序.十字架で何が実現したのか

今日、備えられている聖書の箇所はヨハネ福音書1916節後半から27節であります。この箇所の小見出しは「十字架につけられる」となっています。福音書のクライマックスであり、イエス・キリストによって成された救いの御業の極致が記されている箇所であります。もっとも、十字架の上での死そのものは、次の28節以下の段落で述べられていますので、十字架の御業としてはそこまで含めるべきかもしれませんが、そこについては次週に聴くことにしておりますので、今日は《主イエスが十字架につけられたということにどのような意味があるのか、そこで一体何が起こっているのか》ということを聴き取りたいと思います。
 
ところで、今私は、〈一体何が起こっているのか〉と申しましたが、主イエスが十字架につけられて起こっていることは、肉体的な苦痛の極限である筈であります。重い十字架を背負ってゴルゴタへ向かう道行の苦しみ、十字架に釘で手と足を打ちつけられる痛さ、大量の血の流出に伴う燃えるような激しい渇きなどが起こっている筈であります。ところが、聖書にはそのような描写は殆んどありません。ヨハネ福音書は特に、主イエス御自身の様子よりも、周りの様子を主に書いています。福音書の記者たちは誰もその場にはいなかったので、主イエスの表情などをリアルに描くことは出来なかったということもあるかもしれませんが、それよりも、福音書の記者がここでどうしても伝えたかったことは、主イエスが十字架にお架かりになったことで、本質的にどのようなことが起こっているのか、どういう意味のあることが起こっているのか、ということなのではないでしょうか。
 ここには、出来事としては4つのことが書かれています。一つは、主イエスが十字架を背負って処刑場へ向かわれ、ほかの二人の囚人とともに十字架につけられたこと、二つ目は、「ユダヤ人の王」と三か国語で書かれた罪状書きが掲げられたことで一悶着があったこと、三つ目は、兵士たちが主イエスの衣服を分け合ったこと、そして四つ目は、十字架のそばにいた婦人たちと一人の男の弟子に主イエスが声をかけられたことであります。福音書の記者は、十字架を巡るそれらの出来事に大きな意味が込められていると受け取ったから、ここに記しているのであります。今日は、その意味を考えたいと思います。
 
ところで、兵士たちが主イエスの衣服を分け合ったことを記した後で、「聖書の言葉が実現するためであった」と書かれています。同じような表現は、次週に聞く28節と36節にもあります。いずれも、旧約聖書で言われていた言葉を記して、それが実現したと記しているのであります。しかし、聖書の引用のない箇所も、よく考えると、すべて御言葉が実現した出来事ではないかと思うのです。先程述べた4つの出来事も、必ずしも旧約聖書の言葉ではなくて、主イエスが以前に語られた言葉も含めてのことですが、いずれにしても御言葉が実現した出来事ではないかと思います。今日は、4つの出来事の意味を考えると申しましたが、御言葉の実現という視点で、一つ一つの出来事の意味を考えたいと思います。そこから、現代の私たちに対する神様からのメッセージとしての御言葉(神様の御心)を聴き取ることができるのではないかと思うからであります。

1.罪人のひとりに数えられた(イザヤ5312

まず一つ目の事は、1718節に書かれていることですが、主イエスは自ら十字架を背負い、「されこうべの場所」すなわちゴルゴタという所へ向かわれ、そこで十字架につけられたのですが、ほかの二人をも、イエスを真ん中にして十字架につけた、のであります。
 
ここでは二つの点に注目したいと思います。一つは「自ら十字架を背負い」と、「自ら」という言葉をわざわざ添えていることです。十字架刑になった犯罪人は誰でも、自分が架けられる十字架を背負わされたのかもしれません。しかし、それなら「自分が架けられる十字架を背負い」と書いても良かったのですが、ここではわざわざ「自ら背負い」と御自分の意志で背負われたような表現をしているのであります。他の福音書を見ますと、たまたま通りかかったキレネ人のシモンという人に背負わせたということが書いてあるのですが、それは恐らく、しばらくは主イエスが背負っておられたのですが、耐えきれず進めなくなったので、シモンに負わせたということではないかと思います。このシモンの役割ということも大変深い意味が込められているとは思いますが、ヨハネ福音書はそのことには触れずに、主イエスが「自ら背負われた」ということを強調しているのであります。つまり、ヨハネが言いたいのは、主イエスが十字架を背負われるのは、ユダヤ人たち恨みの結果だとか、ローマ総督ピラトの優柔不断や保身の犠牲になったからではなくて、御自分の意志によってである、ということを言いたいのであります。先週の説教は「十字架につけたのは誰か」という題でお話ししました。その答えは、11節で主イエスが言われた言葉から読み取れることですが、神様の権限によらなければ、このようなことは起こらなかった、ということです。つまり、主イエスが十字架に架けられることになったのは、神様の御心によることであった、というのが、先週の問いかけの答えでありました。今日の箇所では、更に主イエスが十字架を負われたのは、神様の御計画であるだけでなく、御自身の御意志によることであった、ということを強調しているのであります。もちろん、そこには人間の罪が働いているのですが、その結果を止むを得ないこととして受けられるのではなくて、人間の罪を自ら背負おうとされたということであります。
 主イエスが実際に自ら十字架そのものを背負って歩まれたのは、この時が初めてですが、主イエスが折に触れてお語りになった言葉を振り返ると、十字架を背負おうとする覚悟は、あちこちに見られます。例えば、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(ルカ958)と、十字架を背負う受難の御生涯を予告されました。また有名なお言葉ですが、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ1011)と、御自分の死を明言されました。また、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ1224)とも言われました。そして、ゲッセマネの園で逮捕しようとする者たちがやって来た時に、ペトロが剣を抜いて切りかかりますと、主イエスは「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(ヨハネ1811)と言って、進んで逮捕されなさったのであります。このように、御自分で語られたお言葉のとおりに、「自ら十字架を背負い」ということが実現したのであります。
 
1718節の箇所でもう一つ注目したいことは、「イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた」という事実です。このことが示していることは、主イエスが両側の犯罪人と一緒に、まぎれもなく一人の罪を犯した人間として十字架にお架かりになっているということであります。イザヤ書の「主の僕の歌」と呼ばれるものの中から、先週は二つの言葉を引用して、その預言が実現したことをお示ししましたが、今日も「主の僕の歌」の中から、イザヤ書5312節を御覧いただきたいと思います。こう述べられています。「彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」――ここに、「罪人のひとりに数えられた」とあります。正に、このイザヤを通して語られた御言葉が、主イエスにおいて実現したのであります。
 今日の週報の裏面に引用した小島先生の「聖句断想」には「真ん中」という題がついていますが、これは、この聖書の箇所についての断想です。小島先生は、主イエスが「罪人のひとりに数えられた」ことによって、私たちの死の呪いをすべて受けてくださったことを述べておられます。参考として、後程お読みください。

2.ユダヤ人の王として(Uサムエル716、ルカ13233

次に19節から22節の箇所に書かれているのは、十字架の上に掲げられた罪状書きのことであります。これは19節にあるようにピラトが自ら書いたか、ピラトが指示して書かせて、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれていました。なぜこう書いたのか。それは2月に聴きました18章の中にあるのですが、ユダヤ人たちの要求のように十字架刑にするには、それ相当の理由が必要なわけで、ピラトは主イエスに「お前がユダヤ人の王か」と尋ねています。もし自分を王だとしているなら、国家反逆罪に当たるからであります。これに対して主イエスは、「そうだ」と明確にはお答えにならずに、「わたしの国は、この世には属していない」といったことを述べられたのであります。それでピラトは主イエスが国家に反逆するような罪を犯しているわけではないことをある程度理解したのですが、ユダヤ人たちの要求に押されて、結局、十字架に架けることを許してしまいました。しかし、ピラトとしては、ユダヤ人たちの言いなりになるのは不愉快ですから、「何でこんな男のことで大騒ぎしないといけないのか」という、ユダヤ人たちへの侮辱を込めて、こう書いたのだと思われます。ところが、ユダヤ人としては、あたかも主イエスの称号であるかのように「ユダヤ人の王」と書かれているのは気に入りません。そこで、祭司長たちは、「ユダヤ人の王と自称した」と書くように要求します。確かに、その方が正確であるかもしれません。しかし、ピラトはここでは、ユダヤ人の要求をはねつけて、権威を示そうとします。――このように、両者の意地の張り合いの結果、掲げられた罪状書きではありますが、そこに書かれていることは、主イエスの真実の姿を示しているのであります。主イエスの誕生をマリアに伝えた天使ガブリエルは、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」(ルカ13233)と言っております。
 かつて、預言者ナタンがダビデ王に、「あなたの王座を堅く据える」(Uサムエル716)という神様の約束(ダビデ契約と呼ぶ)を伝えました。この約束はダビデ王朝が途絶えてからも、ユダの民の中でずっと信じられていました。その約束の通り、ダビデの子孫である主イエスによって実現することが、天使ガブリエルによってマリアに告げられたのであります。主イエスが誕生された時、東の国からやって来た占星術の学者たちは、ヘロデ王を訪ねて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と言っております。それは彼らが、ユダヤに伝わる約束を聞いていたからでしょう。また、旧約聖書の最後に近いゼカリア書では、「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ロバに乗って」(ゼカリヤ99)と預言されていました。そのことを受けて、主イエスが十字架に向けてエルサレムに入城されるとき、ロバに乗って入られたのでありました。主イエスはそのエルサレムで、政治的な意味での「ユダヤ人の王」にはなられませんでしたが、本来の意味で、つまり、愛の十字架によって全世界を御支配なさる神の国の王という意味で、「ユダヤ人の王」であるだけでなく、王の中の王、人類全体の王となられたのであります。ここにも、ダビデ王の時代以来伝えられて来た御言葉が実現したのを見ることが出来るのであります。
 

3.衣服を分け、くじを引く(詩編2219

次に、今日の第三番目の記述である2324節には、兵士たちが主イエスの衣服を分け合ったという事実が書かれています。十字架で処刑された犯罪人の衣服を分け合うということは、処刑にかかわった兵士たちに認められていたことだそうであります。兵士たちは最初、上着をはぎ取って、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにしました。次に、下着もとってみましたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りという上等なものであったので、裂いてしまうと値打ちがなくなるので、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合って分けたのであります。他愛ないというか、浅ましい兵士たちの姿が描かれているのですが、ヨハネがそんなことを書いたのは、24節にありますように、それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった、ということを言いたかったからであります。
 その聖書の言葉というのは、先程朗読していただいた詩編の22編の19節であります。この詩編22編というのは、主イエスが十字架上で叫ばれた「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ1534)という言葉が2節で預言されていることで知られているものですが、その同じ詩編22編の19節に「わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く」と記されていたのであります。この旧約聖書の言葉が実現したということは、この時十字架の傍らで行われていることが、決して偶然に起こったことではなくて、全て神様の御計画の中で起こっているのだということをヨハネは告げようとしているのであります。兵士たちは十字架に架かっている主イエスの苦しみなどお構いなしに、浅ましいことに興じているわけですが、そのことは彼らだけでなく、人間は今も、主イエスの十字架のことなどお構いなしに、自分たちの欲望を満たすために勝手なことをしているのではないでしょうか。主イエスはそのような浅ましい人間の欲望と罪の現実を、今も耐え忍びつつ、十字架の愛を私たちに注ぎ続けてくださっているのであります。ルカ福音書によれば、十字架上の主イエスが、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ2334)と祈られたことを記しています。これは、御自分を十字架につけた人たちのために祈られた言葉でありますが、それはまた、足もとでくじに興じている兵士たちのためでもあり、私たちのためでもあります。主イエスは罪に気づかないでいる私たちのためにも、十字架の苦しみを負いつつ、このように祈っていてくださるのであります。

4.ここにわたしの母、兄弟がいる(マルコ33335

最後に、25節以下の記述ですが、ここには、十字架のそばにいた女の弟子たちと「愛する弟子」と書かれている一人の男の弟子に語られた主イエスの言葉が記されています。
 これは、衣服を分け合った兵士たちの姿と対照的であります。兵士たちが十字架上の主イエスの御苦しみに何の関心も払っていなかったのに対して、イエスの母マリアをはじめ、ガリラヤ以来主イエスの身の回りの世話をしてついて来た婦人たちは、今、胸を引き裂かれるような思いで、主イエスの御様子を見守っていたことでありましょう。男の弟子たちの殆んどは、この場におらず、逃げ去ってしまった中で、この婦人たちは主イエスのもとを離れなかったのであります。挙げられている名前は福音書によって多少の違いがありますが、ここで「母の姉妹」と書かれているのは、恐らく弟子ヤコブとヨハネ兄弟の母で、サロメという名で他の福音書に出て来る人と同一人物であろうとされています。これらの婦人のほかに、このヨハネ福音書では、「愛する弟子」と記されている男の弟子がいるのですが、これは筆者のヨハネ自身のことではないかと言われています。
 
さて、主イエスはこの愛する弟子を見て、母マリアに言われました。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」そして27節を見ると、その弟子に、「見なさい。あなたの母です」と言われて、そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取ったというのであります。――これは美しい光景であります。最後の別れに当たって、主イエスは御自分のお母さんのことを弟子に託されました。
 しかし、ここで主イエスが「婦人よ」という言い方をされていることに注目しなければなりません。御自分の母親に対して冷たい言い方でありますが、主イエスはこのような言い方を、以前にもされています。<カナの婚礼>の席で、ぶどう酒が足りなくなって、マリアが心配して主イエスに訴えますと、主イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ24)と言われました。また、家を出て帰って来ない主イエスを心配してやって来た母や兄弟たちに向かって、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と言われ、周りに座っている人々を見回して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とおっしゃいました。(マルコ33335)これらは、主イエスが人間の血縁関係など人間的な関係に頼るのではなく、主イエスの御心を行うすべての者と、肉親以上の関係を結ばれるということを示されたのでありました。今、主イエスは十字架の出来事を通して、主イエスを中心とする新しい関係を築こうとされているのであります。これは主イエスを中心とする新しい共同体、即ち、教会の形成であります。かつて、「わたしの時はまだ来ていません」と言われ、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」とおっしゃった御言葉が、ここに実現しようとしているのであります。

結.成し遂げられる救いの御言葉

今日は、主イエスの十字架をめぐって行われた四つの出来事において何が起こったのかを見て参りました。一つは、主イエスが自ら十字架を背負い、二人の犯罪人と共に、罪人の一人となられたことで、イザヤ書で預言されていた「罪人のひとりに数えられた」という御言葉が実現したということ。二つ目は、ピラトが罪状書きとして書いた「ユダヤ人の王」ということが、計らずも、預言者ナタンが預言し、天使ガブリエルがマリアに告げたことの実現であるということ。三つ目は、兵士たちが衣服を分け合い、くじを引いたことが、文字通り詩編で言われていたことの実現であり、罪に気づいていない者たちをも含めた救いの実現であるということ。そして四つ目は、この十字架の事実と復活の恵みを全世界に伝える新しい共同体の形成が、主があらかじめ語っておられた御言葉のとおりに実現することになる、ということであります。
 このような、十字架による御言葉の実現ということは、実は、次週に聴く28節以下の箇所でも、「成し遂げられた」という形で語られているのでありますが、このように、聖書の中に預言され、主イエスによって語られ、そして弟子たちによって伝えられた御言葉は、主イエスの十字架と復活によって実現し、それは私たちの中にも実現しつつあるということであります。そしてそのことは、主イエスが天に昇られるに当たって言われた、終わりの日に再び来て、救いを完成されるという約束の御言葉も、必ず実現することの保証であります。それゆえ私たちは、こうして十字架の出来事を通して、私たちに約束されている救いの実現を確信することが出来るのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 主イエスは、罪人の一人として自ら十字架にお架かりになることによって、神の国の王となって私たちを招き入れ、罪の内にありつつそのことに気づかない者をも赦してくださり、天の家族に加えられる、との約束をしてくださったことを覚えて感謝いたします。
 
どうか、主の御業によって裏付けられた確かな御言葉を、生涯聴き続け、信じ続ける者とならせて下さい。どうか、あなたによって呼びかけられている者が、一人も欠けることなく、御国に入れられますように、私たちの信仰を育み、支え、導いてください。 
 十字架の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2014年3月9日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書 19−19:16bー27
 説教題:「
十字架で実現した御言葉」         説教リストに戻る