ピラトは言った。「…お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。」
                                (ヨハネ191011 

 祭司長をはじめユダヤ人たちは主イエスを十字架に架けたいのだが、死刑にする権限はローマ総督にあるので、彼らは主イエスを総督ピラトに引き渡した。しかし、ピラトは、主イエスに何の罪も見出すことが出来ない。さりとて、無罪だとして釈放すると、ユダヤ人たちを押さえきれない。そこで、過越祭には一人の犯罪者を釈放する慣習があることを持ち出して、「あのユダヤ人(イエス)を釈放してほしいか」と問いかけたが、彼らは「その男ではない。バラバを」と言って、ローマに抵抗した犯罪者の釈放を要求した。そこでピラトは主イエスを鞭で打たせ、兵士たちは茨の王冠を載せるなどして侮辱を加えた。そのように扱えば、十字架につけなくともユダヤ人たちも納得するかと思ったからである。だが、彼らはあくまでも「十字架につけろ」と叫び、「律法によれば、この男は死罪に当たる」と主張する。ピラトは罪のない者を殺すことを恐れて、釈放しようと努めたが、ユダヤ人たちが「この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない」と叫ぶと、自分の身を守るために、遂に十字架につけるために引き渡した。
 このように、主イエスは、ユダヤ人たちとピラトの自分中心の思惑、自己保身、無責任などが交錯する中で、法的な根拠が曖昧なまま、十字架につけられることになった。
 だが、その過程の中で、ピラトが主イエスに標記のように迫って、結着をつける手掛かりを得ようとしたが、主は「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」と答えられた。ここに、主イエスを十字架につけるのは他でもなく神であることが明言されている。それは、神が人間の罪を誘導されたということではなく、ユダヤ人たちやピラトや、そして私たちの罪の問題を解決するために、神がキリストの十字架の御業を進められたということである。更には、ピラトは主イエスに何の罪もないことを三度も証言し、王の装束をつけた主を「見よ、この男だ」と言って、主イエスが王であることを指し示す役割さえ果たした。神は人間の罪の業を救いの業へと逆転される権限さえ持っておられるのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2014年3月2日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書 18:38b−19:16a 
 説教題:「
十字架につけたのは誰か」 説教リストに戻る