序.主の死の意味を問う

主イエスの御受難を覚えるレント(受難節)に入って二回目の主日の礼拝を行っています。先週はヨハネ福音書191627節の箇所で、主イエスが十字架につけられたことが、神の御言葉の実現であったということを聴きました。それに続く今日の箇所では、主イエスの死そのものと、その死を確認するために槍でわき腹を刺したということが書かれていますが、ここでも聖書の御言葉の実現ということが繰り返し述べられています。
 御言葉の実現ということは、神様の御心が実現したということであります。それは、単に、主イエスが十字架上で語られた言葉が旧約聖書に預言されていたとか、主イエスの死を確認した作業が旧約聖書に記されていたということで、預言通りのことが行われたとことを感心していたらよいということではありません。その御言葉や出来事に込められた深い神の御心、意味を聴き取ることが必要であります。神の独り子である主イエスの死にはどのような意味があるのか、主イエスの死はこの私とどのような関係があるのか、また、私自身の死にはどのような意味があるのか、――そのようなことを、今日の箇所から聴き取る必要があるのではないかと思います。なぜなら、主イエスの死の意味を知るところからこそ、私たちの命(生きること)の本当の意味が見えて来るからであります。
 
今日も沢山の聖書の言葉を引用いたしますが、いちいち聖書を開いていると時間がかかりますし、御言葉に耳を傾けることが疎かになってしまいますので、あらかじめプリントしておきました。しかし、これも、後で説教の内容を思い起こす時に見ていただくとして、この場ではしっかりと御言葉そのものに耳を傾けていただきたいと思います。

1.「渇く」(詩編2216)――死すべき私たちに代わって

まず、28節ですが、この後(のち)、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した、と書かれています。先週の説教の中で、聖書は主イエスが十字架につけられて苦しんでおられる様子は殆んど書いていないということを申しましたが、ここで「渇く」と言われたことが書かれているのは、その数少ないうちの一つであります。十字架に釘で打ちつけられ、大量の血を流しながら、ひどい痛みの苦痛を受けると、激しい渇きを覚えるだろうということは想像できます。主イエスだから、何の痛みも感じられなかったとか、どんな激しい渇きもものともされなかったということではないでしょう。主イエスは一人の人間として、肉体的にも最高の苦しみを味わわれたのであります。しかし、主イエスが「渇く」と言われたのは、思わず出てしまった只の苦しみの叫びではありません。先週も引用しました詩編22編は、主イエスが十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われた言葉が預言されていることで知られており、先週に出て来た「わたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という言葉の出所でもありますが、今日の「渇く」という言葉も、この詩編22編の16節にあるのですが、「口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎に貼り付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」と述べられています。ヨハネ福音書の記者はこの御言葉の実現だと受け止めているのであります。しかし、ここで思い出すのは、旧約聖書の言葉だけではありません。このヨハネ福音書の中に、主イエスがサマリアのシカルの井戸で、水を汲みに来た女に「水を飲ませてください」(ヨハネ47)と言われたことが書かれているのを思い起こします。この時のサマリアの女との対話は、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ414)という主のお言葉へと続いて行くのであります。そこで言われている「水」とは単なる飲み水のことではなくて、永遠の命に至る水であります。このことから思い至ることは、主イエスが十字架上で「渇く」と言われたことも、単に肉体的な渇きを訴えられたのではなくて、霊的な渇きをも暗示しているのではないか、ということであります。私たち、神様との関係を疎かにしている者は、霊的な渇きを覚えざるを得ない状態にあります。しかも私たちは、その渇きにさえ気づいていないことが多いのであります。そんな私たちに代わって、神の子である主イエスが十字架上で渇きを覚えてくださっているのであります。「渇く」というお言葉は、私たち自身が発しなければならない言葉でありますが、それを主イエス御自身が私たちに代わって口にされているということであります。
 
ところで、次の29節を見ますとこう書かれています。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。――この酸いぶどう酒というのは、十字架刑の苦しみを和らげるために用意されていた麻酔薬だとする説や、長時間、十字架の番をする兵士たちのために用意されていたものだとする説がありますが、はっきりいたしません。しかし、ここにこのような記述があるのは、ここに注釈はありませんが、旧約聖書のあちこちと関係があるからであります。詩編の6922節に、「人はわたしに苦いものを食べさせようとし/渇くわたしに酢を飲ませようとします」という言葉があります。その前の2021節には、「わたしが受けている嘲りを/恥を、屈辱を、あなたはよくご存知です。嘲りに心を打ち砕かれ/わたしは無力になりました」と述べられていて、無理やり酸いぶどう酒を飲まされる屈辱が歌われています。それは、今日の箇所の主イエスの状況に通じるものでありますが、違うのは、詩編の詩人はこの後で、「あなたの憤りを彼らに注ぎ/激しい怒りで圧倒してください」(25節)、「命の書から彼らを抹消してください(29)と呪っているのに対して、主イエスはこの後30節で「成し遂げられた」と言っておられるように、主イエスを十字架につけた者たちをも含めた全ての人たちのための救いの御業を成しておられるのであります。
 また、29節の記述の中に「ヒソプに付け」という言葉がありますが、これはイスラエルの民にとっては忘れることの出来ない出来事を思い出させることであります。というのは、イスラエルの民がエジプトを脱出するとき、神はモーセを通じて、こう命じられました。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。」(出エジプト122122)この命令に従うことによって、災いがイスラエルの人々の家を過越したのです。その記念の祭が過越の祭であります。ですから、ヒソプは救いの御業に用いられたということで共通していますし、主イエスは過越の犠牲になった羊の役割をしておられるのであります。ヨハネ福音書はここにヒソプのことを記したのは、主イエスの十字架の死が、主イエスを信じる者を救うための犠牲の御業であったことを述べたかったからであります。

2.「成し遂げられた」(ヨハネ174)――贖いの完成

次に、30節ですが、イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた、と書かれています。ここの「成し遂げられた」という言葉ですが、この原語には、「終わった」という意味と「目的を達成した」という意味があると言います。口語訳聖書では、「すべてが終わった」と訳されていましたが、これでは<万事休す>というような意味に受け取られかねないので、新共同訳では「成し遂げられた」と訳されました。しかし、ある人は、「終わった」という意味と「目的を達成した」という二つの意味を、切り離すことなく読み取らねばならないと言っております(「アレテイア」深井智朗)。つまり、一つは、ここで<人間的な可能性が終わった>ということであり、今一つは、神の御業の目的が達成して、<新しい命が生き始める>という、神様による可能性の開始が告げられている、という意味であります。それは勝手な解釈ではなくて、かつて主イエスが祈りの中でおっしゃっていたことであります。ヨハネ福音書17章は逮捕が迫っている中で祈られた祈りが記されていますが、こう言っておられます。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたをお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」(ヨハネ17:1−4)ここに、<永遠の命を与える御業を成し遂げて、神様の栄光を現わした>と言われている通りであります。ですから、「成し遂げられた」というのは、主イエスの勝利の宣言でもあるのであります。
 30節で、もう一つ注目していただきたいことがあります。それは「頭を垂れて息を引き取られた」という言葉です。この訳で読むと、ただ<息を引き取って死なれた>ということに過ぎないのですが、この「息」と訳されている言葉は「霊」とも訳される言葉で、「引き取られた」と訳されている言葉は「引き渡した」とも訳せるのであります。つまり、ここは「霊を引き渡した」とも読めるのであります。ルカ福音書の十字架の記事を見ますと、「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた」と書かれています。これには二重の意味が込められていると言われます(土戸清)。一つは全ての御業を終えられて、御自分の命(霊)を神様に委ねたという意味と、今一つは、先週のところでも触れましたが、御自分の霊の働きを弟子たちに委ねた、という意味であります。
 
ここまでに見て参りましたように、主イエスの死というのは「渇く」という言葉で表現されているように、死すべき私たちに代わって苦しみを担ってくださったということと、「成し遂げられた」という言葉で表現されているように、人間的な可能性が終わって、永遠の命を与える目的が達成したということ、更には、主の霊が神様に委ねられると共に、教会に引き渡されたという意味までもが込められているということであります。

3.血と水とが流れ出た

――「その骨は一つも砕かれない」(出1246、詩編3421
   ――「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」(ルカ1210
 
 ――「血と水とが流れ出た」(ヨハネ7:3839
 
次に、31節以下を見て行きます。
 
その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。――ローマの慣習によれば、十字架につけられた犯罪人に出来るだけ長く苦しみを味わわせるために、息を引き取るまで十字架につけられたままにされました。ところがこの日は過越の安息日の前日でありました。十字架に架けられた犯罪人の遺体が翌日の安息日まで残る可能性がありました。ユダヤの律法では、「死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」(申命記2123)とされていました。それでユダヤ人たちは、足を折って死を早めることを求めたのであります。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折ったのです。そのあと、イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折りませんでした。しかし、死んでいることを確認するために、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺しました。すると、すぐ血と水とが流れ出たのであります。
 これらのことについて、36節では、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった、と述べております。出エジプト記1243節以下には「過越祭の規定」が記されていて、そこには「一匹の羊は一軒の家で食べ、・・・その骨を折ってはならない」と定められています。過越祭の羊と言えば、イエス・キリストを表わしていると、ヨハネ福音書は考えていました。だから、聖書の御言葉が実現したのです。また、詩編3420節以下には「主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し/骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる」(詩編342021)とあって、この御言葉の実現でもあるとヨハネは考えるのであります。更に、今日の箇所の37節には、また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある、と言っております。これは先ほど朗読していただいたゼカリヤ書12章の中の10節の言葉のことで、そこには、「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐みと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」と書かれています。ここで「わたし」と言われているのは神様のことで、「彼ら」と呼ばれているのはエルサレムの住民であります。ということは、神の民である者たちが神を刺し貫いたという罪が語られているのであります。実際は兵士が主イエスのわき腹を刺したのですが、ヨハネは十字架の出来事全体が、神の民が仕出かした罪であると理解しているのであります。この理解は私たちにとっても重要であります。というのは、神の民とは私たちのことでもあるからです。私たちも、毎日の生活の中で、神様の御心に聞き従うのでなく、勝手なことをしています。それは、神様の御存在を無視し、否定することになります。ですから、神様を刺し貫くのと同様のことをしてしまっているということであります。
 
しかし、このゼカリヤ書の御言葉は、ユダヤ人や私たちの罪を語っているだけではありません。「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐みと祈りの霊を注ぐ」とも言われています。これは、34節にある「すぐ血と水とが流れ出た」ということと関係づけて読まれるようになりました。ヨハネの手紙一56節には、こんな言葉があります。「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。」――「水と血を通って来られた」ということは、主イエスが水と血を持っておられるお方で、私たちと同じ人間であられた、ということであります。そのお方を人間は殺してしまって、血と水が流れ出た。しかし、その血と水は流れ出て、神の民に注がれた、というのです。先程、「渇く」という言葉の所で、主イエスがサマリアの女に言われた言葉を聞きました。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ414)と言われました。また、ヨハネ福音書の7章に仮庵祭の時に主イエスが語られた御言葉が記されていますが、主イエスは大声でこう言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ73738)――これらの言葉は皆、つながっているということです。十字架の主の体から血と水とが流れ出たということは、主イエスが「永遠の命に至る水がわき出る」と言われ、「生きた水が川となって流れ出る」と言われていたことが実現した、と理解しているのであります。更に、古代の教会の中では、主の体から流れ出る血と水は、主イエスの血を表わすぶどう酒で行われる聖餐式と、水の洗いである洗礼式という二つの礼典の起源とも理解されたのであります。

結.真実の証し

 このように、あちこちの聖書の言葉を引用して、意味づけをするのは、こじつけをして、言葉遊びをしているだけのように思われるかもしれませんが、そうではありません。ヨハネ福音書を書いた記者をはじめ、初代教会の人々が、十字架の出来事を自分たちに関わることとして真剣に受け止める中で、旧約聖書に記された言葉や、主イエスが語られた御言葉から、十字架の意味を深く聴き取ることが出来たのであります。
 
35節ではこう述べています。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。この福音書が書かれた当時、初代教会の人々が伝えた福音は、既に地中海周辺の世界に広がっていました。ヨハネは十字架を目撃した者として、そうした福音の宣教が真実であることを述べているのであります。ヨハネも十字架の場面に立ち会ったその時は、主の死の意味を理解出来なかったでしょう。しかし、この後、復活の主イエスに出会う中で、わき腹から流された血と水と、旧約聖書に書かれていることや主イエスが言っておられたこととが結びついて、主の十字架の死こそが、自分たちの命につながっていることがはっきりと分かって来たのではないでしょうか。そして、その命を更に多くの人々に引き渡して行きたいと、この福音書を書いているのであります。
 十字架の上で息を引き取られ、わき腹から血と水を流された主イエスは、もう何も語られません。そして私たちも主イエスの御言葉を肉声で聞くことは出来ません。しかし、こうして聖書を通して、そして霊の働きを通して、主イエスは私たちのところに来てくださり、罪を赦されて生きる新しい霊の命を注いでくださっているのであります。こうして、主の救いの御業は、今日も成し遂げられつつあるのであります。 祈りましょう。

祈  り

私たちのために十字架について死んでくださった主イエス・キリストの父なる神様!
 
ヨハネの証しを通して、十字架の恵みの深さを改めて覚えることが出来、私たちのために備えられた命の尊さを知らされましたことを感謝いたします。
 
どうか、この恵みを疎かにすることがありませんように、喜びの御言葉を聴き続ける者とならせてください。また、どうか、この命の恵みを証しする者とならせてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2014年3月16日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書 19:28ー37
 説教題:「
主の死の証し」         説教リストに戻る