序.厳しい審きの言葉の前で

イザヤ書は毎月一回1章ずつ取り上げて参りました。イザヤ書全巻で66章まである中で、39章まで来ました。イザヤ書は大きく三つの部分に分けられると言われています。その最初が1章から今日の39章までで、これは紀元前8世紀に活動した預言者イザヤの言葉を中心としたものとされていますが、次の40章から55章までは紀元前6世紀後半の無名の預言者の言葉が中心で、第二イザヤと呼ばれます。そして、56章から66章は捕囚後のエルサレムで活動した預言者の言葉で、第三イザヤと呼ばれています。
 そういうわけで、今日の箇所は本来のイザヤ書の最後の箇所になるわけですが、編集段階で、第二イザヤに橋渡しするために、出来事としては少し以前にあったことをここに持って来ております。今日の箇所は、小見出しにもあるように、病から回復したヒゼキヤ王を東の国バビロンから来た使者が見舞ったという出来事が書かれています。この出来事は、3637章にあった、アッシリア王センナケリブによる攻撃より以前のことであると考えられています。その出来事がなぜここに入れられたかということについては、後で述べることにします。
 
さて、今日の箇所は、バビロン王の使者が回復見舞いに来たことを喜んだヒゼキヤ王が、喜んでユダの国の宝物や武器などを全部彼らに見せたことに対して、イザヤが神様の厳しい審きの言葉を告げたことが記されています。その審きとは、見せびらかした宝物が全部、バビロンに運び込まれ、王の息子の中にバビロンに連れて行かれる者がいる、ということで、それは後に起こるバビロン捕囚の預言であります。
 ところで、神様は、私たちが人生の中で犯す過ち()に対して、厳しい審きを下されることがあります。また、聖書の中には、私たちの不信仰や誤った行動に対する、恐ろしい審きの言葉が語られています。そうした、審きの言葉や審きの出来事をどう受け止めたらよいのか、――そのことを今日の箇所から聴き取りたいのであります。

1.信頼と同盟の間に揺れる

最初にヒゼキヤ王のことを振り返っておきましょう。
 
南王国ユダの王ヒゼキヤは紀元前728年に25歳で王位を継いで、紀元前700年まで29年間ユダを治めました。列王記や歴代誌には、歴代の王に対する評価が記してあるのですが、ヒゼキヤは「主の目にかなう正しいことをことごとく行なった」と高く評価されている王で、神殿の修復を開始したり、国内の偶像を破壊して宗教改革を断行しました。また、エルサレムの水を確保するためにシロアムに貯水場をつくり、そこまで水を引くトンネルを建設するなど、街づくりにも貢献し、物質的な繁栄の時代を築いた王でもあります。しかし、政治的には非常に困難な時代の王で、アッシリア帝国が地中海沿岸諸国に対して強い圧力を持っていましたので、ヒゼキヤ王は周辺諸国と反アッシリア同盟を結んで抵抗し、更に大国エジプトを頼んで同盟を結ぼうといたしました。しかし、預言者イザヤはこうした同盟政策には反対でした。イザヤが反対というよりも、主が守ってくださるとの御言葉に信頼することを求めたのであります。以前に聴いたイザヤの言葉に、こんなものがありました。「静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。」(イザヤ3015)このような主の御言葉に信頼することと、周辺国と同盟を結ぶこととの間で心が揺れている時に、ついに、アッシリア軍がユダの地に攻め込んで来て、エルサレムが包囲されるようなことになります。そうした中で、ヒゼキア王が死の病にかかるというのが、前回の38章でありました。ところが、ヒゼキヤが涙を流して必死に祈ったところ、神様はヒゼキヤの祈りを聞いて、寿命を十五年延ばしてくださったのであります。そこから、今日の話に続きます。

2.バビロンからの見舞客

1節にはこう書かれています。そのころ、バビロンの王、バルアダンの子メロダク・バルアダンがヒゼキヤに手紙と贈り物を送って来た。病気であった彼が健康を回復したことを聞いたからである。
 
当時の近東地域の大国はアッシリアでありまして、バビロンは力をつけつつあった段階で、アッシリアに対抗して何度か戦争を仕掛けていました。この時バビロンの王がヒゼキヤ王に手紙と贈り物を送って来たのは、友好関係を深めて、同盟してアッシリアに対抗しようというねらいがあったと考えられます。
 
これに対してヒゼキヤがどう対応したのかが、2節に書かれています。ヒゼキヤは使者たちを歓迎し、銀、金、香料、上等の油など宝物庫と、武器庫、倉庫にある一切の物を彼らに見せた。ヒゼキヤが彼らに見せなかったものは、宮中はもとより国中にひとつもなかった。
 
ヒゼキヤは勢力を伸ばしつつあるバビロンが弱小国であるユダを認めてくれたことがうれしかったのか、自分たちのありったけのものを見せるのであります。おそらくバビロンからの使節団は、ユダの国力を探ろうという思惑があったと思われますが、求めに応じて、武器庫まで見せてしまいます。軽率と言わざるを得ません。しかし、これは単に指導者として軽率であるというだけではありません。おそらくヒゼキヤは、バビロンに認めてもらって同盟を結ぶことができたら、アッシリアの圧力への抵抗力を強められる、という思いがあったと思われます。けれども、神様の守りを信じないで、周辺国と同盟関係を結ぶことによってアッシリアに対抗しようとすることの過ちに気づいていなかったのであります。ヒゼキヤは寿命を十五年延ばすとの約束を神様からいただいた時に、寿命のことだけではなくて、「アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはこの都を守り抜く」(386)という言葉もいただいておりました。恐らくヒゼキヤは、その約束のことは忘れて、バビロンとどう付き合ったら良いのかについて神様に祈って御心を伺うことも怠ったのではないでしょうか。そして、神様の言葉を信じないで、この世の力に頼って、難局を乗り越えようとしたのでしょう。

3.審きの言葉

預言者イザヤは、そんな来客があったことを聞きつけたのでしょう。ヒゼキヤ王のところに来て、どこから訪ねて来たのか、何を見せたのかと王に問い質します。ヒゼキヤは、「王宮にあるものは何もかも見せました。倉庫の中のものも見せなかったものは何一つありません」と答えています。ヒゼキヤは自分のしたことの過ちに気づいていません。むしろ、誇らしげに答えています。
 
そんなヒゼキヤに対して、イザヤはきっぱりと神様の御言葉を伝えます。「万軍の主の言葉を聞きなさい。王宮にあるもの、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る、と主は言われる。あなたから生まれた息子の中には、バビロン王の宮殿に連れて行かれ、宦官にされる者もある。」57節)
 
これは厳しい審きの宣告であります。見せびらかした先祖伝来の財産が、アッシリアにではなくて友好関係を結んだと思っているバビロンに略奪されるということです。更に、王の息子たちも異邦人の国であるバビロンの王に仕える者にされる、いわゆる捕囚の身になるということであります。――これらのことは、その後、実際に起こることになります。このことの後、3637章に書かれていたように、アッシリア王センナケリブによってエルサレムは包囲されるところまで追い詰められ、重い貢物を支払わねばならないことになります。ところがある朝起きてみると、アッシリアの陣営の185千人が撃たれて死んでしまうという奇跡的な出来事によって、この時は陥落を免れます。しかし、それから百年余り経った紀元前597(もちろんヒゼキヤ王が亡くなった後ですが)、バビロンに起こった新バビロニア帝国がエルサレムを占領、その後、徹底的な破壊を行い紀元前587年にユダ王国は滅びます。そして、イザヤが預言したように、主だった人たちがバビロンに連れて行かれるという、いわゆるバビロン捕囚が行われることになるのであります。
 さて、これらのことから私たちは何を学ばなければならないでしょうか。私たちも、人生の中で難局に遭遇することがあります。私たちは知恵を働かせ、また周囲の様々な力を借りて、難局を乗り越えようといたします。しかし、その時に忘れてならないのは、神様によって守られていて、最善の道が備えられるということであります。私たちは、まず祈って、神様の御心を尋ねる必要があります。もっとも、神様に祈っていたら、何もせずにお任せしておればよい、ということではありません。人間の知恵を働かせ、色々な人の助けを受けるということも必要であります。しかし、まず神様の御心を問い、神様に守りをお願いすることを怠っては、審きを受ける結果に終わらざるを得ないということであります。ヒゼキヤは、神様を信じ、大胆な宗教改革も行い、ユダ王国の繁栄にも貢献した優れた王でありましたが、肝心なところで、以前からイザヤを通して聞いていた神様の御言葉を思い起こし、それに信頼することを疎かにしてしまったのであります。詩編81編にこんな言葉があります。神様の嘆きが歌われています。
 
しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず
 
イスラエルはわたしを求めなかった。
 
わたしは頑な心の彼らを突き放し
 
思いのままに歩かせた。
 
わたしの民がわたしに聞き従い
 
イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
 
わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ
 
彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。
                  (詩編811215

4.審きの先にあるもの

ところで、イザヤが告げた審きの宣言に対して、8節でヒゼキヤはこう言っております。「あなたの告げる主の言葉はありがたいものです」と答えた。彼は、自分の在世中は平和と安定が続くと思っていた。
 ここは非常に難解であります。「あなたの告げる主の言葉はありがたいものです」とはどういう意味でしょうか。普通に考えれば、ありがたい筈がありません。一つの解釈はこうです。その後に「彼は、自分の在世中は平和と安定が続くと思っていた」とありますように、ヒゼキヤ自身は寿命を十五年延長してもらって、その間は386節にあったように、「あなたとこの都を救い出す。わたしはこの都を守り抜く」と言われていたので、少なくとも在世中は平和と安定が続くので「ありがたい」と言っているのだ、という解釈です。しかし、これでは、ヒゼキヤ王の利己的で無責任な態度にがっかりさせられるだけです。しかし、そのようなことをここでありのままに記しているのは、人間という者は、偉大な王とされ、信仰的とされたヒゼキヤ王でさえもこれほど自分中心的にしか考えられないものであり、神の厳しい審きを受けざるを得ない者だということを語ろうとしている、と受け止めることが出来ます。私たちはこのヒゼキヤ王の姿の中に、自分の罪深い姿を見なければならない、ということでしょうか。昨年の多田先生による修養会の講演で学んだ一つのことは、礼拝というのは、そのたびに自分の死を確認することだ、ということでありました。多田先生は今年の主題聖句であるローマの信徒への手紙121の言葉を取り上げられました。そこでは、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と勧められています。礼拝とは、自分が死すべきものであることを確認し、自分の死を経験する場である、ということであります。今日の礼拝においても、ヒゼキヤの態度を通して私たちが覚えるべきことは、私たちもヒゼキヤのように不信仰で利己的であって、死の審きを受けるしかない者である、ということであります。ヒゼキヤの利己的な姿を見て、自分の姿を知るというのが、8節の一つの読み方です。
 しかし、イザヤ書がここで語ろうとしているのは、それだけではないように思います。「ありがたい」と訳されている言葉は、「結構です」とも訳せます。ですから、イザヤが告げた審きの宣言を、ヒゼキヤは自分の愚かさ・不信仰の結果として「結構です」と言って受け入れている、というように読むことが出来ます。そうであれば、ヒゼキヤは自分の過ちに気づいているわけですから、神様の厳しい審きの言葉の前に自分が死すべき者であるということを認めているということになります。多田先生がおっしゃる死の経験をしているのです。その上で、なお十五年も生かしていただけるということは「有難い」「結構なことだ」という意味にも受け取れるわけであります。しかし、イザヤが語ろうとしていることには、それだけではなく、もっと先を見据えた、大きなメッセージが込められているように思います。次の40章に目を転じていただきますと、小見出しは「帰還の約束」となっていまして、バビロン捕囚からの解放の約束が述べられているのであります。12節を読んでみます。
 慰めよ、わたしの民を慰めよと
 
あなたたちの神は言われる。
 
エルサレムの心に語りかけ
 
彼女に呼びかけよ
 
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
 
罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。
                     
12節)
 40章以下の第二イザヤと呼ばれる部分は、ユダの人々がバビロンで捕囚中に語られたものではないかと言われています。ですから、39章の記述との間には時間的な隔たりがあるわけですけれども、これをつなぎ合わせて一つのイザヤ書にする段階では、398節の言葉と40章以下の預言が結び付けられていたのではないかということです。つまり、ヒゼキヤの言った「ありがたい」または「結構です」という言葉の中に、主の御心は審きで終わらない、審きの向こうには救いがあるということを読み取っていたのではないか、ということです。その証拠に、39章の「バビロンからの見舞客」の出来事は、歴史的にはもう少し前の出来事なのに、40章へのつなぎに持って来たのは、少なくとも編集者は、ヒゼキヤが裁きを受け入れたことと、バビロンからの帰還が結びついていると考えたからだと思われるのであります。確かに、ヒゼキヤの言った言葉は、彼の自己中心や見通しの甘さから出たものであったかもしれないのですが、主の御言葉は決して裁きでは終わらないのであります。裁きの向こうには、主の救いが備えられているのであります。
 私たちは、多田先生がおっしゃるように、礼拝において語られる御言葉によって、自らが罪深く、死すべき者であることを知らねばなりません。難局や苦難を受けても致し方のない者であり、死に向かうしかない者であります。しかし、主は審きだけをして終えられるお方ではありません。十字架の向こうには復活があるのであります。永遠の命を備えていてくださるのであります。私たちが新約聖書も含めて聞く御言葉は、その恵みに満ちた命の約束を語っているのであります。

結.主の言葉を聞きなさい

最後に、併読していただいた、ペトロの手紙二11621をもう一度ご覧ください。ここは112日の礼拝で聴いた箇所でありますが、ここでは再臨の預言のことが述べられています。その中の19節の言葉をもう一度聴きましょう。
 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意してください。(Uペトロ119
 イザヤはヒゼキヤ王に「万軍の主の言葉を聞きなさい」と言って、厳しい裁きの言葉を語りました。しかし、私たちは幸いなことに、今ペトロの手紙で聴きましたように、主イエスの再臨の時に与えられる永遠の命の約束をも与えられております。私たちはその約束の御言葉を明けの明星として、礼拝のたびごとに、聴き続けることが許されているのであります。ですから、心から「あなたの告げる主の言葉はありがたいものです」と言うことが出来るのであります。
 感謝して祈りましょう。

祈  り

恵み深い父なる神様!
 
今日も、イザヤの残した書を通して、あなたの厳しい審きとともに、恵みの約束の言葉を聴くことが出来まして、ありがとうございます。
 
私たちは、何とかして難局を乗り切ろうとして、様々な人間の力に頼ろうとして、あなたの確かな約束を見失ってしまいがちになる者であり、その愚かさと罪の故に、死すべきものであることを告白いたします。しかし、そのような私たちのために、キリストの十字架と復活の御業によって、救いを約束してくださったことを感謝いたします。
 
どうか、この命の御言葉を生涯、聴き続ける者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2014年2月23日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書 39:1−8
 説教題:「
主の言葉を聞きなさい」         説教リストに戻る