義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。                       (ペトロの手紙二 2:21 

 ペトロの手紙二の宛先の教会には偽教師と呼ばれる人が現れて、異端を持ち込んでいた。彼らは、「自分たちを贖ってくださった主を拒否しました(1)とあるように、十字架による贖いの御業を否定し、「真理の道はそしられる(2)とあるように、「真理の道」であるキリストの教えをないがしろにし、「自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です(19)とあるように、律法からの自由をはき違えて、不道徳でみだらな言動をしていたようである。
 このような異端者の出現は決して他人事ではない。教会が順調に発展している時には、指導者のうぬぼれや心の闇が原因で、挫折や分裂や不道徳に陥ることがある。一方、伝道が行き詰っている時には、苦し紛れに、表面的な楽しさや感動を求めて、真理の道を逸れてしまうことがよくある。
 こうしたことについて、「このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません(3)と述べて、神の容赦ない裁きの実例を挙げる。いずれも創世記に記された出来事であるが、一つは、罪を犯した天使が地獄に引き渡されたこと、二つ目は、ノアの洪水の物語、三つ目は、ソドムとゴモラの町を灰にして滅ぼし尽くして罰せられたことである。
 だが、これらの裁きにおいても、大洪水の中で神は「義を説いていたノアたち八人を保護なさった(5)し、「正しい人ロトを、助け出され(7)た。「主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられ(9)るのである。
 標記の「義の道」とか、「聖なる掟」から離れない生き方というのは、決して喜びのない、掟に縛られた奴隷のような状態ではなく、心に闇や弱さを持ちながらも、キリストの十字架によって罪の奴隷から解放され、「愛によって互いに仕え合う」(ローマ513)という、自由で喜びに満ちた生き方のことである。

主日礼拝説教<要 旨> 2014年1月26日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙二 2:1−22 説教題:「義の道と滅びの道」 説教リストに戻る