「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。」              (ヨハネによる福音書1820 

 兵士たちとユダヤ人の下役たちは主イエスを捕えて縛った。当時の宗教指導者や政治権力者、そして民衆も、弟子も、主イエスを捕えて裁き、十字架に架けることに加担した。裁かれているのは神の子イエスである。では私たちはどうか。私たちも、聖書を読み説教を聞いて、主イエスに出会うが、そこで、主イエスを評価し、自分で納得でき参考になるところは受け入れるが、信じられないところ、素直に従うことができないところがあれば、そこは聞き流して、自分の判断で主イエスを裁いている。だから、私たちもまた主イエスを捕えて縛り、十字架へと追いやっているのではないか。だが、十字架の出来事全体の主導権を持っているのは、主を捕えようとしている者たちではなく、主イエスである。
 元大祭司のアンナスは、イエスに弟子のことや教えについて尋問すると、主イエスは標記のように答えられた。主はこれまで、誰が聞いているかなど気にせず、どこでも、いつでも、公然と世に向かって語って来られた。聞く人たちが、それを素直に受け入れなかっただけである。主イエスはこの答えによって、裁こうとする者たちの内側にある罪を明らかにしておられる。裁かれているのは、主イエスを捕えて十字架につけようとしている人たちであり、私たちである。
 このあと主イエスは、現大祭司のカイアファのもとに送られることになるが、この人は以前に、「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だ」と言ったことがある。(ヨハネ1150)それは、主イエスがラザロを生き返らせたことで主を信じる人が増えると、支配者のローマが危機感を抱いて、ユダヤを滅ぼしてしまう恐れがあるので、そうならないうちにイエスを殺してしまえば、国民全体が滅ぼされないで済む、という意味で言ったのである。しかし、そのようなカイアファの言った意味を越えて、期せずして神の救いの御業のことを指し示していた。主が捕えられ、十字架の死をとげられたことは、すべての者が滅びないで、永遠の命を得るためであった。(ヨハネ316)こうして、神の子を裁いた者たちが、罪の裁きを受けることから救い出されるという、恵みの裁きを受けることになったのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2014年2月2日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書 18:12−14、19−24 説教題:「裁かれる神の子」 説教リストに戻る