序.十字架につけたのは誰か

今日、この礼拝のために神様が備えてくださいました聖書の御言葉は、ヨハネ福音書1838節の途中から19章の16節までの箇所であります。この箇所の小見出しは「死刑の判決を受ける」となっております。ところが、中を読みましても、「死刑に処する」とか「十字架刑の処する」といった判決の言い渡しは見当たりません。最後の16節に、そこでピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した、とあるだけであります。実際は言い渡しがあったのだけれども、この福音書の記者が書かなかっただけかもしれません。しかし、この箇所全体を読みますと、十字架刑に処する権限を有する総督ピラトは主イエスに何の罪を見出すことも出来ないまま、訴えたユダヤ人たちの「十字架につけろ」との声に押されて、主イエスを彼らに引き渡したということであります。罪状は次の17節以下の段落を読み進むと、十字架の上に「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書きが掲げられていたようですから、主が自分のことを「ユダヤ人の王」と自称したのが、国家反逆罪に当たるということでしょう。しかし、先々週に聞きましたように、主イエスの国はこの世に属する国ではなくて、神の国であります。当時のユダヤの国やローマ帝国に対して反逆なさったわけではありません。訴えたユダヤ人たちは、7節で、「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」と言っておりますが、それは宗教上の理由であって、異邦人のピラトにとっては関知しないことであります。そのことで、治安が乱されることがなければ、問題はないのであります。そういうわけで、十字架刑に当たる明確な罪状が見出せないまま、十字架へと引き渡されたのであります。なぜ、そうなったのでしょうか。そこには人間の醜い罪の姿を見ることができます。
 ここに登場するのは、主イエスを訴えたユダヤ人たち、具体的には祭司長たちやその下役たち、ローマ総督ピラトと兵士たちであります。彼らの自分中心の思惑、自己保身、無責任などが交錯する中で、法的な根拠は曖昧なまま十字架への引き渡しが進んだのであります。――しかし、そのことは、その場にいた者たちだけの責任に帰せられるものではありません。人間全体の罪がそこに凝縮されたと言ってよいのではないかと思います。もし私たちも、その時代に生き、その場にいたら同じようなことをしたのではないかと思いますし、今も私たちの生き方や信仰生活の中で、主イエスに対して同じようなことをしてしまっているのではないかと思います。今日の説教の題を「十字架につけたのは誰か」と致しました。主イエスを十字架につけたのは、ユダヤ人たちであり、総督ピラトや兵士たちでありますが、私たちもそこに加わっているのではないか、ということであります。そのことを、今日の聖書の箇所を辿りながら、思いめぐらしてみたいと思います。

1.ピラトと私たち

まず、ローマ総督ピラトから見て参りたいと思います。
 
先々週に聴いた18章の38節までの箇所では、主イエスとピラトの対話が記されていました。そこではピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と問い質しております。それは、もし主イエスが王であることを主張するなら、国家反逆罪として処罰する理由になるからであります。しかし、主イエスは「わたしの国は、この世には属していない」と明言されました。それは、神の国の王であることを認めながらも、この世の国の王ではない、ということでした。こういったやり取りがあって、今日の箇所の最初で、ピラトはユダヤ人たちが待ち構えていた屋敷の外に出て来て、こう言っております。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。」――主イエスはユダヤの王に対してもローマ皇帝に対しても反逆するような存在ではないので、これを処罰する法的な根拠を見出すことが出来ない、ということであります。同様のことは、4節でも6節でも言っております。福音書の記者は、それを3回も記すことによって、主イエスは十字架に当たる罪は何もないのに殺されたのだということを、ここではっきりさせているのであります。
 主イエスに罪のないことが明確であれば、ピラトはここで主イエスを釈放すべきであります。しかし、彼はユダヤ人たちの訴えをはねつけることも出来ないのであります。そして一つの策を考えます。39節にあるように、過越祭には囚人を釈放する慣例があるので、その慣例に従って主イエスを解放しようと提案します。無罪の宣言をするのでなくて、一旦は有罪としたら、ユダヤ人たちは納得するだろうと考えたのです。しかし、ピラトの思惑に反して、彼らには受け入れられず、却って「その男ではない。バラバを」という声が返って来ます。このバラバは強盗であったと書かれていますが、ただの窃盗犯ではなく、他の福音書では暴動と殺人の罪を犯した者であったとされています。ローマの支配に抵抗するテロリストであります。彼らは強盗もしたかもしれませんが、ユダヤ人にとっては、いわば民族の英雄でもあります。ユダヤ人たちは、そちらの犯罪人の釈放を願ったのであります。彼らは主イエスによって罪から解放されて神の国に入れられることよりも、民族運動によってローマの支配から解放されることをひそかに期待していたのであります。ピラトはそのことを読み違えました。
 
そこでピラトは、今度はイエスを捕え、鞭で打たせました。なぜピラトは、何の罪も見出せない主イエスを解放するのでなくて、捕えて鞭で打たせたのでしょう。当時のローマ式の鞭打ちというのは、鞭の先に金具が取り付けてあって、鞭で打つたびに、それが肉を剥ぐような残酷なものでありました。肉を削がれ、血だらけになった主イエスの姿をユダヤ人たちに見せれば、彼らを喜ばせることが出来るし、十字架に架けずに釈放することにも同意するのではないか、という思惑があったのではないかと思われます。これは自分の正義を貫くという態度ではなくて、ユダヤ人を満足させながら、良心の咎めを免れることもできるという、妥協的な道を取ろうとしているのであります。
 2節によると、兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った、とあります。これは主をあざける行為であります。イエスが王ではないということがはっきりしたと思って、笑い種にしているのであります。そうした兵士の行為をピラトも黙認しています。そしてピラトは、そんな姿の主イエスをユダヤ人たちの前に突き出して、「見よ、この男だ」と言っております。〈こんなにされても何の力も出せないような情けない者を見なさい〉、と言って十字架に架けることに拘っているユダヤ人たちをも馬鹿にしているのであります。
 
しかし、祭司長たちや下役たちは、そんな主イエスを見ても、「十字架につけろ」と叫び続けます。ピラトが再度、「わたしはこの男に罪を見出せない」と言いますと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」と答えます。8節を見ると、ピラトはこの言葉を聞いてますます恐れたとあります。ピラトは何を恐れたのでしょう。自分が死刑判決をくだすことから逃れられないことを恐れたのかもしれません。それは、ユダヤ人たちの圧力に屈することになるからです。しかし、ピラトが恐れたのはそれだけではないでしょう。主イエスに「お前はどこから来たのか」と問うております。主イエスが得体のしれない超越的な存在であるように感じたのでしょう。しかし、この問いに対して主イエスは答えようとされませんでした。既に18章の対話の中でお答えになっているからであります。するとピラトは苛立って、「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と言って、自分の死刑執行権を振りかざして、脅します。これに対して主イエスは、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」とお答えになります。このお言葉こそ、この裁判の本質を語っておられます。そのことはまた後程述べますが、ピラトはこの言葉に一層恐れを覚えたに違いありません。そこで12節にあるように、イエスを釈放しようと努めます。けれども、ユダヤ人たちが「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」と叫ぶのを聞くと、ピラトは主イエスを裁判の席に着かせて、「見よ、あなたたちの王だ」と言います。すると、ユダヤ人たちは、「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と叫び、ついには、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」とまで言います。皇帝を持ち出して脅迫されてはピラトも何も言えなくなって、ついに主イエスを彼らに引き渡すのであります。
 
ピラトはこの裁判で、正しい判断をする立場を与えられていました。主イエスに罪がないことも分かっておりました。主イエスには神からの力が働いていることも感じて、恐れさえ覚えておりました。しかし、ユダヤ人たちの訴えを押さえることが出来ないと分かると、与えられている権限を行使することも出来ず、妥協の道を選びました。「この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない」と決定的なことを言われると、自分の立場を失うことを恐れて、正しく裁くべき本来の責任を放棄して、主イエスを引き渡してしまうのであります。
 
このようなピラトの姿は、2000年の昔に特別な立場にあった人だけのものでしょうか。私たちも、聖書を通して、また礼拝において、主イエスのことを知らされて来ております。主イエスが神から遣わされたお方であることも、それなりに承知しております。しかし、主イエスを信頼して自分のすべてを委ねることと、もう一方の、この世で獲得している自分の立場や楽しみを守ることとの間で、妥協的な生き方や行動をしてしまっているのではないでしょうか。何が正しい道であるかが分かっておりながら、この世の習慣や欲望や人間関係との間で、言い訳をしながら妥協をしてしまって、結局はこの世に対してキリストを証しすることが出来ないようなことになっている。そして、主イエスお一人を十字架に追いやっているのではないでしょうか。

2.ユダヤ人たちと私たち

次に、主イエスを訴えたユダヤ人たちの姿を見て参ります。
 彼らは、自分たちこそ律法に従って正しい生き方をしていると考えていました。彼らにとって、自分たちの過ちを指摘する主イエスは邪魔な存在でありました。ですから、初めから主イエスを亡き者にしようとしていました。実は、私たちにとっても主イエスがそのような、少々迷惑な存在になっていることがあるのではないでしょうか。
 
1838節で、ピラトが「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と言って、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいか」と問いかけた時に、ユダヤ人たちは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返しました。ローマの圧力のもとにあったユダヤ人にとって、表向きローマに逆らうことは出来ませんでした。そうした中で、バラバのように非合法な形でローマに抵抗する人たちは陰の英雄でありました。それに対して主イエスの語られる福音は、間違っている人たちを擁護し、自分たちの正しさを否定するように思えて、疎ましい存在でありました。私たちも日頃、誰からも後ろ指を指されないような正しい生活をしていると思っております。しかし、教会に来て、聖書の言葉を聞くと、いつも自分たちの罪が指摘されて、悔い改めが求められます。それよりも、自分たちのことを評価してくれる教えに従って、勇ましく悪に挑戦したり、世のため人のために役立つ良い業をして、人々から褒められる生き方をする方が魅力的に思えるのであります。だから、主イエスを選ぶよりもバラバを選んでしまうのであります。
 19章の6節で、ピラトが主イエスをユダヤ人の前に突き出して、「見よ、この男だ」と言った時も、彼らは「十字架につけろ」と叫びました。彼らは、自分たちの立場を無くするように思われた主イエスを、あくまでも排除しようとします。そして、「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」と言って、神の子と出会っているのに、自分の正しさだけを主張して、本当の神の子を受け入れることが出来ないのであります。自分で自分を救おうとしているからであります。主イエスを救い主だとしている筈の私たちも、そういうところがあるのではないでしょうか。自分はちゃんと礼拝を守っています。聖書の教えを完全に守っているとは言えないまでも、教えに添うように努力しています。人の役に立つ奉仕的な活動もしています。私たちはもちろん表立って主イエスを否定することはありませんが、主イエスなしでもやっていけるような傲慢な心が、いつの間にか私たちを占領してしまっていないでしょうか。主イエスの御言葉の前に、ただ跪くしかないような存在であることを忘れてしまっていることがあるのではないでしょうか。それは、主イエスを十字架につける心であります。
 
14節で、ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言いました。これは痛烈な皮肉であります。もちろんピラトは主イエスを王だと認めているわけではありません。あくまでも軽蔑しているのであります。〈あなたがたはこんなつまらない男を恐れて、振り回されている。そして皇帝の権力で十字架につけてもらおうとしている。こんな男を自分たちで始末出来ないのか。それなら、この男はあなたの王ではないか。〉――こう皮肉っているのであります。しかし、ユダヤ人たちは、「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と叫びます。ピラトはもう一度、皮肉たっぷりに、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言います。すると、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えます。彼らは主なる神こそが自分たちの王だと信じている筈でありますが、ここに来て、ローマ皇帝こそが自分たちの王だと公言しているのであります。彼らは真の王を王とせずに、この世の権力者を王として、自分たちの信仰をも放棄してしまっているのであります。
 
私たちもまた、自分の正しさを主張し、この世の地位や名誉、この世の富や楽しみを求めているとき、いつの間にか、そうしたものを自分の王にしてしまうのであります。そして、真の王が邪魔になって、自分の生活の中から、排除しようとしてしまうのであります。

3.神の権限

ここまで、主イエスを十字架につけたのは、自分たちの正しさを主張して、邪魔者を排除したかったユダヤ人たちと、優柔不断で自己保身しか考えない無責任なピラトであったということ、そして、それらは私たちの姿をも映し出していて、私たちも主イエスを十字架に追いやる者であるということを見て参りました。主イエスを十字架につけたのは、自分たちの中から神様の干渉を排除しようとする人間の罪が原因であるということであります。
 
しかし、聖書はもっと深い、本当の理由を語っているのであります。10節のところで、ピラトが「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と言いました。これは、罪深い人間を代表するような発言であります。私たちは、神様が遣わしてくださった神の子主イエスを受け入れるか捨てるかの権限は自分にあると思っているのであります。しかし、このピラトの言葉に対して主イエスはこう答えられるのであります。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。」つまり、ローマ総督のピラトであろうと、祭司長やユダヤ人たちであろうと、主イエスに対して何の権限もない。ただ神様だけが、主イエスをどうするのかをお決めになることが出来るのだ、ということです。これこそが、主イエスが十字架につけられた本当の理由なのであります。神様が権限を持っておられるのです。神様がお決めになったことに、主イエスは従っておられるのであります。この神様の決定を覆すことは、総督ピラトであろうと、祭司長やユダヤ人たちであろうと出来ませんし、当然、私たちにも出来るわけがないのであります。もちろん、神様が人間たちの罪を誘導されたということではありません。人間は神様の干渉を排除しようとします。しかし、神様は御子イエス・キリストによる十字架の御業を進められたのであります。

4. あなたたちの王

更にこの箇所の出来事を深く見ますと、自分の権限を主張したピラトが、神様の権限のもとで用いられて、主イエスを証しする重要な役割を与えられているということであります。ピラトは「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」ということを三度も明言しております。これは、法的に見て、死罪に当たる何の罪も見出せないという意味ですが、更に言えば、主イエスはその御生涯において何の罪もない、ただ一人のお方であるということを指し示しています。また、ピラトは1839節の中で、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいか」と言い、19章の14節、15節でも、ユダヤ人たちに向かって「あなたたちの王」という言い方をしております。もちろんピラトは本気で主イエスがユダヤ人の王だとは思っていなくて、自分こそユダヤの支配者であると思っていて、あなたがたは、こんな何の力もない哀れな男に振り回されているのか、と皮肉を込めて言っているだけなのですが、しかし、そのピラトの言った「あなたたちの王」という言葉こそ、ピラトの思いを越えて真実を語っているのであります。主イエスこそユダヤ人の王であり、私たちの本当の王なのであります。

結.「見よ、この男だ」

最後に、もう一度、5節でピラトが言った「見よ、この男だ」という言葉に注目したいと思います。そこに出て来られているのは、鞭で打たれて血まみれになり、頭には茨の冠をかぶされ、王の印である紫の服をまとわされた主イエスであります。ピラトはその主イエスを指して、「見よ、この男だ」と言うのです。ここの「この男」と訳されている言葉は、口語訳聖書では「この人」となっていました。原文は、「人間」という言葉を用いているのです。〈人間の中の人間〉、〈この人こそ、人間中の本当の人間〉という意味が含まれているのです。もちろん、ピラトはそんなつもりで言ったわけではありませんが、このみすぼらしい姿の主イエスこそ真の王である方であり、この人をこそ「見よ」と、期せずして語っているのであります。先程朗読していただいたイザヤ書50章の4節以下は「主の僕の歌」と呼ばれるものの一つですが、その6節には、「打とうとする者には背中をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」とあります。また、イザヤ書53章も主の僕の歌ですが、23節を見ると、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い」と記されています。これらは主イエスを証ししているとされている箇所であります。正にピラトによって「見よ、この男だ」と言われている主イエスの御姿と一致するのでありますが、この主の僕こそ、ユダヤ人の王であり、私たちの本当の王なのであります。私たちはこのお方をこそ、救い主、真の王と仰ぐのであります。
 祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
私たちの優柔不断、自己保身、無責任の罪の故に、御子が辱めを受け、十字架につけられておられます。そんな主イエスを脇に置いて、私たちはもっと晴れやかなもの、自分を喜ばすものに目と心を奪われております。そのような罪深い私たちを、今日は、主の御許に呼び寄せて、十字架の恵みをお示しくださいましたことを感謝いたします。
 
どうか、この主を私たちの王として崇め、この主につき従って行く者とならせてください。どうか、私たちのような罪深い者にも、主を証しする者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2014年3月2日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書 18:38b−19:16b
 説教題:「
十字架につけたのは誰か」         説教リストに戻る