序.裁かれるのは誰か

今日与えられている聖書の箇所は、先々週に続く、主イエスの逮捕の場面(1214節)と、間のペトロの裏切りの場面を飛ばして、大祭司アンナスによる尋問の場面(1924節)であります。
 
主イエスの逮捕を企て、裁判にかけて、十字架に架けようとしたのは、祭司長やファリサイ派の人々であります。今日の箇所は前任の大祭司アンナスによる尋問で終わっていますが、このあと、現職の大祭司であるカイアファのもとに送られ(このカイアファによる裁判の場面については、なぜかヨハネ福音書は省略していますが)、最後は死刑の裁判権を持つローマ総督のピラトによって裁判が行われて(281916節)、十字架刑が確定するのであります。この一連の流れを、3回にわたって見て参りますが、その間に、ペトロの裏切りの出来事が、1518節と2527節に分けて挿入されています。
 
この一連の流れの中で、最初から主イエスを裁判にかけて殺そうとしていたのは、祭司長やファリサイ派の人々であり、最後に判決を下したのは総督ピラトでありますが、群衆も、初めは主イエスを支持していたのですが、祭司長たちに扇動されて、「十字架につけろ」と叫ぶようになります。そして、主イエスの弟子たちも、ユダをはじめペトロも裏切ってしまいます。このようにして、結局は、当時の宗教指導者も政治的権力者も、民衆も、そして弟子たちまでも、積極的に裁こうとしたか、やむを得ず裁いてしまったかの違いはありますが、主イエスを裁いて十字架に架けることに加担したのであります。ここで裁かれているのは、神の子主イエスであります。これら一連の流れは、神の子イエスが裁かれる出来事であります。
 これらの出来事を聖書から聴くに当たって、私たちが考えなければならないことは、私たちは主イエスをどう見ているかということです。私たちは、主イエスを裁いた人たちとは別で、何の責任もない立場にあるのだろうか、ということが問われるのではないでしょうか。
 
それと共に、筆者のヨハネが私たちに考えさせようとしていることは、ここで裁かれているのは誰か、ということであります。裁かれているのは、もちろん主イエスであります。しかし、なぜ神の子である主イエスが、裁かれて十字架に架けられるままになられたのでしょうか。それは主イエスが十字架において人々の罪を担うためであります。この一連の裁きを通して明らかにされることは、主イエスに十字架刑に値する罪があったということではなくて、十字架に架けた人たちの方にこそ罪があったということであります。そういう意味では、裁かれているのは主イエスであるよりも、主イエスを十字架に架ける決定に参加した人たちの方ではないでしょうか。そうであれば、その裁かれている人たちの中に、私たちも入っているということであります。
 
裁かれているのは誰か――そのことを問い続けながら、この一連の裁きの様子を見て行きたいと思います。そして、その中に込められている神様の恵みを聴き取って行きたいと思います。

1.イエスを捕えて縛った人たち

さて、先々週聴いた、すぐ前のゲツセマネの園での、捕えようとしてやって来た人たちと主イエスの向き合いの場面では、捕えようとしてやって来た人たちが主イエスの迫力に押されて後ずさりして、地に倒れたということが書かれていました。そこで表わされていることは、主イエスの逮捕は捕えようとしている人たちの主導で行われているというよりも、主イエスが積極的に十字架に向かって進んで行こうとしておられるということであります。181節から11節までの段落の小見出しは「裏切られ、逮捕される」となっていますが、ある人に言わせれば、この箇所の表題としては「裏切らせ、逮捕させる」の方が適切であると言うのであります。その主語はもちろん、主イエスであります。この出来事全体の主導権を持っておられるのは、主イエスであって、主を捕えようとしている人たちではないからであります。
 
今日の箇所に入りまして、12節には、そこで、一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕えて縛り、と書かれています。この「捕えて縛り」という言葉について、アウグスティーヌスが深い考察をしているということが、加藤常昭先生の説教に紹介されていました。それは、こういうことだそうです。彼らが主イエスに近づいて来たのは、主イエスを捕えて縛って、主イエスを十字架に架けて殺すためなのですが、アウグスティーヌスは、〈主を殺すためではなく、この方を心から受け入れるために近づくのであれば、どんなにかよかったことであろうか。だが、主を殺すために近づく者は、主から遥かに遠ざかっている。この方によって解き放たれるべきであるのに、この方を縛り上げてしまっている。しかし、もしかすると、この人たちの中で、後になって主イエス・キリストに解き放たれる喜びにあずかった人がいるかもしれない〉と言うのです。このアウグスティーヌスの言葉を紹介した上で、加藤先生は、〈主イエスを捕えようとして近づく者は、主イエスから最も遠いのであるが、そのような者が、やがて主イエスに捕えられ、自分が縛りから解放されることを体験する人がいるかもしれないと言うとき、そこでは、アウグスティーヌス自身の告白がなされていることは確かだ〉とおっしゃるのです。つまり、「イエスを捕えて縛り」という言葉の中に、主イエスによって捕えられ、罪から解放される自分を見ていると言われるのです。私たちも主イエスが捕えられて縛られるという出来事を見るときに、積極的に捕えられ縛られる主イエスの御姿を見るとともに、この主イエスの御業を通して、私たち自身の姿に気づかなければならないということです。私たちも、主イエスを捕えて自分の支配下に置こうとしているのではないか。だが、結局は主イエスによって捕えられて、主イエスを捕えようとした罪から解放される自分の姿を見ることのなるのだ、ということであります。

2.神の子を裁いた大祭司

次に、13節ですが、こう書かれています。まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。――このアンナスという人は、元大祭司であって、この時は既に大祭司でなくて、この時の大祭司は娘婿のカイアファでありました。しかし、アンナスはこの時にもかなり影響力を持っていたようで、主イエスを捕えた人たちも、まずアンナスのところへ連れて行ったのであります。ついでに、このアンナスによる尋問のあと、どうなったかというと、24節を見ますと、アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った、とあるのですが、このヨハネ福音書では、その後のカイアファによる正式の裁判のことは記されていまぜん。そのことは他の福音書に書かれているので、省略したのか、アンナスの尋問のことを記しておけばそれで足りると考えたのかもしれません。いずれにしても、それは大きな問題ではありません。
 
ここで大切なことは、当時のユダヤにおける宗教的・政治的指導者であり権力者である人たちによって、神の子であられる主イエスが裁かれたということであります。先程、アウグスティーヌスが、主イエスを捕えて縛った人たちと自分を重ねて考えていたことを紹介しましたが、私たちも(権力者ではありませんが)、主イエスを裁くということをしているのではないか、ということを思わされるのであります。私たちは聖書を読み、またこうして説教を聞いて、主イエスの御姿に出会うわけですが、そこに描かれている主イエスがおっしゃっていること、なさっていることの良し悪しを、自分が判断しようと思っているのではないでしょうか。主イエスのおっしゃったこと、なさったことで、良いところ、参考になるところは受け入れよう、しかし、自分にピンと来ないところ、自分には納得出来ないところや信じられないところ、素直に従うことが出来ないところがあって、それは聞き置くだけにしよう、というように、自分の判断で裁いていないでしょうか。それが、実は私たちと主イエスの関係の実態ではないか、ということであります。そして、アンナスやカイアファの裁きによって、主イエスが十字架にお架かりになったように、私たちの裁きもまた、主イエスを十字架へと追いやっているのであります。
 
14節は少し後回しにして、19節以下のアンナスの尋問について見て参ります。ここには、アンナスと主イエスの厳しいやり取りが記されています。他の福音書の裁判の場面では、主イエスは殆んどお話にならず、寡黙でありました。しかし、ここでは厳しいお言葉を語っておられます。
 19節によると、元大祭司のアンナスはイエスに弟子のことや教えについて尋ねた、とあります。死刑にしようとする人の罪状を明らかにするのに、なぜ、弟子のことや教えのことを尋ねる必要があったのかはよく分かりませんが、弟子のことを尋ねたのは、秘密結社や共謀罪の疑いがないかを聞き出そうとしたのかもしれませんし、教えのことを聞いたのは、律法に違反したり、神を冒涜するような教えがあれば、それを罪状にしようとしたのかもしれません。
 
この尋問に対して、主イエスは20節でこう言われます。「わたしはいつも、ユダヤ人が集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」――これは、今ここで弟子のことや教えのことを語ると不利になるから、こういう言い方をされたのでないことは明らかであります。主イエスはここまで見て来たように、十字架を恐れておられるわけではなく、むしろ積極的に十字架へと向かっておられるのであります。ここで、主イエスは、これまで誰が聞いているかなど気にせず、世に向かって公然と語って来られたことを強調しておられます。主は御自身が神の子であること、罪からの救いのことなどを、あらゆる機会に、誰に対しても包み隠さず話してこられました。しかし、大祭司をはじめ指導者たちはそれを素直に受け入れなかっただけであります。ここでもう一度、そんなことを話しても、彼らが耳を傾ける筈はありませんし、それが、死刑に当たる罪状になるわけでもありません。明らかなことは、大祭司をはじめとする人たちは、主イエスを亡き者にしたいだけであります。主イエスは、このお言葉によって、むしろ裁こうとする人たちの内側にある、そうした罪を明らかにしておられるのであります。
 22節を見ますと、この主イエスの言葉をそばで聞いていた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事の仕方があるか」と言って平手で打った、とあります。確かに、普通の裁判で被告がこんな言い方をすれば、裁判官に対して失礼なことであります。しかし、ここでは神の子がその権威をもって語っておられるのであり、その御言葉に尋問をする側の人たちが負けているのであります。彼らの方に正当性がないので、暴力に訴えるしかなかったのであります。
 
主イエスは23節でこう語られます。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」――このお言葉によって、訴える側に何の正当性もないことが明らかになりました。裁こうとしている人たちを神の子が厳しく裁いておられるのであります。そして、この主イエスの御言葉は私たちに対する裁きの言葉でもあります。私たちも、聖書を通して、主イエスの御言葉を何度も聞いて来たのでありますが、それを素直に受け入れようとせずに、裁こうとしています。私たちは暴力こそ振るいませんが、この訴える者たちと本質的には同じことをして来たのであります。しかし、主イエスはそんな私たちの罪を暴かれるだけではありません。これから、その罪を御自分で担おうとされているのであります。そのことを、大祭司をはじめ、訴える人たちも知らなければなりませんし、私たちも知ることになるのであります。

3.国民全体が滅びないで済む

ここで14節に記されていることに戻ります。一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった、と記されています。この助言というのは何のことを言っているかというと、この福音書の1150節で、大祭司カイアファが言った言葉であります。この言葉は、その前に、主イエスが死んだラザロを生き返らせたという出来事があって、それを目撃したユダヤ人の多くが主イエスを信じるようになったことで、祭司長やファリサイ派の人たちが危機意識を抱いて、最高法院を召集して対策を話し合った時に、大祭司カイアファが言ったことです。この発言の直接の意味は、主イエスのなさった奇跡がきっかけで、国民が皆主イエスを信じるようになると、支配者であるローマが危険感を抱いて、ユダヤの国を滅ぼしてしまう恐れがある、だから、そうならないうちに主イエスを殺してしまえば国民全体が滅ぼされずに済む、ということでしょう。しかしその言葉は、発言者カイアファの言った意味を越えて、神様のなさろうとしていることを言ったのだと、ヨハネ福音書の記者は考えているのであります。つまり、主イエスが十字架にお架かりになって死なれたことは、罪深い人々全体の代わりに死なれたのであって、その贖いによって全ての人が救われるという良い結果がもたらされた、ということであります。これは福音書記者が考えたというよりも、初代教会の中で、そのように理解されるようになっていたということでありましょう。こういう理解があるので、ヨハネ福音書は有名な316節以下でこう語ります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(31617
 
祭司長や律法学者たちは主イエスを裁いて、十字架につけてしまいました。そのことで主イエスを殺した人々が当然、神によって裁かれるべきでした。ところが神は、逆に彼らを裁かれずに、彼らが滅びから救われることになったのであります。この逆転の逆転が起こったのが、十字架の出来事でありました。
 
私たちもまた、主イエス御言葉や御業を自分の中で裁いて、主を十字架につけるのと同様なことをしてしまっております。そのことで、私たちは神さまの御怒りを受けて、滅ぼされるべき者であります。しかし、神さまは御子の受けられた苦しみをもって、私たちが裁かれたことにしてくださり、私たちを赦してくださり、永遠の滅びから救い出して、永遠の命を与えてくださるというのです。大祭司カイアファの言った言葉は、計らずも、その神の恵みの裁きのことを指し示しているということであります。

結.主こそ裁き主、大祭司

今日最初に、この箇所は私たちに、「裁かれるのは誰か」という問いを投げかけている、ということを申しました。裁いているのは大祭司であり、律法学者・ファリサイ派の人たちであり、ユダヤの国民であり、ローマ総督が代表するこの世の権力者たちであり、裁かれているのは神の子主イエスであります。しかし、このことを通して、本当に裁かれるべきは、主イエスを裁いて十字架に架けた、この世のすべての人たちであり、その中には、大祭司をはじめとする権力者たちはもちろん、主イエスを裏切った弟子たちや主イエスを自分の考えや自分の利害で裁いてしまっている私たちも含まれているのであります。その裁きをされるのは、神であります。私たちは、その神の裁きのもとで、滅びるしかない者たちであります。しかし、神は、神の子キリストが裁かれ十字架で殺されたことによって、私たちを罪の裁きから救い出すという、恵みの裁きをしてくださったのであります。ですから、真の裁き主は神様であり、身をもって救いの御業をしてくださった主イエスであります。
 
大祭司というのは、本来は民に代わって贖いの供え物を献げる役目を担った人であります。今、元大祭司のアンナスと現大祭司のカイアファが主イエスを裁いています。しかし、その裁きの結果、神に供え物を献げるという本来の大祭司の役目をなさったのは、主イエスでありました。主イエスこそ、本当の大祭司であります。ヘブライ人への手紙は大祭司キリスト論を展開していますが、最後にその一部に耳を傾けましょう。ヘブライ人への手紙726節以下です。
 
このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天より高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司にしたのです。(ヘブライ72628
 
祈りましょう。

祈  り

真の大祭司イエス・キリストの父なる神様!
 
私たちは、あたかも自分が大祭司であるかのごとく、御子の言葉や御業を裁いておりますが、その御子こそ私たちの裁き主であり、私たちに代わって自らを贖いの供え物として献げてくださる真の大祭司として、私たちを救い出してくださいましたことを感謝いたします。
 どうか、私たちの傲慢な罪を御赦しください。そして、真の大祭司であり裁き主であるお方の許にぬかずき、全てを委ねて仕える者とならせて下さい。どうか、主イエスに出会った者が一人も滅びることなく、救いに入れられますように、お計らいください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2014年2月2日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書 18:12−14、19−24
 説教題:「
裁かれる神の子」         説教リストに戻る