と分かったのではないでしょうか。あの夜に主イエスは「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」と言われ、その時は何のことよく分からなかったのですが、今、ニコデモは新しく生まれ変わろうとしている自分に気づいたのであります。こうして、ニコデモもまた、本物の弟子になるのであります。

3.天国につながる墓――信仰共同体の一員となって

このとき二人はまだ、主イエスの復活のことは、考えてもみなかったでしょう。彼らは、遺体を受け取ると、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、香料を添えて、丁寧に亜麻布で包みました。そして、十字架につけられた所の園にあったヨセフの墓に運んで納めたのであります。
 
しかし、この二人と主イエスとの関係はこれで終わりませんでした。三日後に主イエスはこの墓から甦られることになります。この墓の石が三日目の朝に開かれることによって、全ての人を天国へ導く門が開かれることになったのであります。全ての人が新しい命に生き始める道筋が開かれたのであります。二人が、復活の主イエスに直接お会い出来たのかどうか、聖書には記されていません。また、その後に成立して行く初代のキリスト教会の中で、この人たちがどのような役割を果たしたのかも記されているわけではありません。しかし、この二人が十字架の場面でこのように振る舞ったことが記されているのは、彼らが新しい信仰共同体=教会の群れの中で、自分たちのしたことを証ししたからであるに違いありません。二人は自分たちが十字架の出来事に立ち会ったことによって、それまでの自分が大きく変えられたこと、そして、主の御遺体を確かに墓に納めたのだが、そこから甦られたこと、そして、自分たちは、復活の主イエスに仕える新しい命に生まれ変わったことを、喜びをもって語ったことでありましょう。

結.隠れた人生から公然と告白する人生へ

ここに記されたヨセフとニコデモは、私たちのモデルであります。私たちも、主イエスとの関係、神様との関係において、不徹底な生き方をしております。この世の立場や人間の間での誉れに引きずられて、大胆に主イエスに近づき、人生を委ねる生き方を出来ないでいるところがあります。ヨセフとニコデモがそうであったように、この世的に立派に生きている者ほど、そこから離れることが難しいのです。主イエスのシンパではあっても、主イエスの本当の弟子になれないのであります。しかし、神様はそんなヨセフとニコデモを放ってはおかれませんでした。主イエスの弟子たちの殆んどは、十字架の場面から離れてしまっていたのに、この二人を十字架の近くに招き寄せられたのであります。そして、主イエスの十字架のお姿を見させ、主イエスが十字架の上で語られた御言葉を聴かせられました。そのことによって、二人の人生は大きく変えられました。これまでの、信仰的には隠れた人生から、公然と主イエスを告白する人生へと生まれ変わりました。この世的には恵まれていたけれど、不徹底で中途半端な人生から、神様の恵みを証しする、喜びに満ちた人生へと変えられました。何が二人を変えたのでしょうか。それは、彼らが信仰的に成長したとか、精進したとかいうことではありません。主イエスの十字架に出会って、主の愛に触れたから、主の愛の中に招き入れられたからであります。
 
私たちもまた、この受難節の礼拝において、主の十字架に出会っております。去年の修養会で講師の多田先生は、礼拝とは自らの死を覚える場であるということ強調されました。主の十字架に出会うということは、私たちの罪と死に向き合うということであります。私たちこそ、罪の故に死すべきものであるということを知ることであります。しかし、神様はそのような死すべき私たちをも、主の愛の中に招き入れようとしておられるのであります。そして、新しい命に生きる者に変えようとされているのであります。私たちは、その主の招きに素直に応じる者とされたいと思います。そこには新しい人生が広がっています。 祈りましょう。

祈  り

独り子をお与えになるほどに私たちを愛して下さる父なる神様!
 
今日も、主イエスの十字架をめぐる出来事を通して、あなたの深い愛に触れることが出来まして、感謝いたします。
 私たちは、これまで不徹底な歩みを続けて来たことを告白いたします。どうか、このような者をも見捨てず、十字架の主イエスの許に立ち続ける者とならせて下さい。主の赦しの愛から離れることがないように、御言葉を聴くことから遠のくことがありませんように、導いてください。そして、どうか、主にお従いすることを喜び、また出来ますなら、主の恵みを証しする者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2014年3月23日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書 19:38ー42
 説教題:「
天国につながる墓」         説教リストに戻る