序.ピラトの尋問で何が起こっているのか

今年に入って、ヨハネによる福音書の終わりに近い、主イエスの受難の出来事を記した部分から御言葉を聴いて来ております。先週は弟子のペトロが「あなたは主イエスの弟子の一人ではないのか」と問われて、「違う」と答えて、主イエスを否認した場面から御言葉を聴きました。そのペトロへの問いかけは、今の私たちが問いかけられている問いでもあります。このような礼拝において問いかけられておりますし、私たちの日常生活の中でも、「あなたは主イエスの弟子の一人ではないのか」と問われているのであります。
 先々週は、主イエスが元大祭司のアンナスによって尋問された場面から御言葉を聴きました。裁いているのは大祭司であり、主イエスを訴えた律法学者・ファリサイ派の人たちであります。しかし、このことを通して、本当に裁かれるべきは、裁いている人たちであり、私たちであることが明らかにされました。しかし、裁かれるべき私たちに代わって、主イエスが裁かれることによって、私たちは罪の裁きから救われたのであります。このような礼拝は、私たちの罪が明らかにされ、裁かれる場でありますが、同時に、主イエスによる恵みの裁きが明らかにされる場でもあります。
 
今日の箇所は、主イエスがローマ総督ピラトのもとに引き渡されて、ピラトの尋問を受ける場面であります。訴えたのは大祭司や律法学者・ファリサイ派の人々であり、尋問しているのは当時の世界を牛耳っていたローマ皇帝から遣わされている総督ピラトであり、尋問されているのは主イエスであります。しかし、主イエスが尋問を受けているこの場面で起こっていることの真実は何でしょうか。そして、その尋問の場面に、このような礼拝の場で聖書を通して立ち会っている私たちに起こっていることは何なのでしょうか。一見、私たちとは何の関係もないように思われる、この尋問の場面によって、私たちもまた尋問され、裁きを受けているのであります。
 私たちは、それぞれのすばらしい人生のあり方や家族の幸せを求めております。しかし、その中で、難しい問題に直面したり、災いに出会って、大いに迷ったり、困難と戦ったりするのでありますが、そのことと、今日の聖書に書かれている主イエスが尋問を受けている出来事とは、一見何のつながりもないように思えるのであります。けれども、神様が今日、私たちにこの聖書の箇所を与えておられるのは、決して、聖書という古代の書物の興味や勉強のためではありません。訴えているユダヤ人たちや、尋問して裁こうとしている総督ピラトの中に、私たちの姿が描かれていることを知って、そこで尋問を受けている主イエスの愛が彼らにも、そして私たちにも迫っていることを覚えるために、この箇所の御言葉を神様は備えてくださっているのであります。そして、神様は、私たちがそれぞれの人生の中で抱えている問題に、最善の答えを与えようとしていてくださるのであります。そして、私たちを新しい道に導こうとしておられるのであります。――その答えの御言葉を、今日も共に聴いて参りたいと思います。

1.主イエスの引き渡し

先々週に聴きました箇所の最後の24節を見ますと、アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った、と書かれていました。ところが、先々週も申しましたように、ヨハネ福音書では現職の大祭司カイアファの尋問の内容は何も書かずに、28節前半では、人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った、とだけ記しております。他の三つの福音書では、大祭司カイアファによる裁判のことが記されていますが、そこでは、「お前は神の子、メシアか」という問いが投げかけられています。これに対する主イエスの答えは、(福音書によって若干の違いはありますが、)否定はされなかったので、大祭司は、神を冒涜しているので、これ以上の証言は必要がないとして、死に当たると結論づけるのであります。
 そのカイアファの裁判も非常に重要でありますが、ヨハネ福音書は何故か省略していますので、今日は、総督ピラトによる尋問に進みます。28節の冒頭の「人々は」というのは、これまでの流れからすると、祭司長やファリサイ派の人々であります。ところが、28節後半を見ますと、しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである、と記されています。ヨハネ福音書によりますと、この翌日(十字架の日)が過越の食事をする日なので、その前に異邦人の官邸に入ったら、汚れて過越しの食事が出来なくなると考えたということであります。彼らはこうして、自分たちの清さを保っているつもりなのですが、ここでしようとしていることは、神の子メシアを罪人と断じて、十字架に架けて殺そうということであります。彼らは自分たちこそ清くて正しいことをしていると思っているのですが、神様から来る清さとは全く逆のことをしようとしているのであります。ここに、人間の罪の惨めさが表れています。
 
私たちも、自分の清さや正しさを保とうと致します。何か悪いことが起こると、自分の清さや正しさに足りないところがあったのではないかと思って、諸々の伝統や宗教の教えに従って、清さと正しさを保とうといたします。しかし、私たちはもっと根深いところで汚れきっているのではないでしょうか。清さとか正しさは人間が作り上げたり、繕ったりするものであるよりは、神様から来るものです。神の子主イエスを疎かにして、本当の清さも正しさもある筈はありません。
 
さて、主イエスを連れて来た人々は、官邸の中に入らず、外にいます。ピラトはユダヤ人の習慣を心得ていますので、外まで出て来ます。そして、彼らに問います。「どういう罪でこの男を訴えるのか」と。すると彼らは答えます。「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう。」――ここでは具体的な罪状が述べられていません。ルカ福音書によれば、「この男はわが民族を惑わし、皇帝に納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」(ルカ232)と言っております。ここではそれが省略されています。しかし、ピラトはそれだけの理由では自分が裁かないといけないとは思わなかったようです。彼は、この問題はユダヤ人の内部の問題だと判断して、関わりたくなかったのかもしれません。そこで、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言います。するとユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言います。確かに当時、ローマの支配下にあって、十字架刑にするかどうかは、ローマ総督しか決められないこととされていました。しかし、十字架刑というのは、国家反逆罪の場合で、ピラトは後で見るように、必ずしも主イエスにそうした犯罪を認めていないのであります。ところが、訴えたユダヤ人たちは、ともかく主イエスを十字架刑にしたいのであります。これに対して32節に、筆者であるヨハネの注釈が記されています。それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。ここで「イエスの言われた言葉」というのは、12章に書かれていたことですが、主イエスが「わたしは地上から上げられる」1232)と言われたことを指していて、十字架に上げられることを予告されていたのであります。
 
このようなやりとりがあって、結局、ピラトは主イエスを引き取って、裁判をすることになります。ここで、一つの言葉に注目したいと思います。30節にある「引き渡し」という言葉であります。35節でも、「お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ」というピラトの言葉がありますし、36節でも、主イエスが「わたしがユダヤ人に引き渡されないように」と言っておられます。これはいずれも、ユダヤ人たちが主イエスをピラトに引き渡した、ということで用いられているのであります。この言葉は、以前にもお話ししたことがありますが、イスカリオテのユダが主イエスを捕えようとしていた人に引き渡した時にも使われている言葉で、「裏切った」とも訳される言葉であります。しかし、カール・バルトが指摘しますのは、この「引き渡す」という言葉は、そのような悪い意味で用いられるだけではなくて、「福音を引き渡す」、つまり、〈福音を伝えて伝道する〉という場合にも使われる言葉だということです。更に言えば、神様が御子イエス・キリストを十字架に架けるという形で、私たちのために「引き渡された」という意味が込められている、と言うのであります。ここでは、確かにユダヤ人たちが主イエスをピラトに「引き渡した」のであります。しかし、その背後には、神様が主イエスを私たちに「引き渡された」という意味があるし、更に言えば、主イエスが、罪からの救いを、全人類のために「引き渡した」という意味が込められている、ということであります。この時ここで行われていることは、祭司長やファリサイ派の人々の妬みで起こされたことであり、ピラトの自己保身のために起こったことであるのですが、そのことの背後に神様の計り知ることの出来ない救いのご計画と主イエスの深い愛が込められているということを、この「引き渡し」という言葉から聴き取ることが出来るのであります。今日の説教の題を「主イエスの引き渡し」といたしましたが、それは、〈主イエスがピラトに引き渡された引き渡し〉という意味と共に、〈主イエスが私たちを罪の底から救いへと引き渡してくださった引き渡し〉という意味も含めているのであります。十字架の出来事というのは、そのように、人間の罪が起こしたことでありますが、神様はそれを逆転して、救いの御業にしてくださったのであります。そこに、大きな恵みがあります。

2.「お前がユダヤ人の王なのか」――真の王は誰か

さて、引き渡しを受けたピラトは、法に基づいた裁きをしなければなりませんから、33節にあるように、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問いたします。もし、主が自分のことを王だと主張するなら、明らかな国家反逆罪としてローマ法によって裁くことが出来るからです。
 
このピラトの問いに対して主イエスは、「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」と問い返されます。これは、主イエスが「わたしは王である」と答えると、すぐ反逆罪だと決めつけられるのを避けるために言われたようにも受け取れますが、よく考えると、大変厳しい問いかけであります。ピラトは、本当は主イエスに反逆罪を認めているわけではないのですが、ユダヤ人たちのご機嫌をとるために裁判をしているだけであります。本当に何が正しくて、主イエスが何をされようとしているのか、どのようなお方であるのかを突き止めようとしているわけではないのです。主イエスはそのようなピラトの態度を厳しく問われたのであります。
 この問いは、ピラトに対する問いですが、私たちに対する問いかけでもあるのではないでしょうか。私たちは他の人の意見ではなくて、自分の考えで主イエスが誰であるのかを問われているのであります。「イエス・キリストはあなたにとって誰なのですか、あなたにとっての王なのですか」と問いかけられているのであります。ここでは、「聖書ではキリストが王とされています」と答えても意味はありません。「世の中では、キリストを王とする人は少ないです」と答えても意味はありません。私自身が主イエスを王とするのかどうかが問われるのであります。問われるというよりも、「あなたは、本当に私を王として生きているか」、「他のものや他のことを大事にして、私を王としていないのではないか」と問い質されているのではないでしょうか。
 
ピラトは主イエスを尋問しております。しかし、ここで尋問されているのはピラトの方であり、また私たちの方であります。ピラトは苦し紛れに、35節で言い返します。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」――ピラトは主イエスの問いから逃げようとしています。ユダヤ人の内部の問題であって、自分には関わらない問題だとします。私たちも、主イエスの問いにまともに答えようとせずに、逃げ腰なのではないのか、ということが問い質されます。私たちは主イエスとの間に距離を置いてはいないでしょうか。自分の生き方の中で、主イエスを自分の王として位置付けることを避けた生き方をしてしまっているのではないでしょうか。ピラトは「わたしはユダヤ人なのか」と言いました。私たちも口には出さないかもしれませんが、「私はクリスチャンなのですか」と問い返すにも等しい生き方、曖昧な教会生活をしてしまっているのではないでしょうか。

3.「真理とは何か」――わたしは真理である

「いったい何をしたのか」というピラトの質問に対して、主イエスは36節でこうお答えになります。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
 ここで主イエスは「わたしの国」ということを3回おっしゃっています。主イエスがその国の王であることを、はっきりと認めておられます。しかし、「わたしの国は、この世には属していない」ともおっしゃいます。地上に領土を持ち、この世の権力や軍事力や経済力で治める国とは違うということです。「もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう」と言われます。前夜に、主イエスが逮捕された時、ペトロは剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その耳を切り落としました。その時、主イエスは「剣をさやに納めなさい」と言って、戦うのを止めさせられました。それは、主イエスの国が力をもって治める国ではないことを示しています。しかし、主イエスが治められる国があるとことを明言しておられます。それは、この世の権力や軍事力や経済力でではなく、愛によって治められる国、神の国であります。
 主イエスが「わたしの国」と言われたので、ピラトは、「それでは、やはり王なのか」と言いますと、主イエスはお答えになります。「わたしが王だとは、あなたがたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」――「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」という答えは、「ただ、あなたがたが言っているだけです」と否定的に言っておられるようにも受け取れますが、「あなたがたが言うようなこの世の王とは違うけれども、真理を証しするための国の王だ」という意味で肯定されたのであります。肯定されただけではありません。「真理に属する人は皆、わたしの声に聞く」と、主イエスが王である真理の国の人は皆、主が語られる真理の言葉に聴き従うのだということを述べられました。主イエスはかつて、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ146)と言われました。また、「わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか」(ヨハネ846)ともおっしゃいました。主イエスは神の愛の真理を語り続けて来られましたし、語られるだけではなく実行されて来ました。しかし、その真理の御言葉と御業で御支配される国に属して、その声に耳を傾ける人はどれだけいるのでしょうか。
 
ピラトは最後の38節で、「真理とは何か」と言っております。これは真剣に問うたのではありません。茶化しているのであります。《真理なんて何の役に立つのか、真理なんて誰にも分かりはしない。力をもって支配しているという事実だけが真理だ》とうそぶいているのでありましょう。そう言って、ピラトは真理に目を開こうとはせずに、結局、このあと、民衆の声に押されて、自分の身を守るために、主イエスを十字架刑に定めることになるのであります。それがピラトの真理でありました。けれども、その十字架こそが、神様の愛の真理でありました。私たちをも含め、多くの人々が、このような無責任な生き方をする中で、主イエスお一人が真理の道を歩まれたのであります。

結.引き渡された私たち

今日は、主イエスが総督ピラトの尋問を受けられた場面を見て参りました。この場面で起こっていることは、結局何だったのでしょうか。そして、今日、この礼拝で起こっていることは何なのでしょうか。ここで起こっていることは、ピラトという当時のユダヤを牛耳る最大の権力者と主イエスの出会いであります。しかし、この出会いは、地上のすべての者のキリストとの出会いを象徴していると言えるかもしれません。ピラトは「わたしは真理である」とおっしゃる神の国の王と出会っていて、主イエスの正しさを認め、正しく裁く機会を与えられているのですが、結局、自分を守るために、主イエスを十字架に追いやってしまい、真理の道を歩まずに終わるのであります。私たちも主イエスに出会いながら、同様のことをして来てしまったのではないか、主の恵みをつまみ食いするような生活をしてしまっているのではないでしょうか。しかし、このピラトの決定を通して、神の真理が行われ、主イエスの神の国の御支配が確立することになるのであります。
 
主イエスはピラトに引き渡された結果、十字架にお架かりになります。しかし、そのことによって、私たちは神の国の一員として引き渡されることになるのであります。そこから、主イエスを王として神の国に生きる輝かしい人生が始まるのです。それが、この時に起こったことであり、この礼拝においても起こっていることであります。オリンピックで金メダルをとる人生や、コツコツと研究を重ねてノーベル賞を受ける人生も輝いています。しかし、主イエスを王として神の国に生きる人生に優る輝かしい人生はないのではないでしょうか。
 
祈りましょう。

祈  り

生きた真理であり給うイエス・キリストの父なる神様!
 
私たちは主イエスと出会い、罪の裁きを受けながら、主イエスを自分の都合で裁いてしまう傲慢な者であることを思わされます。そのような者をもお見捨てになることなく、真理の道を歩ませようと、主イエスを十字架へと送ってくださいました。どうか、この主に従って、真理の道を歩んで、神の国に入る者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2014年2月16日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書 18:28−38a
 説教題:「
主イエスの引き渡し」         説教リストに戻る