序.「あなたも弟子の一人か」

先週に続いて、ヨハネによる福音書から御言葉を聴きます。先週は、181214節と1924節の箇所で、主イエスが捕えられて大祭司アンナスのもとで尋問を受けた場面でありました。今日は、先週飛ばした1518節と、すぐ後の2527節ですが、ここは、先週の大祭司による尋問の場面と同時並行して進行していたことで、弟子のペトロが主イエスを知らないと言ったことが記されている箇所であります。
 
これは共観福音書のいずれにも記されていることで、皆さんもよく御存知のことでありますが、4つの福音書がどれも記しているということは、聖書が記された頃の初代の教会において大変重要なことと認識されていたからでしょう。というのも、ペトロが教会の中で大変重要な役割を担う人物になっていたと考えられ、初代教会の活動を記した使徒言行録でも、最初はペトロの働きを中心に書かれているのでありますが、そのペトロが、主イエスの逮捕と十字架の出来事においては、主イエスを知らないと言って裏切ってしまったということだからであります。そのことを重要なことと考えているのは、もちろん、そうしたペトロの過去の失敗を批難するために記しているのではなくて、そのような弱さを持つペトロが、主イエスの復活の後、もう一度弟子として召し出されて、今や、教会の中で大きな働きをしているという、主の驚くべき恵みを語りたいからであります。
 その恵みというのは、ペトロにだけ与えられたことではなくて、他の弟子や信徒にとっても、同様に与えられたことで、自分たちも主イエスを裏切るような弱さを持つ者でありながら、今は主に仕える者として用いられているという恵みを覚えているのであります。ですから、このペトロの失敗の物語は、教会にとって欠かすことの出来ない大きな恵みの財産であったのであります。そして、そのことは、今日の教会にとっても同様でありますし、私たち一人一人の信仰生活においても、かけがえのない財産なのであります。
 今日の説教の題は、「あなたも弟子の一人か」といたしました。これは今日の箇所の17節で門番の女中がペトロに言った、「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」という言葉から取ったものです。これはまた、25節で人々がペトロに、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言った言葉とも殆んど同じであります。このペトロへの問いかけは、今の私たちにも、私たちの信仰生活の中で、あるいは日常生活の中において、絶えず問いかけられている問いではないでしょうか。ここで問いかけているのは、門番の女であり、「人々」と書かれているような不特定の人たちでありますが、それは私たちが日常生活で接する、諸々の人々を代表しています。そのような人々と接する中で、私たちは一体、日々、主イエスの弟子としての生活をしているのでしょうか、世の中の人々に向かって、自分の立場を明らかにしているのでしょうか。
 ペトロがこのような状態に追い込まれたのは、決して偶然のことではなくて、既に主イエスは最後の晩餐の席で、ペテロの否認をはっきりと予告しておられました。ですから、この問いは、たまたま門番の女やそこにいた人々が問いかけたというよりも、ペトロに対する主イエスからの問いかけでもあったと言ってよいのであります。
 
そして今日、私たちも、主イエスから問いかけられているのであります。「あなたも弟子の一人か」と。――私たちは何と答えるのでしょうか。そのことを考えながら、今日の箇所を見て行きたいと思います。

1.門の外に立っていた

さて、15節に、シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った、とあります。ここで「もう一人の弟子」とありますが、他の福音書ではこの場面には出て来ません。これが誰であるかについては議論があって、定説はありません。他にヨハネ福音書では「イエスの愛しておられた弟子」という言い方があちこちで出て来ます。これは、この福音書を執筆したヨハネではないかと言われますが、ここの「もう一人の弟子」は大祭司の知り合いだった、と書かれていますから、十二人の弟子の中にそんな人物がいたとは考えられない。ですから、もう少し広い意味の「弟子」ではないかと考えられます。いずれにしろ、ペトロと「もう一人の弟子」は、他の弟子たちがどこかに行ってしまった中で、主イエスの様子が心配になったのか、捕われた主イエスを追って、大祭司の屋敷にやってきました。
 
ところが、「もう一人の弟子」の方は、大祭司の知り合いであったので、すぐに大祭司の屋敷の中に入ったのですが、16節によると、ペトロは門の外に立っていた、のであります。大祭司の屋敷ですから、警備上のこともあって、誰でも簡単に入れるということではなかったかもしれません。しかし、ペトロの方にも、中に入ることに躊躇する気持ちがあったことも想像されます。主イエスがどうなるのかは心配でここまで来たけれども、大祭司の屋敷の中にまで主イエスと一緒に入って行く勇気がなかったとも考えられます。そこに、ペトロの不徹底な気持ちが表れていると言えるかもしれません。
 
私たちの中にも、主イエスとの関係で、こういうことがあるかもしれません。主イエスのことは気になります。主イエスにお従いしたいという気持ちはあります。ペトロも主イエスが逮捕された時には、大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とすようなことをしました。それなりに勇敢に戦う心意気はあったように見えます。しかし、主イエスが逮捕されてしまった今、躊躇して「門の外に立って」います。これ以上、主イエスに従って行くことが、自分にとって得策かどうか、迷っているのであります。私たちも、どこかで、「門の外に立って」しまうところがあるかもしれません。主イエスと一緒なら、どこまでも従って行こうというところまでの気持ちの整理が出来ていないところがあります。ここで、「あなたも弟子の一人か」との最初の問いが私たちに投げかけられているのではないでしょうか。

2.「違う」/「わたしである」

ところが、先に屋敷の中に入った、大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、もう一度門の外に出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れました。そこでどういうやり取りがあったのかは分かりませんが、「もう一人の弟子」の方は〈顔パス〉で入れたのでしょう。その時一緒に入っていれば、問題なく入れたのかもしれませんが、ペトロは躊躇していたので、「もう一人の弟子が」引き返して来て、改めて門番の女に話して、了解を得たということでしょうか。
 
ペトロが中に入ると、門番の女中はペトロに言いました。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」――「あの人」というのはもちろん、主イエスのことですが、イエスの弟子であれば、中に入れないということでないことは、「もう一人の弟子」は何の支障もなく入れたことから分かります。ですから、門番の女中はとがめる意味で尋ねたのではなくて、むしろ、尋問を受けている主イエスの関係者かどうかを確認しただけかもしれませんし、あるいはガリラヤ出身のペトロの風采が見慣れないので、不審者でないかをチェックするためだったかもしれませんし、単にこの女中の好奇心から出た問いかけであったかもしれません。いずれにしろ、ペトロが主イエスの弟子であるかどうかで、入れるか入れないかの判断をするために尋ねたのではなくて、軽い気持ちで尋ねたのでしょう。
 
しかし、尋ねられたペトロの方は、不意の質問に動揺したのでしょうか、あるいは、こんな女中に正直に答える必要はないと考えたのでしょうか、咄嗟に一言「違う」と答えました。よく考えた上での答えではありません。裁判の成り行きを見届けたいといった強い考えがあったわけでもなくて、ただ無難に切り抜けようと思っただけかもしれません。主イエスを裏切ることになるとか、主イエスを否定しようという気持ちは毛頭なかったでしょう。しかし、この言葉は、ペトロと主イエスとの関係を表わす重大な発言でありました。
 
18章の最初の段落で、主イエスを逮捕しようとした人たちがやって来たときに、主イエスの方から率先して「だれを捜しているのか」と言われると、彼らは「ナザレのイエスだ」と答える。すると主イエスははっきりと「わたしである」と言われました。その原文は、英語で言うと、I amです。これに対して、この箇所でペトロが答えた原文は、英語で言うと、(Iam  notで、主イエスが言われた「わたしである」という言葉の否定の形になっているのです。それはもちろん、主イエス御自身を否定するような意味で言ったのではありませんが、ペトロ自身のこれまでの主イエスとの関係、これまでの生き方を否定する言葉になってしまっているのであります。そのことをペトロは気づいていなかったでしょうが、主イエスを否定することにつながるのであります。
 
このようなことは、私たちの日常生活の中でも起こることであります。私たちの中には主イエスを否定する気持ちや考えはないかもしれません。しかし、「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と問われた時に、あるいは、はっきりとそのように問われたわけではないが、キリストとの関係、教会との関係を問われた時に、はっきりとその関係を肯定することが出来ない時があるのではないでしょうか。それは、言葉でなく、行動で表れることもあります。日曜日をどう過ごすかということで、主イエスの弟子であれば、主の日には主の前に出て跪くのが当然であります。私たちは主の日ごとに、周囲の人から「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と問われているのであります。口に出して問うわけではありませんが、「あなたも、礼拝に行くのではありませんか」と、私たちの行動を見ているのであります。それに対して私たちは、行動において、「違う」と答えてしまっているのではないでしょうか。ペトロが主イエスを拒否するつもりがなくて、「違う」と言ってしまったように、私たちも、内心の不徹底さが、思わず行動に表れてしまうのであります。

3.彼らと一緒に立って

ペトロは、「違う」と言った後、どうしていたでしょうか。18節をみると、こう書かれています。僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。――そこにいた大祭司の僕や下役というのは、主イエスを逮捕するために遣わされた連中であったかもしれません。彼らにとっては、主イエスがどんな人物であるのか、大祭司による尋問がどうなっているのかは、どうでもよいことであったでしょう。務めを終えて、暖をとっているだけであります。そこにペトロも混じって、一緒に火にあたっているのであります。この情景について、ある人(遠藤勝信)はこう言っております。「ペテロもちゃっかり、大祭司の僕らのグループに加わっていたのです。・・・炭火を囲んでいるその場所には、不思議な交わりが形成されていました。暗さと寒さの中で、互いに肩を寄せ合い暖め合うこの世の交わりに、必死で自分を合わせようとしている信仰者の姿がそこにありました」と。私たちも、ペトロと同じように、言葉か行動か、いずれにしても、「違う」と表明して、この世の交わりの中に溶け込んで、主イエスの弟子たちとしての姿を表面には見せずに、この世の人たちと同じような姿になってしまっているのではないか。そこでは互いに肩を寄せ合い暖め合うというような、一見美しい交わりがあるのですけれども、「弟子の一人である」ことを止めてしまっている姿があるのであります。
 
ここに「炭火をおこし」という言葉があります。ライルという人の講解書を見ますと、「炭火」と訳されているギリシャ語は、ここと、主イエスが復活ののち、ガリラヤ湖畔で弟子たちに御自身を現わされた出来事を記したヨハネ219節だけに用いられているそうです。そして、復活の場で主が炭火を用意されたのは、ペトロに彼の失敗を思い出させるためであったと考える人がいることを紹介しています。それは想像に過ぎませんが、ペトロにとって、この日の「炭火」のことは、自分が主イエスを裏切ってしまったことと重なって、忘れ難いこととなったに違いありません。

4.鶏が鳴いた/この人々は去らせなさい

25節に進みます。シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。――先ほどの門番の女中とのやりとりと殆んど同じようなやりとりでありますが、今度は、門番の女一人ではなくて、「人々」であります。何人かの「人々」が口々に、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と問うたのであります。先程は、咄嗟の質問であったし、相手は一人の女中であったので、軽い気持ちで「違う」と言ってしまったと弁解できたかもしれません。しかし、今度はきっと大きい声で「違う」と言ったにちがいありません。
 
続けて26節では、もっと決定的なやりとりに進みます。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」――ペトロが主イエスと一緒にいたことを、最も強く目に焼き付けた人の言葉であります。そこではペトロは単に主イエスと一緒にいただけではない。主を捕えようとする人たちに対して最も果敢に向き合いました。その様子を見ていた人の言葉であります。しかし、ペトロは、再び打消しました。三度目の否認であります。マタイ福音書によれば、ただ打ち消しただけではなくて、「呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた(マタイ2674)と書かれています。こうしてペトロは主イエスとの関係を決定的に否定してしまうのであります。主イエスを捕えようとする人たちに果敢に向き合おうとしたペトロでありましたが、結局は、このような弱さを持っていたことが明らかになりました。このペトロの姿は、私たちの姿をも示しているのではないでしょうか。
 しかし、聖書は最後に一言、するとすぐ、鶏が鳴いた、と記します。それは、あの最後の晩餐の席で、主イエスがペトロに語られた御言葉を思い起こすために備えられた鶏の声でした。主イエスはペトロに、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われていました。しかしこれは、ペトロを責めるための予告ではありません。愛する弟子を偽りから目覚めさせ、悔い改めへ導き出すために備えられた御言葉でありました。
 
他の福音書によれば、ここでペトロは主の言葉を思い出して、激しく泣いたということが記されています。ヨハネ福音書はそのことを書いてはいませんが、ペトロが泣かなかった筈はありません。そして、主イエスが自分のことをどれだけ深くご存知であるか、ということを身に染みて覚えることが出来たのではないでしょうか。
 
このあと、ペトロは追及する人たちに捕えられることもなく、大祭司の屋敷の中庭から出て行ったようであります。主イエスは、前に聴いた8節のところで、捕えに来た人々に向かって、「わたしを捜しているのなら、この人々(弟子たちのこと)は去らせなさい」とおっしゃいました。そこには、御自分は十字架の道を進むが、弟子たちを決して失わないという主イエスの御決意があります。だらしないペトロであり、弟子たちであり、また私たちでありますが、主イエスはそのような弱い者たちを最後まで守り抜こうとされているのであります。

結.「一人も失いませんでした」/「わたしの羊を飼いなさい」

私たちはこのヨハネ福音書の最後に記されているガリラヤ湖畔での復活の主イエスと弟子たちの場面を知っています。先程18節の「炭火」という言葉で、そのことに少し触れましたが、主イエスは炭火をおこして、弟子たちのために朝の食事を用意しておられました。その食事が終わると、主イエスはペトロに、「この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われました。大祭司の中庭で、主イエスを否認してしまったことを思い出すと、「今度こそ、どんなことがあっても愛し抜きます」とは言えません。しかし、主イエスは決して自分をお捨てにはならないということを確信することが出来ました。だからペトロは、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。主イエスの愛が、自分の弱さ、罪を覆ってくださることを確信出来たからであります。すると、主イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われました。二度目にも主イエスは同じことを問われ、ペトロは同じ答えをします。そして三度目にも同じように問われたときには、ペトロは悲しくなりましたが、それは、ペトロが大祭司の中庭で三度「違う」と言ったことを取り消すための、主イエスの御心遣いであることが身に染みて分かったからでありましょう。
 
この福音書を書いたヨハネは18章の9節のところで、それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった、と記していました。復活の主イエスは、こうしてペトロをはじめとする弟子たちを、そして私たちをも、一人も失わないことを決心しておられるのであります。そして、弱い私たちにも「わたしの羊を飼いなさい」と優しく言ってくださるのであります。祈りましょう。

祈  り

私たちの弱さと罪を背負って十字架の道を歩み給うたイエス・キリストの父なる神様!
 
ペトロの姿を通して、私たちの弱さと罪深さを思い知らされておりますが、そのペトロをも赦して失われない、主の深い愛の恵みを覚えて、感謝いたします。
 
どうか、この御心のもとに生き続ける者とならせてください。どうか、主のみもとに行くまで、主のために仕える者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2014年2月9日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書 18:15−18、25−27
 説教題:「
あなたも弟子の一人か」         説教リストに戻る